2010年2月27日土曜日

火の神、迦具土 その1

イザナギ・イザナミ二神は島を生んだ後に35柱の神を生みますが、部族は中細形の青銅祭器を配布して政治的な側面を強め、中国の氏族のような性格を帯びてくるようです。中期後半2期の57年に奴国王が遣使していますが、神生みには「奴国体制」のことが語られているようです。

しかしイザナミは火の神、カグツチ(迦具土、軻遇突智)を生んだことで、神避り(かみさり、神が死ぬこと)します。このイザナミは銅剣を配布した部族、または銅剣を配布した部族に擁立された奴国王です。

イザナギはカグツチを斬殺しますが、このイザナギは銅矛を配布した部族、または銅矛を配布した部族に擁立された那珂海人の王だと考えています。那珂海人の王とは福岡平野の那珂川・御笠川流域の支配者ということですが、この地域は3世紀には邪馬台国の一部になると考えます。

神避りしたイザナミは死後の世界である黄泉の国に行きますが、この神話には、一〇七年の面土国王帥升の遣使の直前に奴国王家が滅ぶ原因になった争乱があったことが語られているようです。それは後漢第5代和帝・第7代安帝のころだと考えます。

このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられますが、翌年に死亡し13歳の安帝が即位します。以後幼帝の即位が続き外戚・宦官の力が強くなっていきます。

中国の西では106年ころにチベットの羌族の反乱があり、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのため106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。

こうした東アジアの動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、面土国王の帥升が倭王になることが考えられます。この争乱は相当に大規模なものだったようで、これが中期から後期に移る原因になっているようです。

この争乱で奴国王から面土国王への政権の移動に伴う部族の再編成があったようで、それは青銅祭器の形式変化とその配布量に表れています。この時に中細形から中広形変化しますが、この段階で北部九州では銅戈が急増し、逆に銅剣が激減しています。

そして瀬戸内で平形銅剣が、また山陰で大量の中細形銅剣c類が造られています。銅剣を配布した部族の中枢が中国・四国地方、ことに山陰に移っていますが、このことが「黄泉の国」の神話になっているようです。「黄泉の国」の神話には荒神谷遺跡の358本の銅剣が造られたこと語られていることになります。

カグツチはイザナミが最後に生んだ子とされていますから、奴国王と何らかの関係がある部族、あるいは宗族でしょう。奴国の滅亡にカグツチが関係していることが推察されますが、私はそれを解明する手懸りは『後漢書』の次の文だと考えています。

建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり

この文で問題になるのは「倭國の極南界なり」の意味です。倭人伝は国名のみの21ヶ国を列記していますが、その最後の奴国について「女王の境界の尽きる所」としています。先に述べたように最後の奴国は豊後の直入郡です。

私は『後漢書』の「倭國の極南界なり」と、倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じだと考えています。直入郡は豊後、肥後、日向三国の国境が交わる所ですが、その直入郡は一世紀中葉にあっては「倭國の極南界」であり、三世紀中葉にあっては「女王の境界の尽きる所」だったと考えます。

豊後の直入郡は肥後と接していますが肥後は狗奴国でした。3世紀にも女王国と狗奴国は不和の関係にありましたが、不和の関係は一世紀の奴国の時代以来のもののようです。カグツチも狗奴国(肥後)に関係しており、また大夫と自称した奴国王の使人が2世紀初頭の奴国の滅亡に関係していると考えています。

2010年2月23日火曜日

淤能碁呂島

紀元前一世紀に存在したことの考えられる百余国体制は王莽の失政の影響を受けて崩壊しますが、後漢王朝が成立したことにより奴国王を中心とする「奴国体制」が出現するようです。これがイザナギ・イザナミ二神の島生み・国生みの神話になっているようです。

二神の島生みで生まれる島を見ると、玄界灘と瀬戸内海の島が中心になっており、そこには銅剣・銅矛が分布しています。この神話には玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族と、瀬戸内海沿岸の銅剣を配布した部族の地理観が反映しているようです。

銅矛を配布した部族は北部九州を中心に中細形銅矛を配布しますが、イザナギが禊をして神を生んだという「小戸の阿波岐原」、通説にもなっているように福岡平野や博多湾の周辺と考えてよいように思います。この地は那珂海人の住む場所ですが、私はこの地域を邪馬台国だと考えています。

それに対して中細形銅剣は遠賀川流域、豊後など北部九州の東部から、中国、四国地方にかけて分布しています。これがイザナミであり、銅剣を配布した部族を中心にして形成された国が遠賀川流域の奴国だと考えています。奴国がイザナミの住む「根之堅洲国」であり、スサノオが統治する「海原」面土国(宗像)だと考えています

二神は淤能碁呂島に「八尋殿」と「天の御柱」を見立てて(存在しているように見なして)島を生みますが、古くから柱を神聖視する習慣があったようです。伊勢神宮では本殿中央の床下の柱が、また出雲大社でも中央の柱が神聖視され、共に「心の御柱」と呼ばれています。「天の御柱」を見立てるとは、淤能碁呂島が神聖視されていたということでしょう。

淤能碁呂島については瀬戸内海の家島とするもの、淡路の絵島、友ヶ島群島の沖ノ島とするもの、淡路島の南の沼島とするものなどがありますが、これはイザナギが淡路に葬られたとされていることから考えられたもので、私は博多湾頭の志賀島と見るのがよいと考えています。

いわゆる「地乗り航法」では、山や島が航路を決める目安になりますが、志賀島は玄界灘を航行する那珂・安曇・宗像・崗(遠賀)などの海人たち、とりわけ那珂・安曇海人の航路標識とも言うべきものであり、それだけに神聖視されていたのでしょう。

志賀島からは57年に奴国王に授与された金印が出土していますが、出土地点の沖合に能古島がありそこが玄界灘と博多湾の境のようになっています。志賀島を海人たちが神聖視していたがゆえに金印の埋納場所にもなったのだと考えます。

二神は最初に淤能碁呂島を造りますが、 「海の中道」が沼矛に見立てられており、矛の先から滴り落ちた塩の凝り固まったものが志賀島で、これが淤能碁呂島だと考えられているようです。島ができるとイザナギは左から、イザナミは右から回りますが、これは志賀島周辺の航路を表しているようです。

博多湾(小戸の阿波岐原)から船で遠賀川流域の奴国(根之堅洲国)に行くには、南の博多方面から見て、志賀島の左側(西側)を通り玄界灘に出ます。逆に遠賀川流域の奴国からだと志賀島の右側(東側)から博多湾に入ってくることになります。

神話の伝承地に行って何時も感じることですが、その光景を実に巧みに神話の中に取り入れています。今は志賀島が淤能碁呂島だと思う人はいないでしょうが、古代人の観察の鋭さには驚かされます。志賀島と海の中道・博多湾の関係も例外ではないようです。

島を回り終えて女神のイザナミが先に声をかけたのが悪いことだとされ、二神は再度柱を回り、今度は男神のイザナギが先に声をかけます。これを男尊女卑の思想とする考えもありますが、私は銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族の間に対立が有ったのだと理解しています。

倭人伝の記述では邪馬台国の戸数は七万、奴国は二万であり、57年の遣使は優勢な邪馬台国が行うのが当然のように思われますが、劣勢の奴国王が行っています。この神話ではその不合理さが語られているようです。

このことは中細形の銅矛・銅剣の分布からも考えられます。九州の中細形銅剣の分布は遠賀川周辺と豊後に限られ、しかも極めて少数で九州の西半分にはほとんど見られません。奴国王の統治には中国・四国地方の銅剣を配布した部族が、何等かの影響を与えているようです

銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族は、三郡山地や志賀島を境にして対立するような関係にあったのではないかと考えています。再度柱を回りイザナギが先に声をかけたのは、銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族の間に合意があって、奴国王の統治が認められたということでしょう

2010年2月21日日曜日

神世七代 その2

紀元前108年、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置しますが、前82年に真番・臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは廃止された真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。

私は中期前半を紀元前90年~紀元ころ、つまり紀元前一世紀と考えています。楽浪郡が東夷諸国の交渉の窓口になった、いわゆる大楽浪郡時代に並行する時期です。このころ倭人の百余国が遣使したようです。

前74年に即位した宣帝は武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝とその子の元帝の時代には匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。百余国が遣使したのは宣帝・元帝の時代だと考えています。

紀元前一世紀の北部九州には「百余国体制」とでも言うべきものが存在していたことが考えられます。百余国については他に資料がないので推察になりますが、女王に属している30ヶ国と、その周辺の六百里(260キロ)四方だと考えています。

冊封体制では王の支配できる領域は六百里四方に制限されましたから、九州の北半と中国・四国の西側くらいになると思います。その内の筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の一部の70国ほどが統合されて、後の女王国になる考えます。

紀元前180年ころの箕氏朝鮮の滅亡や108年の衛氏朝鮮の滅亡で、玄界灘・響灘沿岸に渡来人の流入があったようです。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ研究者もいますが、百余国体制はそうした渡来系弥生人を中心にして形成された思います。

百余国の中心になったのは細形の青銅武器が多く分布している対馬や唐津平野・糸島平野・福岡平野など玄界灘沿岸のように思われますが、細形の青銅器は山口県の響灘沿岸にも見られ、宗像市田熊石畑遺跡では最多の15本が出土しました。もっと響灘沿岸に注意を向ける必要があるのではないかと思っています。

中国の氏族は宗族の集合体ですが、中国でも殷・周よりもはるか以前には部族が存在していたようです。中国の氏族は共通の姓と神話・伝説上の始祖を持ち、政治的結合体ですが、元来の倭人の部族は姓も始祖も持たず、文化的結合体であったと思われます

武帝以後、中国の冊封体制に組み込まれた倭人の部族も政治的な側面を持つようになり、中国の氏族のような性格を持つようになりますが、それと共に神話・伝説上の始祖が必要になり、それが「神世七代」の神話になっていると考えます。

神話の冒頭に「別天つ神」として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇摩志阿斯可訶備比古遅神・天之常立神の五柱の神が出てきます。これらの神は高天が原に居る神とされ、神世七代の神とは別系統の神です。

ことに高御産巣日神は「天の岩戸」以後、高天が原の最高司令神として活動しますが、前述のようにこの神は倭人伝の大倭であり、元来の邪馬台国の王です。大倭と卑弥呼・台与がどのような関係にあったかについても先に述べているので参考にしてください。

それに続いて国之常立神・豊雲野神からイザナミ・イザナギに至る、神世七代の神が登場してきます。これらの神は高天が原にいる神ではありません。「神世七代」の神話には百余国のことが語られているようです。

その系譜はイザナギ・イザナミにつながっていますから銅矛・銅剣を配布した部族と関係があるのでしょう。国之常立神・豊雲野神について『古事記』は「独り神として成りまして」とし、『日本書記』の一書は「純男」だと記しています。

その他の神が男女のペアになっているのに対し、この2神だけは単独だというのです。紀元8年に前漢が滅び、25年に後漢が興りますが、私はこの時期を中期後半1期と考えています。この中期後半1期がイザナギ・イザナミの神話の始まる時期であり、その5・6代前が始祖の国之常立神・豊雲野神とされていると考えます。それは百余国が遣使したであろう、宣帝・元帝の時代に当たるように思います。

2010年2月18日木曜日

神世七代 その1

長々と弥生時代後期後半の「邪馬台国以後」を述べてきましたが、ここで「面土国以前」に移りたいと思います。表は青銅祭器の造られた時期を推定したものですが、私は弥生時代を前・中・後期に3区分し、それを90年ごとに前半と後半に中区分し、さらに30年ごと小区分しています。

青銅祭器の形式は年代を表しているわけではありませんが、細形と中細形が中期に造られ、中広形と広形が後期に造られたとされています。部族は相互に対抗して青銅祭器を配布しましたから、銅矛と銅戈、銅剣の形式別年代はほぼ同時期と考えてよいようです。 

大場磐雄氏は『銅鐸私考』で銅矛を使用したのは安曇氏だとしていますが、私は銅矛を配布した部族が神格化されてイザナギになり、銅戈を配布した部族が神格化されてスサノオになると考えています。従って筑紫神話を理解するには銅矛・銅戈を分析すればよいことになります。

銅剣と銅鐸の分布圏が出雲神話の舞台になっていますが、銅剣を配布した部族が神格化されてイザナミになり、銅鐸を配布した部族がオオクニヌシになると考えています。出雲神話を理解するには銅剣、銅鐸を分析すればよいことになります。

神話が史実であることを証明できるのは、倭人伝と対比させることのできる天の岩戸の前後に限られますが、それは247年このことです。これは私の考える区分の後期後半2期になりますが、後期後半は180年から270年までの90年間で、広形の青銅祭器が造られた時期です。後期後半は「邪馬台国時代」と呼ぶことができそうです。

筑紫神話のスサノヲは二世紀初頭から三世紀前半にかけての面土国王でもあり、銅戈を配布した部族でもあります。その活動時期は倭人伝に見える男子が王だった大乱以前の70~80年間と、卑弥呼を共立して以後に分けることができます。

男子が王だった大乱以前の70~80年間は、90年から180年にかけての後期前半内に収まりますが、この時期には中広形が造られています。後期前半は「面土国時代」と呼ぶことできそうです。

スサノオ以前のイザナギ、イザナミの神話の時期は、107年の帥升の遣使以前の1世紀と考えてよく、前漢時代には遡らないと考えます。紀元前後から90年までが中期後半であり、中細形が造られました。中期後半は「奴国時代」と呼ぶことができそうです。

青銅器が祭器に変わるのは紀元前後の王莽の時代であろうと思います。イザナギ・イザナミの神話の始まる時期と、細形が中細形に変わる時期とが一致するようです。前漢が滅んだことにより百余国体制が崩壊し新たな体制が模索されている時に、儒教の宗廟祭祀を重視する思想が流入してきて青銅器が祭器に変わるのでしょう。

とすれば、イザナギ・イザナミ以前の神代七世の神話には、倭人の百余国が遣使した中期前半(紀元前90~紀元)の90年間のことが語られていると見ることができます。まだ青銅器は細形の段階ですが、中期前半を「百余国時代」と呼ぶことができそうです。

神話の時期と、倭人社会に動きが見られる時、及び青銅祭器に形式変化の起きる時は一致するようです。相互に関連しているからですが、それを中国人は倭人との交渉を通じて文字で記しました。文字を知らない倭人は同じことを神話として口伝したのです。それを実証しているのが青銅祭器です。

百余国が中国の冊封体制に組み込まれたことにより、倭人の部族は中国の氏族のような性格を持つようになると思われます。中国の氏族は宗族の集合体ですが、中国でも古くは部族が存在していたようです。それが共通の姓と神話・伝説上の始祖を持つことによって氏族になりました。

倭人の部族も宗族の集合体ですが、共通の姓と神話・伝説上の始祖を持っていません。それに代わるものとして共通の青銅祭器を持つようになります。元来の部族は文化的共同体ですが、青銅祭器を共有することにより政治的共同体に変質して、統治者の王を擁立するようになるようです。

2010年2月5日金曜日

箸墓古墳

ヌナカワミミ(沼河耳)は神武天皇の子の綏靖天皇ですが、その母は三輪のオオモノヌシ(大物主)の孫、ヒメタタライスキヨリヒメ(比売多々良伊須気余理比売)とされています。イスキヨリヒメの家は大和の大神神社摂社、狭井神社の付近にあったとされています。

狭井神社と箸墓は二キロほどしか離れておらず、言ってみれば箸墓はヌナカワミミの母の家の庭のような場所にあります。箸墓の周辺は大三輪氏を介して、神武天皇・綏靖天皇と密接に関係しています。

神武天皇の東遷に同行した異母兄のタギシミミ(多芸志美々)の母は阿多の小椅君の妹、アヒラヒメ(阿比良比売)ですが、阿多の小椅君は天孫降臨神話の吾田にちなむもので、阿比良比売はウガヤフキアエズの活動する吾平に関係します。

タギシミミは長らく朝政にたずさわって経験もあり朝政を自由にしていました。神武天皇の死後、タギシミミはヌナカワミミ兄弟を殺そうとしますが、このことを母のイスキヨリヒメに教えられたヌナカワミミは、逆にタギシミミを殺します。

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、大和朝廷が成立してもその初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いが起きたようです。

東征以前から従って来た中臣氏・忌部氏・猿女氏などの天神系氏族(銅矛を配布した部族)がタギシミミを擁立しようとしたのに対し、東征後に服属するようになった大三輪氏・賀茂氏など地祇系氏族(銅鐸を配布した部族)がヌナカワミミを擁立しようとして対立したことが考えられます。

殯(もがり)は言わば弔問の期間ですが、この期間に弔問者の間で後継者が決められ、墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。ヌナカワミミは親を思う気持ちが強く三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。神武天皇の墓を築いたのはヌナカワミミでしょう。

『日本書紀』はこれを「山陵の事」と記していますが、盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。この時から前方後円という定形化された古墳が姓(かばね)を与えられた者の墓とされるようになるのでしょう。

神武天皇は別名を神日本磐余彦天皇ともいいます。磐余は桜井市中部から橿原市東南部にかけての地域ですが、そこには大和三山のひとつ畝傍山があります。『日本書記』に見える神武天皇の「畝傍山東北陵」を畝傍山の東北に神武陵があるという意味に解釈すると、箸墓古墳を神武天皇陵と見ることが可能になります。

箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖・安寧・懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王に擁立するために造った、神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

ことにヌナカワミミの母は三輪山に祭られているオオモノヌシの孫とされており、箸墓古墳の築造に大神氏(大三輪氏)が関係したことを考える必要があります。箸墓古墳は磯城にありますが、磯城県主の祖にも注意する必要がありそうです。

私は神武天皇東遷開始を266年と考えています。仮に即位まで7年が経過したとすると即位は273年になり、17年だと283年になりますが、即位までに要した期間と在位期間を見込んでも神武天皇の死が4世紀になることはないでしょう。

箸墓古墳の外堤から出土した布留〇式期土器の時期については、240~260年とする説が出されて話題になっていますが、280~300年とするのが一般的です。これだと卑弥呼の時代とは30~50年の差が出ます。私の考える神武天皇の死の時期と箸墓の築かれた時期が一致しますが、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなく、神武天皇の墓と考えるのがよいようです。

これは箸墓古墳の周濠・外堤から出土したという布留0式土器の年代の問題になりますが、古墳の形態からは4世紀中葉という説もあり、「可能性がある」という程度のものと思うのがよいようです。私は「欠史八代」の崇神天皇の時代を360年ころと考えていますが、現状では箸墓古墳が崇神天皇陵であってもおかしくはないと思っています。

2010年2月2日火曜日

神武天皇の熊野迂回 その3

神武東遷のハイライシーンは、金鳶が天皇の弓にとまったためにナガスネビコの兵は目が眩んで戦うことができなくなった場面でしょう。一見するとこれも史実のようには思えません。

金鳶について『生駒市誌』は、鳶とは物部氏の根拠地の鳥見・富雄・登美という地名に由来するもので、ナガスネビコ側の神ではないかとしています。これは『日本書記』が鳥見という地名を金鳶と結び付ていることが根拠になっているようです。

鳶と鳥見・富雄・登美という地名の類似はともかくとして『生駒市誌』の金鳶をナガスネビコ側の神とする考えに同意したいと思います。金鳶のために戦えなくなったナガスネビコは使者を遣わして「天神の子、饒速日命を主君として仕えている。天神の子が二人もいるはずがない。天神の子だと言って国を奪うつもりだろう」となじっています。

天皇が本当の天神の子であることを知ったナガスネビコは、武器を取った以上は途中で止めることはできないとしてなおも抵抗します。そこでニギハヤヒはナガスネビコを殺して天皇に帰順します。金鵄は天皇が支配者として認められたことを表している見ることができます。

金鳶が天皇の弓にとまるのは天皇の大和入りを認めようとする宗族と認めまいとする宗族があったが、前回に述べたように三遠式銅鐸を使用した尾張氏(高倉下)や、近畿式銅鐸を使用した賀茂氏(八咫烏)などがこれを認めたので、大勢が認める方向に動いたということでしょう

ここにはオオモノヌシ(大三輪氏の祖)が出てきませんが、神武天皇は言わばオオモノヌシの入り婿という形になっていて、オオモノヌシは神武天皇の大和入りに大きな役割を持っています。状況証拠になりますが大和の王であるオオモノヌシを金鳶だと考えることもできそうです。

纏向遺跡はオオモノヌシを祭る三輪山の傍にあります。オオモノヌシは卑弥呼の宮殿ではないかと言われている大型建物に有力者を集めて、前述の白柳秀湖の言う「寄り合い評定」を行ったのかもしれません。その「寄り合い評定」で天皇を受け入れることが決定したので、ナガスネビコは戦うことができなくなったという想像もできます。

神武天皇の東遷開始から即位まで『古事記』では7年以上、『日本書紀』では17年以上が経過したことになっています。私は東遷開始を倭人が晋に遣使した266年と考えていますが、7年が経過したとすると即位は273年になり、17年だと283年になります。

こうして天皇は橿原宮で初代の天皇として即位することになっていますが、それは280年ころのことあろうと思います。これは古墳時代が始まる三世紀後半に当たります。280年ころの即位は推察ですが、3世紀後半に大和朝廷が成立したことにより古墳時代が始まることは考えられてもよいと思います

今まで弥生時代が古墳時代に変わる理由、あるいは原因は何かという点が、問題にされることはなかったように思います。土器が弥生式から土師器に変わるとか、古墳が造られるようになると言われていますが、それは時代の特徴(結果)であって原因ではありません。

私は部族が王を擁立した部族制社会から、天皇を頂点とする氏姓制社会に変わったことが原因だと考えています。今までまったくと言ってよいほど部族ということが考えられていなかったので、氏姓制社会への移行も考えられていません。弥生時代が古墳時代に変わることへの疑問が持たれていないのです。

全ての青銅祭器が地上から姿を消すのは、青銅祭器を配布した巨大な部族が統一されて消滅したからです。青銅祭器を用いた部族の宗廟祭祀は大和朝廷から姓(かばね)を与えられた者を始祖とする氏族の祭祀に変わります。そして姓を与えられた者の墓が古墳です。