2010年11月28日日曜日

九州説 その1

「三角縁神獣鏡」「纒向遺跡」を考察するつもりでしたが、いつの間にか畿内説批判になってしまいました。いずれにしても三角縁神獣鏡・纒向遺跡は邪馬台国・卑弥呼と関係はなく、初期大和朝廷との関連を考えるのがよさそうです。

では九州説はどうかというと九州説も諸説乱立で、一つにまとめたらどうかと揶揄されて今一つ説得力がありません。一般に方位では九州説が、距離では畿内説が有利だとされていますが問題点は幾つもあります。

1、通説では伊都国は糸島郡とされ、奴国は福岡平野とされている
2、通説では南は東の誤りとされている
3、邪馬台国は「水行十日・陸行一月」、投馬国は「水行二十日」とされている
4、直線行程説と放射行程説がある
5、一里が何メートルになるのか分からない

これではどのような恣意的解釈も可能で、自分の思うところが邪馬台国になります。こうした矛盾の根本的な原因は『日本書記』神功皇后紀が三十九年・四十年・四十三年条に『魏志』の文を引用し、また六十六年条に『晋起居注』の文を引用して皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることにありそうです。

また『古事記』は三韓を征伐した後の皇后が筑紫で応神天皇を出産する時の状景を次のように述べています。いわゆる「鎮懐石伝承」ですが、これにも皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする目的があるようです。

即ち御腹を鎮めようとされて、石を御裳の腰に纏いて、筑紫国に渡りその御子を産まれた。故、その御子の生れた地を名付けて宇美(うみ)という。またその御裳に纏いた石は筑紫の伊斗村(いとのむらにある。また筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り、その河辺で食事をされた時・・・

また『日本書記』には皇后が筑後山門縣の土蜘蛛の田油津媛を誅殺した記事もあります。これらの地名が倭人伝中の国を意識したものであることはいうまでもないでしょう。このことから新井白石は神功皇后を卑弥呼だと考えて、1716年に著した『古史通或問』で、応神天皇の生まれた宇美を不弥国に比定し、鎮懐石のある伊斗村を伊都国に比定し、末羅県を末盧国に比定しました。

投馬国は備後鞆の浦、邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、投馬国は肥後玉名郡、または託麻郡に、邪馬台国は筑後山門郡に変えています。

最近では邪馬台国問題に考古学が参入したこともあり、卑弥呼を神功皇后とする説は影が薄くなっていますが、倭人伝の地理記事に関しては新井白石の考えが通説になっています。畿内説も投馬国を備後鞆の浦、邪馬台国を大和とする新井白石の考えをほぼ継承しています。

しかしこの通説はそれ以外には考えようがないので通説になってはいるものの、「鎮懐石伝承」は明らかに創作されたものです。そこから導き出された通説に矛盾のあるのは当然のことです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を合成したものが天照大御神であることを知っています。

私は九州王朝が存在したとは考えませんが、大和朝廷と九州土着勢力との間に感情的な対立があり、時には反乱に至ったと思っています。九州土着勢力が卑弥呼・台与を天照大神とするのに対し、大和朝廷内部には神功皇后とする考え方があったようです。それには14代仲哀天皇の九州での死や、15代応神天皇の即位が関係しているようです。

仲哀天皇と応神天皇との間に空位期間があり、その間に神功皇后が摂政として政務に当ったのは事実でしょうが、皇后の三韓征伐はなかったと思います。三韓征伐には斉明天皇の朝鮮半島出兵のための筑紫遷都が反映しているようです。

九州には斉明天皇の朝鮮半島出兵を批判する声があり、出兵を正当化するために神功皇后の三韓征伐の前例があるとされているように思われます。斉明天皇と天照大神(卑弥呼・台与)を合成して神功皇后の事績が創られたようですが、その三韓征伐と応神天皇の出自が結び付けられているようです。

応神天皇は招請されて筑紫から大和に来た天皇で、香坂王・忍熊王の反乱に見られるように応神天皇の即位に反対する者がいたようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を天照大神ではなく神功皇后とすることで、応神天皇の即位を正当化しようとしているようです。それは越前三国から招請された継体天皇の前例になっていとされているようです。

今日の宇美を不弥国とし、糸島郡を伊都国とし、松浦郡を末盧国とする通説は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする地名説話から生れたものに過ぎず、それは創作されたものであり、そこから導き出された通説に依拠すると矛盾が生じます。

2010年11月21日日曜日

纒向遺跡 その4

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡に、北部九州では出土せず近畿とその周辺で出土するものがあり、北部九州と近畿とその周辺を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」があるとされています

畿内説では二世紀末の倭国大乱の時点で九州と畿内はすでに統合されており、西日本一帯を支配する統治機構が存在していることになって、終末期~古墳時代初頭の「二つの地域社会」が説明できません。3世紀後半に「二つの地域社会」が統合されたことが考えられます。

弥生時代終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が存在していたか、あるいはそれ以前に統合された民族国家の倭国になっていたのかが、畿内説と九州説の分かれ目になると思っています「二つの地域社会」が存在していたとするのが九州説であり、すでに統合されていたとするのが畿内説になります。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものです。北部九州の部族は銅矛・銅戈を配布し、近畿を中心にした地域の部族は銅鐸を配布しました。

上の図は後期前半の分布状態で、中国・四国地方に銅剣・銅鐸が分布していることが示されています。下の図は後期後半の分布状態で中国・四国北部から青銅祭器が姿を消し、四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しています。

私は上図と下図の境を180年ころだと考えています。つまり倭国大乱の結果、中国・四国地方から青銅祭器が姿を消し、四国東南部で銅矛と銅鐸の分布が交錯するようになる考えます。

四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しているのは、終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が四国で対峙していたことを表しているようです。全ての青銅祭器が姿を消すのは270年ころに部族が統合され大和朝廷が成立したことで、対峙が解消したということでしょう。
銅鐸の分布圏が統合されるについては2段階があり、第Ⅰ段階は投稿「その2」で紹介した『日本書紀』第二の一書の三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属する物語になっています。

私は神話の神は青銅祭器を用いた部族・宗族だと考えていますが、大国主を中国地方に多い古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島などに多い近畿4・5式など新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族だと考えています。

「大和の国譲り」の神話では讃岐・紀伊・筑紫・伊勢・阿波・出雲の忌部が定められたとされていますが、筑紫と出雲以外は近畿4・5式銅鐸の分布圏です。「大和の国譲り」で下図の近畿4・5式銅鐸が分布している四国東部から紀伊半島、及び大和の南部が、北部九州で発生した物部・中臣氏の統治下に入るようです。

第2段階は投稿「その3」で述べた神武天皇の東遷で、大和盆地南部の葛城山、畝傍山・三輪山周辺を中心にして、近畿式銅鐸の分布圏が統合されたことが語られています。また東海の尾張氏や近江との接触もあり三遠式銅鐸の分布圏も統合されるようです。

卑弥呼の死、台与の即位は247年ころですが、大和朝廷の成立は倭人が遣使した266年の直後の270年ころになると思っています。その差は20~30年ですが、その間に大物主の「大和の国譲り」や神武天皇の東遷があったようです。

この20~30年の年代差を考古学で立証するのは不可能かもしれませんが、3世紀の後半に弥生時代が終わり古墳時代になるとされていますし、青銅祭器が姿を消すのもこのころです。『日本書記』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、これも大和朝廷の成立に何等かの関連があると考えるのがよさそうです。

畿内説は神武天皇の東遷や初期天皇の存在を、三角縁神獣鏡や古墳、あるいは年代の操作で摩り替える「神話の否定論」でもあるようです。考古学は実証を重んじる学問で、神話や初期の天皇の存在を否定するので説明できず、あえて避けられているような感じを受けます。

2010年11月14日日曜日

纒向遺跡 その3

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間があります。この空位期間は、東征以前から神武天皇に従ってきた中臣・忌部・猿女など天神系氏族と、東征後に服属するようになった大神・賀茂など地祇系氏族との間に大王位(天皇位)を巡る抗争があったためでしょう。

沼河耳(ぬなかわみみ、綏靖天皇)の異母兄の当芸志美美は、神武天皇の東遷に九州から同行して朝政を自由にしていましたが、神武天皇が死ぬと沼河耳を殺そうと計画します。このことを母から聞いた沼河耳は葬儀が終わるのを待って逆に当芸志美美を殺します。

大和朝廷が成立しても、その初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いで神武天皇の殯(もがり)が三年間に及んだのでしょう。『日本書紀』はこの殯を「山陵の事」と記していますが、この三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。

死者が埋葬されるまでの殯の期間に後継者が決まり墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。箸墓古墳が造られる間に弔問した者の間に定型化された墓、つまり前方後円墳が築造されるようになるようです。

綏靖天皇の母は美和(三輪、大神神社)の大物主の孫娘で、賀茂氏の祭る事代主の娘の伊須気余理比売(古事記)とされています。綏靖天皇と大神・賀茂氏との関係が強調されていますが、これは神武天皇との関係でもあります。

7人の乙女が高佐士野(たかさじの)で遊行しているのを見た神武天皇は、先頭の伊須気余理比売を妻にすることにします。高佐士野が何を表し、その場所が何処なのかは分かっていませんが、綏靖天皇の誕生について『古事記』が次のように記しています。

是に其の伊須気余理比売の家、狭井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして一宿御寝座しき。・・・然してあれ坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱

7人の乙女は大神氏・賀茂氏・磯城県主など、大和盆地の土着豪族を表していると見ることができそうです。神沼河耳命が綏靖天皇ですが、狭井河は大神神社の摂社、狭井神社の北側を流れる川で、母の伊須気余理比売の家は大神神社の東北の台地にあったと伝えられています。

狭井神社と箸墓古墳は二キロほどしか離れておらず、箸墓古墳は綏靖天皇の母の家の庭のような場所です。私は高佐士野を「高い桟敷のような野」と解釈し、三輪山西麓の「山の辺の道」の光景と見るのがよいと思っていますが、伊須気余理比売の家が狭井河の川上にあるということからのイメージで根拠はありません。

いずれにしてもこの物語には神武天皇と大神氏・賀茂氏など大和土着の勢力との間に縁戚関係が生じたことが語られているようです。2代綏靖・3代安寧・4代懿徳天皇の妃を出した磯城県主は磯城郡の支配者ですが、この時に神武天皇と磯城県主との関係も生じるのでしょう。

橿原市大字洞にある現在の神武天皇陵は、神武田(じんぶでん、ミサンザイ)と呼ばれていた、田の中にある高さ3~4尺(1メートル程度)の小さな丘だったようです。それが文久3年(1863)に神武天皇陵とされ、その後拡大・整備されたということですが、綏靖天皇紀から考えられるような盛大な葬儀は想像できません。

通説では箸墓古墳の築造は260~280年ころとされていますが、これは私の考える神武天皇の即位時期、つまり大和朝廷の成立時期と一致します。大和朝廷が成立したことにより「氏姓制社会」になり、古墳が築造されるようになるのでしょう。

箸墓古墳は大神氏、賀茂氏など伊須気余理比売に関係する氏族や、磯城県主の祖が、当芸志美美を擁立しようとする中臣・忌部・猿女氏など天神系氏族に対抗して、綏靖天皇を大王に擁立するために造った神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書記』は神武天皇の別名を「神日本磐余彦天皇」としていますが、これは「磐余の男」という意味で磐余は箸墓古墳のある磯城郡の地名です。大和朝廷の成立に纒向遺跡が係わっていることが考えられます。

2010年11月8日月曜日

纒向遺跡 その2

『日本書紀』第二の一書は大国主の出雲の国譲りの後に、三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属したとし、この時に「天の高市」に八十万神(やそよろずのかみ)が集められ、大物主は八十万神を率いて天(高天が原)に昇り、高皇産霊尊に誠意を示したと述べられています。

このことは『古事記』にも『日本書記』の他の一書にも見えませんが、大国主と大物主が別神になっています。大国主の出雲の国譲りの神話はよく知られていますが、大物主の「大和の国譲り」のことはあまり知られていません。

この神話は畿内説では完全に無視されていますが、八十万神が集まったという「天の高市」は律令制大和国高市郡に由来すると考えられています。高市郡には式内社が54坐ありますが、そのうちに高市を冠したものが3坐あります。

高市御縣坐鴨事代主神社 橿原市雲梯町
高市御縣神社        橿原市四条町
天高市神社          橿原市曽我町

橿原市雲梯町の高市御縣坐鴨事代主神社のように、高市郡は賀茂氏の祭る事代主に関係する土地のようですが、賀茂氏は葛城郡を本貫の地とする氏族です。高市郡の北隣りの磯城郡に纒向遺跡や箸墓古墳があり、近くの三輪山は大神氏の祭る大物主の神体とされており、磯城郡は大物主に関係する土地です。

9代開化天皇までの皇宮は高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり、鳥越憲三郎氏はこれを葛城王朝と言っています。10代祟神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇の3代の皇宮は磯城郡の三輪山周辺にあり、これを三輪王朝と言っています。

「天の高市」に集まった八十万神とは葛城山、畝傍山・三輪山周辺の宗族であり、後に大和盆地の南部が初期天皇の皇宮・陵墓の所在地になることを示唆しているのでしょう。纒向遺跡・箸墓古墳周辺は城上郡大市郷ですが、飛鳥・奈良時代には市場がありました。

高市もまた市場があったことに由来するのでしょう。「天の高市」は大和盆地の東南部に市場があったということで、単に高市郡のことだけでなく桜井市金屋の海柘榴市や、隣の磯城郡にある大市(纒向遺跡)の記憶も含まれていると考えます。

纒向遺跡は大和朝廷成立以前には市場や「寄り合い評定」を行なう広場になっていたが、葛城王朝・三輪王朝の政治の場に変わるのでしょう。纒向遺跡で出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもの、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。

その土器は研究者によって古墳時代初頭のものとされたり、弥生時代終末期のものとされたりする、庄内式と呼ばれている土器と並行する時期のもののようです。私はこの庄内式期の始まりを通説よりも20~30年新しく見て270年ころとし、このころ大和朝廷が成立すると考えています。

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡には北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土する小形重圏文仿製鏡などがあるとされています。そしてこれを北部九州と畿内を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」が成立していたとされています。

畿内説は北部九州と畿内が統合されていることが前提になりますから「二つの地域社会」は説明できません。「二つの地域社会」が併合されて大和朝廷が成立し、纒向遺跡が最盛期に入っていくと考えるのがよいようです。

場所によっては30%にもなるという纒向遺跡の外来土器は、纒向遺跡が大和朝廷の基礎の固まった葛城王朝の政治の場になったことを示していると考えるのがよさそうです。その始まりが大物主・事代主の「大和の国譲り」の物語になっているようです。

私は大国主を島根県加茂岩倉遺跡の39個など、中国地方に多い近畿2・3式などの古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島に多い近畿4・5式などの新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族と考えるのがよいと思っています。

神話は史実ではないとも言われますが、台与が即位した247年から間もないころ、「倭の種」の諸国を統一する動きが出てきます。その結果大国主の出雲の国譲りに続いて、大物主の「大和の国譲り」、あるいは神武東遷に語られているような史実があったと考えます。

2010年11月1日月曜日

纒向遺跡 その1

三角縁神獣鏡が畿内を中心して分布しているのは、初期の大和朝廷(葛城王朝)がその統治が及んだ地域に配布したからで、邪馬台国が畿内にあったということではないようです。纒向遺跡も邪馬台国や卑弥呼とは関係がなさそうです。

纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して出現すると考えますが、北部九州に女王を中心とする統治機構ができ、その影響を受けて大和盆地の東南部を中心とする新たな統治機構が出現するのでしょう。初期の纒向遺跡の性格については「出雲神在祭」が参考になると考えています。

小説家・思想家の白柳秀湖は出雲神有在祭がツングース族の「ムニャーク」という「寄り合い評定」、つまり有力者を招集して行なう「合議制統治」に似ているとしています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり国政論じ、それは統領の任免にまで及んだということです。

江上波夫氏は匈奴では遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会が開かれ、それには匈奴国家を形成する全部族が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたとしています。

島根県荒神谷遺跡の380、加茂岩倉遺跡の39個という大量の青銅祭器については、匈奴の例のように強制力のある「寄り合い評定」で埋納が決定され実行されたと考えていますが、青銅祭器は宗族ごとに1本(1個)が配布されたようです。

そうすると出雲の「寄り合い評定」には419人、あるいはそれ以上の宗族長が参集したことになりますが、これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったでしょう。

ツングース族の「ムニャーク」で族長がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたことが考えられます。ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られたということです

纒向遺跡も巻向川・烏田川の扇状地にありますが、大和朝廷成立以前にはこの扇状地に通常は市場で、非常時には「寄り合い評定」を行なう広場があったと考えます。纒向遺跡の位置は律令制の城上郡大市郷に当たりますが、大市は飛鳥・奈良時代に市場があったことに由来すると言われています。

古墳時代に入ると纒向遺跡は初期大和朝廷の政治の場になり、後に政治の場は南の飛鳥に移るようです。市場としての機能も、より政治性の強いものは飛鳥に近く紀伊や伊勢との交通に便利な桜井市金屋の海柘榴市に移り、生活に密着したものが纒向に残って、大市郷という郷名が生れると考えます。

石野博信・関川尚功氏は纒向遺跡の土器を1類~5類に類別されていますが、1類は「畿内第Ⅴ様式」に、2~4類は「庄内式」に、5類は「布留Ⅰ式」に並行するとされ、石野氏は1類を180~210年ころとされています。

石野氏は纒向遺跡を「2世紀末に突然あらわれ4世紀中ごろに突然消滅した大集落遺跡」と言っていますが、畿内の年代は20~30年程度古く見られていると感じています。纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して現れ、4世紀後半以後の天皇(13代成務天皇以後)が近江や河内など、大和以外の土地に本拠を移したために消滅するのでしょう

纒向遺跡では初期の遺構は少なく、集落も環濠もなく出土したのは銅鐸片と二つの土坑のみとされ、その最盛期は3世紀終り~4世紀初めとされていますが、最盛期は20~30年程度新しく見て、4世紀前半とみるのがよいと思っています。

大和朝廷が成立するのは270年ころで、それは纒向式2類のころだと思っています。纒向式1類の時期の纒向遺跡は平常時には市場だが、非常時には有力者が集まって「寄り合い評定」をするための広場だったと考えます。

卑弥呼の宮殿ではないかといわれている纒向遺跡の大型掘立柱建物の柱の間には、南北方向に床を支えるための細い束柱があり、建坪以上に多人数を収容する構造になっていたようです。その建物は平城京の大極殿に相当する施設でしょう。

初期の天皇は地方豪族の棟梁に過ぎず、その皇宮も粗末で大型の建物が必要になり、纒向式1類の時期には市場や「寄り合い評定」の場になっていた纒向に大型の建物が建てられ、その建物は今の国会議事堂のような役割を果たしていたと考えます。