倭人伝の記事で出雲に関係すると思われるのは「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあるだけですが、「海を渡ること千余里」については二つの解釈ができます。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡の東郷・土穴付近であり、千里は65キロですが、そうすると東の海は関門海峡になり、倭種の国は下関市付近にあったことになります。
もう一つの考え方はこの海を周防灘と考え、豊前の草野津(行橋市草野)から周防灘を渡ること65キロに倭種の国が有ると解釈するものです。
その場合には周防の佐波付近に国があることになりますが、これだと周防・長門の西半分は女王国に属していることになります。倭人伝の地理記事だと九州の東海岸までが女王国であり、海を渡ると女王国ではないように思えます。
どちらを選択したらよいのか迷っていますが、土器の分布状況などから周防灘・豊後灘沿岸に、「西瀬戸内文化圏」とでも呼ぶべきものを想定し、女王の主権下にはあるけれども半ば独立した国がある、と解釈するのも一案かと思っています。いずれにしても周防・長門を除いた中国・四国地方が稍を形成していると考えてよいようです。
この中国・四国地方の「稍」を、神話の出雲とするのがよいと考えますが、その中心になっていたのが律令制の出雲国を中心とする山陰地方だと考えます。神話には吉備や四国があまり登場してきませんが、その場合、吉備や四国を「出雲」の範疇に入れてよいのかという問題が出てきます。
島根半島はかつて島でしたが、斐伊川・神戸川の土砂による沖積で半島になりました。今の斐伊川は東流して宍道湖に流入していますが、『出雲国風土記』では西流して大社湾(神門水海)に流入しています。
江戸時代の寛永12年、16年の洪水で東流するようになったとも言われていますが、出雲平野の弥生遺跡は東流・西流を繰り返す斐伊川が残した自然堤防の上に営まれています。弥生時代には小型の川船なら大社湾から宍道湖に渡ることができたかもしれません。
この想定される水道をスサノオが活動する所と言う意味で「素尊水道」と呼ぶ人もいます。「素尊水道」周辺の出雲と伯耆西部の方言を「雲伯方言」と言いますが、雲伯地方に共通する文化が存在したことを表しているようです。
今では宍道湖・中海と、これに流入する河川を一括して「斐伊川水系」と言っていますが、そこに対馬海流に乗って朝鮮半島や北部九州の文化が伝わってきたことが考えられます。
それには北部九州の文化、ことに宗像(面土国)や周防など、対馬海流の影響を受ける響灘沿岸との関係が考えられています。、また神話や出土品などから、この地は九州と近畿北部・北陸との中継地になっていたことが考えられています。
その文化は出雲の斐伊川・神戸川、伯耆の日野川沿いに中国山地を越えて、美作や備中の高梁川、備後・安芸の江の川流域などに伝えられたことが考えられます。さらには瀬戸内海を渡って四国に伝わったことを考える必要もありそうです。
もちろん瀬戸内や四国には瀬戸内海航路による文化の流入があり、瀬戸内沿岸部の平形銅剣はこのことを表していると考えることができます。しかし備後北部の塩町式土器は吉備の上東式よりも山陰の青木Ⅱ式に近いということで、中国山地は山陰の文化圏に属していたことが考えられています。
大和朝廷が成立し大和が政治・文化の中心になると、逆に大和の文化が瀬戸内海を渡り、吉備から中国山地を越えて出雲に流入するようです。同時に山陰の文化圏に属していた吉備北部の山間部は山陽の文化圏に属すようになるようです。
とかく出雲と吉備は対比され、吉備と出雲とは別のものと思われがちですが、少なくとも弥生時代の吉備北部と山陰とは一体だと考えなければならないようです。それは吉備・安芸の平野部に及んでいたようです。
2011年7月24日日曜日
出雲神話 その3
出雲は地理的に筑紫と大和の中間に位置していますが、このことは必然的に神話や青銅祭器の分布に影響してきます。イザナギ・イザナミやスサノオは主として筑紫で活動する神ですが、突如として活動の場を出雲に移します。
青銅祭器を見ると中細形の段階で銅剣が九州から姿を消し、山陰に中細形銅剣c類が、また瀬戸内に平形銅剣が分布するようになります。度々述べてきたように銅剣が九州から姿を消すのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことによります。
また大国主は出雲の神のように思えますが、名前が大物主やオオナムチに変わると大和や紀伊で活動します。これは大国主が中国・四国から東海・北陸にかけて分布する銅鐸を配布した部族の、神話・伝説上の始祖であることによります。
その内容の破天荒なことと共に、出雲神話では神話の舞台が目まぐるしく変わるので史実と思ってよいのか途惑いますが、これは史書に次のような形式があることにもよるようです。
紀事本末体 ストーリーの展開を、事件の筋が分かり易いように纏め直したもの
編年体 『春秋』に代表されるように年代順に記述を進めるもの
紀伝体 『三国志』のように本紀・列伝・志などの項目を立てて記述を進めるもの
国史体 日本独自のもので特定の個人を中心にして記述を進めるもの
私たちの関心を持っている『三国志』魏書・東夷伝・倭人条は紀伝体ですが、『古事記』の中・下巻は国史体であり、『日本書記』は国史体でありながら編年体でもあるようです。そして『古事記』、および『日本書記』の神話は「紀事本末体」のようです。
神話は時代も場所も異なる別の事件が、ひとつのストーリーに纏められています。4月投稿の「二人のヒコホホデミ」ではヒコホホデミが二人いることを述べましたが、侏儒国(日向)が統合される過程で起きた6つの事件が、神武天皇を天照大神(卑弥呼)の6世孫(ホノニニギの4世孫)とするために纏め直されているようです。
出雲神話にも紀事本末体の特徴が現れています。高天が原を追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治し「草薙の剣」を得ますが、これは2世紀末の倭国大乱が中国・四国地方に波及したことや、その結果スサノオに相当する王が立てられたことが語られているようです。
紀事本末体の出雲神話が伝えようとしているテーマは、天照大神(卑弥呼・台与)の王権が大和の大王(天皇)に継承されているのに対し、奴国王の王権は出雲の王に継承されているということであり、同様にスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治するのは、面土国王の王権も出雲の王に継承されているということのようです。
紀事本末体の神話では事件の起きた年代が分かりませんが、これも私たちを途惑わせます。『古事記』は和銅5年(712)に成立しますが、翌和銅6年(713)には諸国に『風土記』の編纂が命じられ、養老4年(720)に『日本書紀』が成立します。
和銅6年から養老4年の間に国史体の『古事記』を、編年体併用の『日本書記』に変える作業が行われことが考えられます。神功皇后紀39年条には「是年、太歳己末」として倭人伝の記事が引用されており、太歳紀年法による編年が行われたことを表しているようです。
その結果、実際には4世紀末ころと考えられる神功皇后の活動時期は、木星の運行の2運(120年)古い3世紀とされ、神功皇后が卑弥呼・台与とされています。倭人伝に次の文があります。
魏略曰。其俗不知正歳四節。但計春耕秋収。為年紀・・(略)・・其人壽。或百年。或八九十年
この文については春と秋をそれぞれ1年とする「2倍年暦」が存在したとする説がありますが、寿命と平均壽命は違います。平均壽命は医療や食生活など生活環境によって異なりますが、人間の寿命は80~90年で、まれに100歳まで生きる人もいますがこれは不変です。
紀事本末体の神話で事件の起きた年代が分からないことと長寿の者が多いことには関係はなさそうです。倭人は生活環境が良く長寿の者が多いと述べられているのであって、暦がないから年代は伝えられなかったのであり、年代が創作されたことを表しているというのではないようです。
青銅祭器を見ると中細形の段階で銅剣が九州から姿を消し、山陰に中細形銅剣c類が、また瀬戸内に平形銅剣が分布するようになります。度々述べてきたように銅剣が九州から姿を消すのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことによります。
また大国主は出雲の神のように思えますが、名前が大物主やオオナムチに変わると大和や紀伊で活動します。これは大国主が中国・四国から東海・北陸にかけて分布する銅鐸を配布した部族の、神話・伝説上の始祖であることによります。
その内容の破天荒なことと共に、出雲神話では神話の舞台が目まぐるしく変わるので史実と思ってよいのか途惑いますが、これは史書に次のような形式があることにもよるようです。
紀事本末体 ストーリーの展開を、事件の筋が分かり易いように纏め直したもの
編年体 『春秋』に代表されるように年代順に記述を進めるもの
紀伝体 『三国志』のように本紀・列伝・志などの項目を立てて記述を進めるもの
国史体 日本独自のもので特定の個人を中心にして記述を進めるもの
私たちの関心を持っている『三国志』魏書・東夷伝・倭人条は紀伝体ですが、『古事記』の中・下巻は国史体であり、『日本書記』は国史体でありながら編年体でもあるようです。そして『古事記』、および『日本書記』の神話は「紀事本末体」のようです。
神話は時代も場所も異なる別の事件が、ひとつのストーリーに纏められています。4月投稿の「二人のヒコホホデミ」ではヒコホホデミが二人いることを述べましたが、侏儒国(日向)が統合される過程で起きた6つの事件が、神武天皇を天照大神(卑弥呼)の6世孫(ホノニニギの4世孫)とするために纏め直されているようです。
出雲神話にも紀事本末体の特徴が現れています。高天が原を追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治し「草薙の剣」を得ますが、これは2世紀末の倭国大乱が中国・四国地方に波及したことや、その結果スサノオに相当する王が立てられたことが語られているようです。
紀事本末体の出雲神話が伝えようとしているテーマは、天照大神(卑弥呼・台与)の王権が大和の大王(天皇)に継承されているのに対し、奴国王の王権は出雲の王に継承されているということであり、同様にスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治するのは、面土国王の王権も出雲の王に継承されているということのようです。
紀事本末体の神話では事件の起きた年代が分かりませんが、これも私たちを途惑わせます。『古事記』は和銅5年(712)に成立しますが、翌和銅6年(713)には諸国に『風土記』の編纂が命じられ、養老4年(720)に『日本書紀』が成立します。
和銅6年から養老4年の間に国史体の『古事記』を、編年体併用の『日本書記』に変える作業が行われことが考えられます。神功皇后紀39年条には「是年、太歳己末」として倭人伝の記事が引用されており、太歳紀年法による編年が行われたことを表しているようです。
その結果、実際には4世紀末ころと考えられる神功皇后の活動時期は、木星の運行の2運(120年)古い3世紀とされ、神功皇后が卑弥呼・台与とされています。倭人伝に次の文があります。
魏略曰。其俗不知正歳四節。但計春耕秋収。為年紀・・(略)・・其人壽。或百年。或八九十年
この文については春と秋をそれぞれ1年とする「2倍年暦」が存在したとする説がありますが、寿命と平均壽命は違います。平均壽命は医療や食生活など生活環境によって異なりますが、人間の寿命は80~90年で、まれに100歳まで生きる人もいますがこれは不変です。
紀事本末体の神話で事件の起きた年代が分からないことと長寿の者が多いことには関係はなさそうです。倭人は生活環境が良く長寿の者が多いと述べられているのであって、暦がないから年代は伝えられなかったのであり、年代が創作されたことを表しているというのではないようです。
2011年7月17日日曜日
出雲神話 その2
青銅祭器は部族が通婚によって同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、青銅祭器を配布した部族の部族長と、配布を受けた宗族長の間に「擬似冊封体制」ともいうべき関係があったと考えるのがよいようです。
北部九州では青銅器は中細形になるまで副葬されますが、他の地方では中細形はすでに祭器になっており、中国地方で祭器になったことが考えられています。最近では九州で最古式の銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。
冊封体制については貢物を献上するという名目の貿易だと言う考え方もあるようですが、倭人伝では賜与の品を国中の人に示して国家(魏)が、汝(卑弥呼、及び倭人)を哀れむ(慈しむ)ことを知らしめよと命じられています。
これは貢納品に対する返礼の品が分与されたことを示していますが、分与する者とそれを受ける者との間には、魏の皇帝と卑弥呼の関係のような主従関係が存在したことが考えられます。
紀元前194年~180年に衛満が朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定めて朝鮮王と称するようになります。このころ朝鮮半島では多鈕細文鏡が作られています。
また銅矛、BⅡ式銅剣・銅戈・銅鐸が造られそれが倭国に流入してきます。これが朝鮮式銅鐸や、細形に分類される利器だと考えられますが、これは衛氏朝鮮と倭人の交流を示すものでしょう。
紀元前108年には武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪など四郡を設置しますが、前82年に真番、臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。
倭国は楽浪郡を通じて前漢の冊封体制に組み込まれて百余国が遣使し、前漢鏡や前漢製の青銅利器が流入してきます。百余国が遣使したのは前漢時代の後半で政情の最も安定していた宣帝・元帝(紀元前74~33)の時代でしょう。
王莽の時代に鋳造された貨泉が流入するのを最後に、鏡以外の青銅器の流入は止まるようですが、その後も青銅器を尊重する風習は残り祭器に変わっていくと考えます。つまり青銅器が祭器に変わるのは王莽の時代だと考えるのです。
それは王莽の時代に儒教の「礼」が国家教学として確立したことと関係がありそうです。儒教の礼に「君臣の礼」があり、君主と下臣の間の秩序を守ることが要求されましたが、それは冊封を受けた倭人の王にも適用されたでしょう。
後漢は25年に成立しますが、57年に奴国王に金印を授与したのはその現われであろうと思います。それは倭人の王と下臣の関係にも影響し、部族を構成している宗族の族長には王との間だけでなく、さらに部族長との間にも「君臣の礼」が要求されるようになったということでしょう。
中国と冊封関係にあった王は皇帝から下賜された銅鏡を分与することが可能ですが、冊封関係のない王にはそれができません。それができたのは奴国王・面土国王、そして卑弥呼・台与だけです。おそらく銅鏡には皇帝が下賜した印綬のような性格があるのでしょう。
そこで王を擁立する可能性のある大部族が考え出したのが、銅鏡以外の青銅器を鋳造して配布することで「擬似冊封体制」を構築することだったと考えます。銅剣・銅矛・銅戈が利器から祭器に変わる経過は分かりませんが、九州で最古式の福田形銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。
私は福田形銅鐸を青銅器が祭器に変わる最初の時期のものだと考えます。銅鐸を祭器に変えたのは楽浪郡に対抗した朝鮮半島からの渡来民の子孫だと考えるのも面白そうです。福田形銅鐸が中国地方に配布されたことで、中国地方では銅剣も祭器になっていくと考えます。
そして青銅器の鋳造技術を持っていた九州でも銅矛・銅戈が祭器に変わるのでしょう。九州では北方遊牧民の風習を始原とする銅鐸が早い時期に姿を消しますが、九州では中国の青銅器を副葬する風習の影響を受けて、中細形の段階になっても副葬されるものがあると考えます。
北部九州では青銅器は中細形になるまで副葬されますが、他の地方では中細形はすでに祭器になっており、中国地方で祭器になったことが考えられています。最近では九州で最古式の銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。
冊封体制については貢物を献上するという名目の貿易だと言う考え方もあるようですが、倭人伝では賜与の品を国中の人に示して国家(魏)が、汝(卑弥呼、及び倭人)を哀れむ(慈しむ)ことを知らしめよと命じられています。
これは貢納品に対する返礼の品が分与されたことを示していますが、分与する者とそれを受ける者との間には、魏の皇帝と卑弥呼の関係のような主従関係が存在したことが考えられます。
紀元前194年~180年に衛満が朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定めて朝鮮王と称するようになります。このころ朝鮮半島では多鈕細文鏡が作られています。
また銅矛、BⅡ式銅剣・銅戈・銅鐸が造られそれが倭国に流入してきます。これが朝鮮式銅鐸や、細形に分類される利器だと考えられますが、これは衛氏朝鮮と倭人の交流を示すものでしょう。
紀元前108年には武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪など四郡を設置しますが、前82年に真番、臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。
倭国は楽浪郡を通じて前漢の冊封体制に組み込まれて百余国が遣使し、前漢鏡や前漢製の青銅利器が流入してきます。百余国が遣使したのは前漢時代の後半で政情の最も安定していた宣帝・元帝(紀元前74~33)の時代でしょう。
王莽の時代に鋳造された貨泉が流入するのを最後に、鏡以外の青銅器の流入は止まるようですが、その後も青銅器を尊重する風習は残り祭器に変わっていくと考えます。つまり青銅器が祭器に変わるのは王莽の時代だと考えるのです。
それは王莽の時代に儒教の「礼」が国家教学として確立したことと関係がありそうです。儒教の礼に「君臣の礼」があり、君主と下臣の間の秩序を守ることが要求されましたが、それは冊封を受けた倭人の王にも適用されたでしょう。
後漢は25年に成立しますが、57年に奴国王に金印を授与したのはその現われであろうと思います。それは倭人の王と下臣の関係にも影響し、部族を構成している宗族の族長には王との間だけでなく、さらに部族長との間にも「君臣の礼」が要求されるようになったということでしょう。
中国と冊封関係にあった王は皇帝から下賜された銅鏡を分与することが可能ですが、冊封関係のない王にはそれができません。それができたのは奴国王・面土国王、そして卑弥呼・台与だけです。おそらく銅鏡には皇帝が下賜した印綬のような性格があるのでしょう。
そこで王を擁立する可能性のある大部族が考え出したのが、銅鏡以外の青銅器を鋳造して配布することで「擬似冊封体制」を構築することだったと考えます。銅剣・銅矛・銅戈が利器から祭器に変わる経過は分かりませんが、九州で最古式の福田形銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。
私は福田形銅鐸を青銅器が祭器に変わる最初の時期のものだと考えます。銅鐸を祭器に変えたのは楽浪郡に対抗した朝鮮半島からの渡来民の子孫だと考えるのも面白そうです。福田形銅鐸が中国地方に配布されたことで、中国地方では銅剣も祭器になっていくと考えます。
そして青銅器の鋳造技術を持っていた九州でも銅矛・銅戈が祭器に変わるのでしょう。九州では北方遊牧民の風習を始原とする銅鐸が早い時期に姿を消しますが、九州では中国の青銅器を副葬する風習の影響を受けて、中細形の段階になっても副葬されるものがあると考えます。
2011年7月10日日曜日
出雲神話 その1
日向神話・高天原神話に触れてきましたが、当然のこととして出雲神話にも触れないわけにはいきません。一昨年6月に投稿を始めて今回で202回目になりますが、その間には小さな修正はしましたが大筋の考えは一貫しているつもりです。それを再確認しつつ出雲神話に挑戦してみようと思います。
今まで述べてきたことを大別すると、①面土国に関するもの ②「稍」と冊封体制に関するもの ③面土国王とスサノオに関するもの ④部族と青銅祭器に関するものになりますが、それぞれは独立しているのではなく相関々係にあると考えています。
①面土国に関するもの
倭人伝の記事の多くは正始8(247)年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞ですが、面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。方位が南とされている邪馬台国・投馬国は宗像郡の南に位置しているはずです。
倭人伝・韓伝以外の諸伝の千里は魏里の300里(130キロ)ですが、倭人伝・韓伝だけは150里(65キロ)になっており、倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近です。現在の宗像市役所の周辺ですが、「自女王国以北」は遠賀川流域になります。
②「稍」と冊封体制に関するもの
弥生時代後半(紀元前後以降)の倭人は朝鮮半島に在った楽浪郡・帯方郡を介して、後漢・魏の冊封体制に組み込まれますが、冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないというものがありました。
魏と冊封関係にあったのは北部九州の女王国(筑紫)だけでしたが、冊封体制は職約(義務)によって自動的に南九州(侏儒国、日向)や中国・四国地方(女王国の東の国、出雲)、或いは近畿・北陸(越)地方に及ぶようになっていました。東海東部や関東にも及んでいたことが考えられますが、神話はこれに言及しておらず、青銅祭器の分布も希薄です。
「稍」にはそれぞれ部族によって擁立された首長(王)がいますが、筑紫の王が卑弥呼・台与(天照大神)であり、出雲の王が大国主です。邪馬台国が筑紫・畿内のいずれにあったにせよ、南九州や中国・四国地方は独立した国であり女王の統治下にはありませんでした。
③神話に関するもの
天照大神が卑弥呼・台与であるとはよく言われていることですが、白鳥庫吉はスサノオについて狗奴国の男王であろうと言っています。しかし面土国が宗像郡だというのであれば、宗像三女神との関係などからスサノオは面土国王だと考えることができるようになります。
北部九州の「稍」、つまり筑紫の歴史が「高天原神話」であり、南九州の「稍」の歴史が「日向神話」になります。中国・四国地方の「稍」の歴史が「出雲神話」ということになりますが、そうであれば「大和神話」や「越神話」もあるはずです。しかしこれは「出雲神話」の中に含まれています。
神話の主テーマは北部九州勢力が「稍」を統合して統一国家の倭国を出現させたことですが、大和や越の神話が出雲神話の中に含まれるのは、北部九州から見て出雲を統合することと、出雲以東を統合することとが同義だからです。出雲ではなく大和が中心になってもよさそうなものですが、これは「稍」の地理的な位置関係があり無理なことです。
④部族と青銅祭器に関するもの
倭人が中国の冊封体制に組み込まれたことにより部族は地縁・血縁的な文化的結合体から、支配者階層が通婚することによって結合した政治的結合体に変質し、王を擁立するための組織になっていくようです。
今まで述べてきたことを大別すると、①面土国に関するもの ②「稍」と冊封体制に関するもの ③面土国王とスサノオに関するもの ④部族と青銅祭器に関するものになりますが、それぞれは独立しているのではなく相関々係にあると考えています。
①面土国に関するもの
倭人伝の記事の多くは正始8(247)年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞ですが、面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。方位が南とされている邪馬台国・投馬国は宗像郡の南に位置しているはずです。
倭人伝・韓伝以外の諸伝の千里は魏里の300里(130キロ)ですが、倭人伝・韓伝だけは150里(65キロ)になっており、倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近です。現在の宗像市役所の周辺ですが、「自女王国以北」は遠賀川流域になります。
②「稍」と冊封体制に関するもの
弥生時代後半(紀元前後以降)の倭人は朝鮮半島に在った楽浪郡・帯方郡を介して、後漢・魏の冊封体制に組み込まれますが、冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないというものがありました。
魏と冊封関係にあったのは北部九州の女王国(筑紫)だけでしたが、冊封体制は職約(義務)によって自動的に南九州(侏儒国、日向)や中国・四国地方(女王国の東の国、出雲)、或いは近畿・北陸(越)地方に及ぶようになっていました。東海東部や関東にも及んでいたことが考えられますが、神話はこれに言及しておらず、青銅祭器の分布も希薄です。
「稍」にはそれぞれ部族によって擁立された首長(王)がいますが、筑紫の王が卑弥呼・台与(天照大神)であり、出雲の王が大国主です。邪馬台国が筑紫・畿内のいずれにあったにせよ、南九州や中国・四国地方は独立した国であり女王の統治下にはありませんでした。
③神話に関するもの
天照大神が卑弥呼・台与であるとはよく言われていることですが、白鳥庫吉はスサノオについて狗奴国の男王であろうと言っています。しかし面土国が宗像郡だというのであれば、宗像三女神との関係などからスサノオは面土国王だと考えることができるようになります。
北部九州の「稍」、つまり筑紫の歴史が「高天原神話」であり、南九州の「稍」の歴史が「日向神話」になります。中国・四国地方の「稍」の歴史が「出雲神話」ということになりますが、そうであれば「大和神話」や「越神話」もあるはずです。しかしこれは「出雲神話」の中に含まれています。
神話の主テーマは北部九州勢力が「稍」を統合して統一国家の倭国を出現させたことですが、大和や越の神話が出雲神話の中に含まれるのは、北部九州から見て出雲を統合することと、出雲以東を統合することとが同義だからです。出雲ではなく大和が中心になってもよさそうなものですが、これは「稍」の地理的な位置関係があり無理なことです。
④部族と青銅祭器に関するもの
倭人が中国の冊封体制に組み込まれたことにより部族は地縁・血縁的な文化的結合体から、支配者階層が通婚することによって結合した政治的結合体に変質し、王を擁立するための組織になっていくようです。
部族は通婚によって同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布しますが、「稍」によって分布する青銅祭器の器種が異なり、北部九州には銅矛・銅戈が、中国・四国には銅剣・銅鐸が、また近畿・東海西部には銅鐸が分布しています。
部族は王を擁立しますが王の擁立を巡って対立しました。倭人伝に見える倭国大乱や卑弥呼死後の争乱は、北部九州の銅矛と銅戈を配布した部族が対立したものですが、中国・四国地方の「稍」では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立したことが考えられます。
2011年7月2日土曜日
高天が原神話 その6
弥生時代の人物と言えば卑弥呼・台与ということになってきますが、難升米あっての卑弥呼・台与と言えるようで、その後の倭国は難升米の予想した通りに女王制が有名無実になり、やがて倭人の統一国家、つまり大和朝廷の統治する倭国が誕生するようです。
図は私の考える思金神に関わる『古事記』の神統と、それに対応する倭人伝中の人物を推定したものです。台与が天照大神であり大倭が高木神であるのなら、高木神の子とされホノニニギの叔父とされている思金神を難升米とするのがよさそうです。
図は私の考える思金神に関わる『古事記』の神統と、それに対応する倭人伝中の人物を推定したものです。台与が天照大神であり大倭が高木神であるのなら、高木神の子とされホノニニギの叔父とされている思金神を難升米とするのがよさそうです。
思金神は書によっては「思兼神」「八意思兼神」とも書かれていて深謀・遠慮する神だと考えられています。天照大神・高木神が他の神に指令を下す「指令神」であるのに対し、思金神はその指令を(ことに高木神の指令を)具体化して進言する神として描かれています。
思金神と難升米は性格が似ていますが、図の系譜を倭人伝中の人物の血縁関係が示されていると考える必要はないようで、言わば247年ころの女王国内のパワーバランスが示されていると考えればよさそうです。
安本美典氏は台与を万幡豊秋津師比売だとされていますが、オシホミミが卑弥呼死後の男王であり、ホノニニギが台与の後の王だと考えられますから、その可能性もあるように思います。
とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです。
とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです。
『日本書記』は神の尊称の「命」と「尊」を明確に使い分けており、天皇の祖には「尊」が用いられています。このことから『日本書紀』の一書に見える稚日女尊(台与)と大孁貴(卑弥呼)を合成したものが天照大神だと考えていますが、これは伝承した氏族が違うことによるのでしょう。
万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。
これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。
万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。
これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。
『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があり、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。司馬昭が相国だった7年間の、何度かの倭人の遣使も難升米の発案によることでしょう。
銅矛を配布した部族の神話・伝説上の始祖がイザナギだと考えますが、難升米は3世紀の銅矛を配布した部族の族長、ないしは有力者だと考えるのがよいと思っています。難升米は安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ており、また倭人社会の動向も把握していたように感じられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し主導したのが難升米だということになります。それは250年代のことであり、難升米が50歳代のことになります。
5月に投稿した『二人のヒコホホデミ』ではシオツチノオジは銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、シオツチノオジに具体的な指示を出していたのも難升米であったと思います。そして神話の語るところからみて大国主の国譲りを発案するのも難升米のようのです。
難升米は249年の司馬懿のクーデターを、いずれ司馬氏か魏を乗っ取ることだと判断したと考えます。難升米は司馬懿のクーデターで台与の親魏倭王は価値のないものになったことを知り、また中国・朝鮮半島の政情を見るにつけ、冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えたと思います。
それは卑弥呼以来の女王体制が維持できなくなるということで、難升米のシナリオには、魏の消滅以後のことも考えられていたでしょう。三世紀後半に大和朝廷が成立し古墳時代が到来することも、難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えます。
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