筑紫神話で活動する神なら筑紫で祭られていてもよさそうなものですが、政治の中心が大和に移ったことにより、例によってサルタヒコもアメノウズメも伊勢や大和で祭られていて、三重県鈴鹿市の椿大神社がサルタヒコを祭る神社の総本宮とされています。
豊前京都郡には鈴鹿市の椿大神社と関係のありそうな椿市村があります。今の行橋市長尾の周辺で、今でも学校名や駐在所名は長尾ではなく椿市になっています。長尾は景行天皇紀12年条に見える長峡縣の行宮の地とする説もあります。
行橋市稗田の付近には他にもサルタヒコに関係すると思われる伝承が見られ、行橋市草場の豊日別宮(草場神社)は宇佐神宮の特殊神事の放生会神事に先立って、香春町採銅所で鋳造された鏡が運ばれてくる神社とされています。豊前国一の宮と称したこともある豊前北部では最も格式の高い神社で、その主祭神は豊日別です。
伝承ではその神官の大伴連牟彌奈里に佐留多毘古大神の神託があって、豊日別のために伊勢神宮なみの神宮が建てられ、サルタヒコは別宮としたとされています。この社伝ではサルタヒコが祭られていることになりますが、神官の大伴連牟彌奈里は天忍日を祖とする大伴氏と関係がありそうです。
天孫降臨には中臣連らの祖のアメノコヤネ(天児屋)が随行しますが、『倭名類聚抄』には豊前仲津郡の8郷の内に中臣郷があり、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』は中臣氏の発祥の地ではないかとしています。これについては京都郡みやこ町付近とする説が有力なようです。
付近には大伴氏・中臣氏に関係する伝承があり、猿女君・稗田氏に関係すると思われる地名もあります。このように考えると豊前風土記を引用したという「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」は、案外に根拠のあることのように思えてきます。
「蓋し天照大神の神京なり」については台与の都という説もありますが、天孫降臨の出発地かどうかという点も含めて、台与の時代以後、女王国と「葦原中国」、つまり出雲や吉備・大和との接触の拠点になったことは考えられてよいと思います。
図は九州で鋳型が出土している「福田形」と呼ばれる古式銅鐸の搬送ルートを想定したものです。銅矛は山陰では島根県荒神谷遺跡の16本以外には出土していませんが、これも瀬戸内や四国西部に分布している銅矛の分流であることが考えられ、同様の搬送ルートが想定できます。
北部九州で鋳造された銅鐸や銅矛は宇佐か草野津で舟積みされ、安芸から中国山地を超えて出雲に持ち込まれたと考えます。「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」も字義通りではなく、こうした視点から考えてみる必要がありそうです。
図の福田形銅鐸の搬送ルートはさらに東に伸びるように作図しています。図の3もそうですが銅鐸そのものは出土していないものの、播磨国神前郡(兵庫県神崎郡)にスクナヒコナの伝承があることから、福田形銅鐸の存在を想定しています。(2009年12月投稿)
播磨に福田形銅鐸があったのであれば、近畿地方の近畿式銅鐸の祖形は福田形銅鐸だと考えられるようになります。これは近畿を中心として銅鐸の祭祀が行われるようになるについては宇佐や草野津が関与している可能性があるということでしょう。
それは出雲の国譲りや天孫降臨、あるいは武天皇の東遷にも言えるでしょう。邪馬台国=畿内説では邪馬台国が発展して大和朝廷になるとすることができますが、九州説では神武天皇が東遷して大和朝廷が成立すると考えなければならなくなります。
天孫の降臨先がなぜ出雲ではなく南九州なのかという問題もありますが、北部九州勢力の東方進出に宇佐や草野津が関与しているというのであれば、当然のことではありますが図の福田形銅鐸の搬送ルートに示したような、瀬戸内海航路による東方進出が考えられます。
この地を邪馬台国とするよりも東方進出の拠点であったことが意識されてよいように思います。このことは卑弥呼が貰ったという100枚の銅鏡にも言えそうで、この銅鏡が北部九州とは無関係に丹後や若狭に陸揚げされて、畿内を中心にして配布されたとは思えません。
100枚の銅鏡が三角縁神獣鏡ならなおさらこのことが言えます。鏡を尊重する風習も北部九州を経由して入ってきたことが考えられますが、100枚の銅鏡は宇佐や草野津から、後に神武天皇が東遷することになる畿内や、その周辺に配布されたとするのがよさそうです
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