2011年11月13日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その4

狗邪韓国は韓伝の弁韓と同じものであり、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えますが、韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺と考え、対馬への渡海地点は金海・釜山ではなく巨済島だと考えています。

対馬への渡海地点が巨済島なら、その寄港地は厳原ではなく浅茅湾だと考えるのがよいようです。対馬には海神の綿津見神を祭る神社が見られ、また130本以上という多数の銅矛が出土していますが、対馬の銅矛は綿津見神を祭る神社が所蔵しているものが多いのが特徴です。

豊玉村の和多津美神社5本・海神神社6本・金子神社13本などが所蔵されています。この対馬の銅矛のように玄界灘沿岸に多数の銅矛が見られることから、銅矛は外洋の祭祀に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたとする説があります。

私は青銅祭器について部族の配布した宗廟祭祀の神体だと考え、配布を受けた宗族は同族関係にあったと考えていますが、以前には金海の良洞里遺跡で小型仿製鏡などと共に中広形銅矛が出土したと言われていました。現在ではこの銅矛は日本人が持ち込んだものだとか、偽造されたものだとか言われています。

銅矛を配布した部族は通婚関係の生じた宗族に銅矛1本を配布しましたが、朝鮮半島南部に銅矛を配布した部族と同族関係にあった人々がいたことが考えられます。前回・前々回には「海峡圏」の存在を想定しましたが、それを象徴するのがこの朝鮮半島南部の銅矛だと言えるようです。

銅矛が外洋祭祀に用いられたのであれば、「南北に市糴」する交易船一隻に1本が配布され、今日の船舶に掲揚される国旗のように船籍を表したと考えることもできます。いずれにしても対馬の銅矛は朝鮮半島との交流が関係するようです。

図の赤点が銅矛の出土地ですが島の西側の浅茅湾や三根湾周辺に多く東側は少数です。そして厳原周辺には殆ど見られません。これは対馬の西側を航行する船が多く東側を航行する船は少ないということで、帯方郡使の寄港地も厳原とするよりも浅茅湾か三根湾とするのがよいでしょう。

インチョンから巨文島までが七千余里ですが、巨文島~巨済島間は二千里でインチョンから巨済島までは九千里になります。対馬の浅茅湾までは一万里になり、東松浦半島まではおよそ万二千里になります。つまり帯方郡から倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸になります。

通説では倭人伝の地理記事に見える方位・距離の起点・終点は、共に郡冶(郡役所)や国都などの中心地だと考えられており、大和の纏向遺跡や九州の吉野ヶ里遺跡などのような著名遺跡を邪馬台国だと喧伝することが行われていますが、倭人伝の地理記事は国都の位置を示してはいません。

起点は郡冶や国都などの中心地ですが、終点は中心地ではなく郡境・国境・海岸などの境界です。帯方郡から狗邪韓国までの七千余里の終点は狗邪韓国の国境でなければならず、それは巨文島付近になります。万二千里の終点、つまり「従郡至倭」の行程の終点は邪馬台国ではなく末盧国の海岸でなければいけません。

通説では万二千里の終点は邪馬台国だと考えられていて、九州説では福岡県糸島市付近までが万五百里であり、残りの千五百里が糸島と邪馬台国の間の距離だとされています。畿内説は伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野でよいが、この千五百里を無視し、奴国以後の方位も無視しようというものです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりですからこの通説は成立しません。この誤った通説を根拠としているために、邪馬台国の位置論は倭人伝の方位・距離を無視して語られるようになっています。

私の参加した講演会でも講演者は質問に対し、邪馬台国はキャッチフレーズであって方位や距離とは関係がないと応答していました。講演者はアマチュアの方でしたが自分の考えを正直に言っているようです。プロなら答え方を工夫するでしょうがアマチュアもプロも同じことをしています。

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