2011年8月28日日曜日

西谷墳墓群 その4

図は予想される弥生・古墳時代の出雲平野ですが、斐伊川は西流して「神門水海旧神在湖)に流入しており、宍道湖の西岸も現在よりも5キロほど西にあり、斐川町直江付近であったことが考えられています。

出雲平野の象徴とも言える仏経山を中心とする5~6キロ以内には、西出雲の重要な遺跡が集中しています。

図では割愛していますが仏経山の北北西14キロに出雲大社があり、出雲大社を除外しての出雲神話は存在しないと言ってよいでしょう。

それを端的に表しているのが寛文5年(1665)に、出雲大社の境外摂社・命主神社背後の真名井遺跡で銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本・勾玉1個が出土したという記録が残っていることでしょう。

現存しているのは銅戈1本と勾玉1個だけで、当時、正確に銅剣・銅矛・銅戈の区別がされていたようには思えません。銅剣・銅矛が現存していたらこの地に出雲大社が存在するようになった理由を解明する格好の手懸りになりそうですが、現存していないのが残念です。

東南東5キロの神原神社古墳は卑弥呼に賜与された百枚の銅鏡ではないかとされる、景初3年銘のある三角縁神獣鏡が出土したことで知られています。しかしこの古墳は4世紀のもので卑弥呼と関係があるようには思えません。

西5キロには出雲市の今市大念寺古墳があります。付近は上塩治築山古墳など古墳の密集地帯になっており、西谷墳墓群に続く古墳時代の出雲の中心であったことが考えられています。この密集する古墳の被葬者については神門川流域の神門郡を本貫とする神門臣の一族が考えられています。

神門臣の一族に出雲郡健部郷の健部臣がありますが、言うまでもなく健部郷には荒神谷遺跡があります。荒神谷遺跡に青銅祭器が集まったについては神門臣やその一族の遠祖が関与したことを考える必要もありそうです。

律令制出雲国の中心は東部の意宇郡ですが、出雲国出雲郡の郡衙(郡役所)は出雲郷(斐川町求院付近)にありました。図で言えば仏経山と西谷墳墓群の間の、斐伊川沿いの地域になりますが、国名・郡名・郷名までもが「出雲」だということは、かつてはこの地が出雲国の中心であったということでしょう。

出雲郡神戸郷は出雲郷の北の平野部になりますが、出雲大社の神戸(神領)だということでしょう。神戸から出される租・庸・調(税)は神社の造営費用や供神料に当てられましたが、その名残が斐川町の「千家」という地名のようです。

千家は出雲大社の祭祀者で出雲国造とも称される千家氏のことでもあるようで、古く出雲国造は松江市大庭の神魂神社の祭祀を行っており、神魂神社付近に「国造館」という建物がありました。

斐川町の千家という地名については神魂神社や熊野大社の祭祀と関係があると言われていますが、詳しいことは分かっていないようです。斐川町千家付近が神戸郷であることから見て、出雲国造が神魂神社や熊野大社の祭祀を行うための費用・労務を負担していたようにも思われます。

出雲国造は『類聚三代格』に「慶雲三年以来令国造帯郡領」とあり、慶雲3年(706)から延暦17年(798)まで出雲国造と意宇郡の郡司を兼帯しており、神魂神社のある大庭で意宇郡司として執務したことが考えられます。

その後の出雲国造は意宇郡の郡司職を一族の者に譲り、出雲大社の祭祀に専念するようになると言われています。国造の代替わりの儀式である「火継式」が熊野大社と神魂神社で行われるのは、かつては意宇郡司を世襲していたことを表していると考えることもできそうです。

弥生時代後期後半(180~270年ころ)の出雲の中心は仏経山の周辺のようですが、それを支配していたのが西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者だと考えることができそうです。それがスサノオから大国主に至る7代の出雲の神になることが考えられ、それらの神を祀る立場にあるのがアメノホヒ(天穂日)の子孫とされている出雲国造だということになってきそうです。

2011年8月21日日曜日

西谷墳墓群 その3

山陰・吉備の青銅祭器の祭祀は倭国大乱以後も続いていた考えていますが、その時期に吉備では盾築墳丘墓に代表される特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が急に巨大化します。

四隅突出型墳丘墓のビッグ5を挙げると次のようになります。これらは古墳時代の墓である古墳ならそう大きいとは言えませんが、弥生時代のものとしては岡山の盾築墳丘墓を除くと全国でも最大で、そのうちの4基が西谷墳墓群にあります。

① 出雲市西谷墳墓群9号墓  61m×55m×5m
② 鳥取市西桂見墳丘墓    約60m 消失
③ 出雲市西谷墳墓群3号墓  52m×42m×4、5m
④ 出雲市西谷墳墓群4号墓  47m×45m×3、5m
⑤ 出雲市西谷墳墓群2号墓  46m×29m×3、5m

西谷墳墓群は6基の四隅突出型墳丘墓、21基の円墳・方墳、3つの横穴墓群から成りますが、その立地から見て斐伊川下流域を勢力基盤とし、出雲平野や斐伊川流域に影響力を持っていた一族の墓域であることが考えられます。

6基の四隅突出型墳丘墓の年代は倭国大乱から古墳時代初頭と考えられており、1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になるということです。それは前回・前々回に述べた、他地域に先立って山陰や吉備から青銅祭器が「姿を消した」とされている時期に当たります。

2号墓は当初小規模なものだと考えられていましたが、発掘調査の結果意外に大きな墓であることが分かってきました。そして南に隣接する3号墓とは、極めて近い時期のものであることも分かり、6基の四隅突出型墳丘墓ごく短期間に築造された考えられています。

私は90年間隔で時代が変転していると考え、倭国大乱を180年ころとし、古墳時代の始まりを270年ころとするのが良いと思っていますが、その間に6基が順次に築造されたと仮定すると15年間隔で築造されていることになります。

3号墓では中央の墓壙上で260点にも上る大量の土器が出土しましたが、その出土状況から神社の神事で行われる「直会、なおらい」のような「共飲共食」の葬送儀礼が行われたことが考えられています。

3号墓から出土した土器の3分の1は吉備や北陸~丹波地方のものだということで、山陰と吉備、そして山陰と北陸~丹波地方の間には様々な共通点があり、首長間に交流があったことが考えられています。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたもので一部省略していますが、西谷墳墓群に吉備や北陸~丹波地方の土器が集まっていることが説明されています。赤色が吉備の特殊器台・特殊壷の分布です。

これは西谷墳墓群だけでなく、青谷上寺地遺跡を始めとして山陰各地で確認されており、密接な関係があったと考えられています。四隅突出型墳丘墓の分布と特殊器台・特殊壷の分布が中国山地で接触していることに注意が必要なようです。

大国主の神話は一面で因幡の八上比売、越(北陸地方)の沼河比売、紀伊と関係の有りそうな須勢理比売を「妻問い」(つまどい、求婚)する物語だと言えますが、倭人伝は大人と呼ばれる階層が四・五婦を持っていると記しています。多くの妻を持つことはそれだけ女系(母系)の同族が多いということで、勢力の強いことを表します。

西谷墳墓群の被葬者の通婚圏は吉備や北陸~丹波地方にまで及んでいたのでしょう。私は大国主について銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖だと考えていますが、図には大国主の妻問いの物語の時代背景が説明されているとも言えそうです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の時期とスサノオから大国主に至る6代の神の活動時期とは、共に倭国大乱から古墳時代初頭だと考えています。西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者が、6代の神のモデルになっていると考えることができそうです。


2011年8月14日日曜日

西谷墳墓群 その2

青銅祭器が埋納される時期ついての通説では、中広形の武器形祭器と「聞く銅鐸」の段階で一度埋納され、さらに広形の武器形祭器と「見る銅鐸」の段階でもう一度埋納されて、2度の埋納時期があるとされています。

荒神谷遺跡でも中広形銅剣b類と最古形式の近畿Ⅰ式銅鐸が隣り合わせで出土していて、中国・四国地方の青銅祭器は第一段階で埋納されたように思えます。しかし私は中国・四国地方の青銅祭器の祭祀その後も続く考えています。

その根拠は多くは有りませんが、出雲平野の北部に位置する出雲市青木遺跡で銅鐸の「飾耳」と言われている部分が副葬品として出土しています。通説では銅鐸片は鋳造の原材料だと考えられています。

青木遺跡の場合には埋葬された若い女性の頭部から出土しており、被葬者のアクセサリーではないかと言われています。銅鐸片が鋳造とは無関係の場所から出土していますが、銅鐸片には同時期の銅鏡片と共通する点があります。

福岡県平原遺跡の直径46,5センチの大鏡は当初4面だと考えられていましたが、成分々析の結果5面であることが分かりました。副葬された時点ですでに破砕されており大部分が無かったのですが、銅鏡片として配布されたとも言われます。

巨大な鏡が造られる一方で、この時期には直径5センチ程度の小型仿製鏡や、後漢鏡などを数個に分割した「分割鏡」が造られています。これらの銅鏡は絶対数の不足した大型鏡を補うために造られたとされています。

銅鐸にも同じ傾向が見られ、滋賀県小篠原1号鐸は135センチにもなりますが、その一方では三遠式銅鐸分布圏の東側の東海・関東を中心に10センチ以下の小銅鐸が見られるようになり、また各地に銅鐸片が現れてきます。

小銅鐸は中期に朝鮮半島からもたらされた「朝鮮式小銅鐸」とは別系統のもので、中には副葬されたものもあって一般の銅鐸とは性格が異なると言われていますが、通常の銅鐸とは異質の祭祀が行われたことが考えられます。

銅鏡は有力者の個人的な所有物であり銅鐸は宗族の共有物なので、銅鐸が副葬されることはありませんが、この時期には小銅鐸・銅鐸片を小型仿製鏡・分割鏡のように個人的に祀る者があり、銅鐸の絶対数が不足したことが考えられます。

中国では宗族が合流することを「連宗」と言い、連宗した宗族には一つの社会を形成できるほど巨大なものがありました。倭人の部族は中国の冊封体制に組み込まれたことにより王を擁立するための組織になり、宗族も連宗することによって規模が大きくなって、後に古墳時代の氏族になることが考えられます。

中国の宗族には特に族長を出す家系は無く、族長は年長者の中から選ばれるということですが、倭人伝には「尊卑各差序有り、相臣服するに足る」とあります。後期後半から終末期の倭人の宗族の場合には族長を出す家系が存在したと考えてよいように思います。

青銅祭器が大型化することは、部族が巨大化すると共に配布を受ける側の宗族の規模も時代が下ると共に大きくなるということでしょう。それに伴って身分差が大きくなり、それに応じた役割の分担があったことが考えられます。

族長を出す家系、あるいは祭祀を担当する家系が、本来は宗族の共有物である銅鐸を個人的に祀るようになることが考えられます。また青銅祭器の製作には宗族も相応の費用・労力を負担したでしょうから、規模の小さな宗族は巨大な銅鐸を入手することができなかったでしょう。

そこで10センチにも満たない小銅鐸が造られ、また一方では銅鐸片が造られ、特定の家系が個人的に祀るようになることが考えられます。大津遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、倭国大乱以後にも青銅祭器の祭祀は続いていたということだと考えます。

銅鐸片には銅鐸の「鰭」「飾耳」と呼ばれている、剥離し易すく原形をあまり損なわない部分が利用されることが多かったのではないかと思います。剥離された銅鐸片と元の銅鐸は一個の銅鐸と見なされており、「連宗」があったと考えると面白くなってきます。

2011年8月7日日曜日

西谷墳墓群 その1

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたものですが、私はこの図に出雲神話が集約されていると思っています。右下に図の説明がされていますが、字が小さくて読み難いので右側に書き出してみます。

神庭荒神谷遺跡に青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国にも先駆けて吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した。しかし、ほかの地域は青銅器そのものをさらに巨大化させることによって、青銅の神をまつり続けようとしていた

図には山陰や吉備で銅剣・銅鐸が姿を消した弥生時代後期後半の状態が示されていますが、北部九州と四国西部に広形銅矛が分布し、近畿と四国東部にⅣ式・Ⅴ式の近畿式銅鐸が分布し、東海西部に三遠式銅鐸が分布するようになります。

3世紀後半にすべての青銅祭器が姿を消して古墳が出現しますが、山陰や吉備では古墳の出現に先立って青銅祭器の祭祀をやめて墳墓の祭祀に変えた、周囲ではその後も青銅祭器の祭祀は続いていたと説明されています。

青銅祭器の祭祀に替えて吉備では特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が特に大型化しますが、それが「王の神格化に成功した」と述べられています。

荒神谷遺跡の銅剣358本は岩永省三氏の分類による中細形c類で、中期末~後期初頭のものと言われています。銅矛16本は2本が中細形で、2本が中広形a類、12本は中広形b類だそうですが、中細形は中期後半のものであり、中広形は後期前半のものだとされています。

銅鐸6個は最古形式のⅠ式が2個、古形式のⅡ式が4個ということで、中期のものとされています。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個には荒神谷の銅鐸に続くⅡ式・Ⅲ式が多く、Ⅳ-1式も3個あるということですが、Ⅳ-1式以後の新形式の銅鐸が見られなくなります。

出雲国の青銅祭器は荒神谷の12本の中広形銅剣b類、加茂岩倉のⅣ-1式銅鐸を最後として姿を消しています。瀬戸内海沿岸に分布する平形銅剣もⅠ式とⅡ式に分類され、Ⅱ式は広形銅矛に平行する時期のものではないかとも言われていますが、やはり同じころに姿を消すようです。

荒神谷遺跡の中広形銅矛b類は後期前半の末期に鋳造されたとされていますから、それが埋納されるのは後期後半でなければいけません。上図には後期後半の状態が示されていることになります。

通説では後期の始まりは1世紀中葉とされていますが、私は107年に面土国王の帥升が遣使したことが原因になって中期から後期に移っていくと考えています。しかし後期の終わりは270~80年ころと考えるので、後期中葉は通説と大差はなく2世紀末の倭国大乱、卑弥呼が共立されたころになると考えます。

九州の銅戈は中広形の段階では銅矛を凌駕する数が鋳造されていますが、広形になると激減しています。その原因については倭国に大乱が起きて面土国王から卑弥呼に倭王位が移り、面土国王を擁立した銅戈を配布した部族が衰退したことによると考えています。

九州の大乱に連動して中国・四国地方でも争乱が起きるようです。九州の争乱は銅矛と銅戈を配布した部族の対立ですが、中国・四国地方では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立する関係にあったが、その対立に銅矛を配布した部族が介入したことで争乱に発展したようです。

神話では中国・四国地方の争乱がスサノオのオロチ退治として語られているようです。オロチが娘を呑むというのは、銅矛を配布した部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、荒神谷遺跡の中広形銅矛を配布したことが語られているようです。(2009年12月投稿)

上図の解説では倭国大乱以後、出雲や吉備では青銅祭器の祭祀は行なわれなくなるとされていますが、強引な通婚が規制されて、青銅祭器を鋳造することやそれを受け入れることはなくなるものの、祭祀そのものはその後も続くと思っています。