2011年11月20日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その5

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わりますが、それは万二千里の終点でもあって、伊都国以後の国は「従郡至倭」の行程に含まれない「自女王国以北」の国になります。その距離も万二千里には含まれず、伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は成立しません。

通説は正徳6年(1716)に新井白石が著した『古史通或問』に始まります。『古史通或問』では卑弥呼を神功皇后とし邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、筑後山門郡を邪馬台国としています。

白石が大和を邪馬台国とするについては備後の鞆の浦を投馬国としていますが、これは倭人伝の方位・距離が無視されており、方位・距離を重視すれば邪馬台国・投馬国は九州でなければならず、そこで晩年には筑後山門郡を邪馬台国とするのでしょう。当然投馬国は筑後妻郡になります。

倭人伝を学問の対象にした最初の人物が白石ですが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行っており、対馬国を対馬、一支国を壱岐とし、末盧国を松浦郡とし、伊都国を怡土郡とし、奴国を那珂郡としました。これが今日でも通説になっています。

白石は卑弥呼を神功皇后としていますが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行うについては『古事記』神功皇后記の応神天皇の誕生に関係する次の文を根底に置いているようです。白石の判断は当時の史観なら当然のようにも思えますが、今日から見ると矛盾が生じています。

筑紫国に渡りて其の御子は坐れましつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纏きたまひし石は筑紫国の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅県の玉島里に到り坐して、其の河の辺に御食したまひし時、四月の上旬に当りき。

この文から白石は福岡県糟屋郡宇美町を不弥国としました。また伊斗村は糸島郡(旧怡土郡・志麻郡)二丈町で、ここを伊都国としています。末羅県の玉島里は佐賀県東松浦郡浜玉町で玉島川があり、ここを末羅国としています。

『日本書記』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年冬十月の条)は皇后の対馬から新羅への渡海について「和珥津より發ちたまふ」としていますが、和珥津は対馬上県郡の鰐浦のことで対馬の最北端に位置しています。

対馬の北端から朝鮮半島に渡るとすると、その行き先は釜山・金海になってきます。こうして狗邪韓国は金海・釜山ということになり、対馬の寄港地は鰐浦だと考えられていたが、鰐浦の知名度が低いことから厳原に変るのでしょう。

狗邪韓国を金海・釜山とする説も神功皇后伝承から生まれたもののようですが、朝鮮の研究者がこれを認めているとは思えません。日本との歴史的な関係から任那を伽耶と言っている朝鮮の研究者が故意に認めないのではなく、金海・釜山は狗邪韓国ではないからだと考えるのがさそうです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりでもありす。伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説を手がかりとして以後の各国を比定しても邪馬台国論争に拍車をかける結果になるでしょう。

それどころか倭人伝には末盧国の方位が示されていません。図の青線は壱岐を中心とする千里(65キロ)圏ですが、東松浦半島が末盧国とは限らず青線上の任意の地点が末盧国になり、糸島郡・ 福岡平野は伊都国・奴国ではなく末盧国かも知れません。

東松浦半島付近を末盧国としたのも白石ですが、松浦という地名も伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野と同様の「創作された地名」であることも考えられます。しかし千里という限界があり末盧国は東松浦半島かその周辺としてよさそうです。

それは伊都国以後の各国を比定するための手がかりにはならないということです。これは私が言うまでもなく誰もが気づいていることで、方位・距離を恣意的に解釈して自分の思う所を邪馬台国にしてもよいという風潮がうまれています。

伊都国以後の各国を比定するには白石以前に立ち返って倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて、矛盾の生じない場所を求めるしか方法がないということでしょう。伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどが条件になってきますが、地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないことが求められます。

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