2011年6月26日日曜日

高天原神話 その5

卑弥呼の死後には銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。その結果台与が共立されますが、台与は13歳の少女で名目だけの女王だったようです。

天岩戸にこもる以前の天照大神は自身で活動しますが、天岩戸以後には単なる指令神であったり、高木神とペアで指令を下したりしていて、女王国の実権は大倭(高木神)が掌握していたようです。その大倭の参謀総長、兼台与の官房長官難升米のようです。(2009年9月16日投稿)

卑弥呼は弟が補佐しましたが台与を補佐したのが難升米のようです。私は高木神が大倭だと考えていますが、そうであれば台与を補佐したのは大倭のようにも思えます。しかし大倭はキングメーカー(陰の実力者)のようです

238年には卑弥呼が「親魏倭王」に、また難升米は率善中朗将に冊封されています。「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる地位ですが、難升米の中朗将は比二千石(実質では千二百石)が任命される中央政府の官職です。

中央政府の官職には「中二千石」や「万石」もありますが、地方行政官では州刺史が最高位の二千石であり、大郡の太守が千石、小郡の太守が六百石ですから、比二千石の難升米は州刺史と大郡太守の中間の地位になり、地方行政官としては相当な高位です。因みに帯方郡使の張政の塞曹掾史は百石です。

難升米に黄幢が授与されたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に報告したからですが、行政官が軍事行動を起こす際には武官位が追送されます。黄幢は比二千石の武官が軍事行動を決行する時に授与されるもののようです。比二千石の武官には校尉がありますが、難升米は「護狗奴校尉」のような魏の武官位を追与されて狗奴国討伐を指揮したのでしょう。

このような活動のできた難升米はどのような背景を持つ人物なのか気になるところですが、倭人伝の記述するところから見て安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ていて外交を熟知していることが考えられます。

魏皇帝の黄幢・詔書を利用して狗奴国を討伐するという発想は、いかにも外交を熟知した難升米らしいと言えます。狗奴国討伐が『古事記』のスサノオによる保食神殺しや、『日本書紀』のツキヨミによる大気津比売殺しの神話になったと考えていますが、保食神・大気津比売は食物の神であることが共通しています。

247年ころに台与が遣使していますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたのであれば、難升米の官位も認められたことが考えられます。このころスサノオの高天が原追放で語られている、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、銅戈を配布した部族が消滅します。

銅戈を配布した部族が消滅したことで王位を巡る部族間の対立はなくなり、女王制は有名無実になってきますが、そこで台与を退位させ男王を立てて、倭人を統一する動きが出てくるようです。その一環がホノニニギの天孫降臨ですが、それを画策したのは大倭(高木神)であり、魏の率善中朗将にして狗奴国討伐の指揮官でもある難升米のようです。

黄幢・詔書は247年に届きますが、届けた張政は台与と難升米に「檄を為して告喩」したと書かれています。台与と共に難升米が「告喩」されていることを見ると、難升米は内政においても的確な判断の下せる人物だったようです。

倭人伝の記事は正始8年で終わっており、難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間ですが、239年に卑弥呼の使者になり率善中朗将に任ぜられたのが40歳だったと仮定すると、黄幢、詔書が届いた時には40歳代の後半だったことになります。

2009年9月の投稿では神武天皇の年代を明らかにできませんでしたが、5月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べたように266年の倭人の遣使が神武天皇の行ったものであれば、ホノニニギの天孫降臨は250年代であることが考えられ、これも難升米の発案であり難升米が50歳代のころであったことが考えられます。

266年の倭人の遣使が契機になって270~80年代に大和朝廷が成立すると考えますが、難升米が生きていれば70~80歳のころのことになりそうで、難升米の生涯は大和朝廷の成立に賭けたものであったということになりそうです。

2011年6月19日日曜日

高天が原神話 その4


倭人伝に租賦(税)が徴収されそれを収めるための邸閣(倉庫)があり、また国々に市があって有るものと無いものが交易されているが、大倭がこれを監督しているとあります。大倭とは倭の最高有力者といった意味のようです。

大倭については大倭王のことでありそれを奴国王だとする説があり、また畿内説では大和の有力者だとする説もありますが、神話では天岩戸以後、天照大神と高木神(高皇産霊尊・高御産巣日神)がペアで活動するようになります。

高木神はしばしば天照大神を差し置いて単独で活動することがあり『日本書紀』の一書は「皇祖」としていますが、「卑弥呼以後」を考える上で高木神を無視することはできません。

高齢の卑弥呼と違って台与は13歳の少女で女王としてのカリスマ性に欠けており、カリスマ性という面では大倭の方が勝っていたような感じを受けます。大倭は女王国の事実上の支配者のようで、高木神と大倭の性格が一致します。

卑弥呼は共立されて邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の王ではありません。邪馬台国には元来の支配者(王)が居るはずですが、神話の冒頭で高木神(高御産巣日神)は高天が原に居る「別天つ神」の1柱とされており、邪馬台国の元来の支配者は高木神のようです。

高木神を祭る神社は旧高木村を中心とする上座郡とその周辺(邪馬台国)、及び国境を跨いで隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)に分布しています。倭人伝の記述から大倭はこれらの地域の交易を差配していたことが考えられます。

上座郡は筑後川に面した郡で、高木村は筑後川支流の佐田川の上流部に位置していますが、筑後川の川舟による交易がおこなわれていたことが推察されます。交易品は筑後川の水運により筑後や肥前の市場に、また遠賀川の水運によって筑前東部や豊前の市場に供給されたでしょう。

大倭は筑前内陸部・筑後・肥前・豊後など筑後川流域の物資と、筑前東部・豊前など遠賀川流域の物資を交互に流通させて、女王国全体の過不足を調整していたと考えられ、その中継地点が上座郡の高木村であったことが考えられます。

高木村は平凡な山間の村ですが、その地勢から見て隣の小石原村とは一体であり、物資の中継地の役割を果たしていたとするのがよいようです。近世の筑前21宿の小石原宿は北の嘉麻・田川方面、東の英彦山方面、南の宝珠山方面、西の朝倉・甘木方面など、四方に伸びる交通の要所だったので、日田街道の脇宿として栄えました。

3世紀の交易ルートについては西の秋月・甘木に至るルートも考えられますが、このルートは筑後川には遠くなり、西の二日市地峡方面への搬送するルーとだと考えるのがよさそうで、遠賀川流域の交易品は高木村を南下して、旧朝倉村の筑後川畔に至るルートで運ばれたと考えます。

ルートが筑後川と接するのはその地勢から志波か山田になると考えますが、志波は安本美典氏も注目している場所です。その志波と山田の中間の恵蘇宿に恵蘇八幡宮があり、その前の筑後川に山田井堰と呼ばれている堰堤が設けられています。

井堰付近に渡し場があったということですが、このあたりから水深が急に深くなるため渡し舟が必要だったのでしょう。この渡し場は筑前・筑後の物資の流通経路でもあったでしょうが、大倭が監督して流通させていた交易品もここにあった船着場で揚げ降ろしされたと想像しています。

私は恵蘇八幡宮の背後の御陵山にある古墳が卑弥呼の墓だと思ってきました。御陵山は予想される船着場から見上げる位置になりますが、卑弥呼の墓は船着場から見上げることを意識して築かれており、それが人口に膾炙されて帯方郡使の張政の耳に入り、倭人伝の「大作冢、径百余歩」という文になったと考えていました。

神話には天岩戸にこもる以前の天照大神(卑弥呼)と高木神(大倭)の関係を示す記述がありませんが、高木村や小石原村が高木神と関係するのであれば、高木神とペアで活動する天照大神、つまり台与のとするほうがよさそうにも思えます。確証がないので卑弥呼・台与と限定せず天照大神の墓としておくのが無難のようです。

2011年6月12日日曜日

高天が原神話 その3

太宰府天満宮蔵本『翰苑』は誤字・脱字が多く資料としての価値は低いと考えられていますが、その中に次の文が見えます。私はこの文が邪馬台国の位置を決める鍵になると考えています。

邪届伊都、傍連斯馬 廣志曰、(倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉国、百(自)女〔王〕国以北、其戸數道里、可得略載

表題の「邪届伊都傍連斯馬」については「邪めに伊都に届き、傍わら斯馬に連なる」と読む説や「邪は伊都に届き、斯馬の傍に連なる」と読む説がありますが、いずれにしても「自女王国以北」か、それに近い所に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることになります。

そしてある地点の東南五百里に伊都国があり、その地点の南には邪馬嘉国があるということのようですが、邪馬嘉の「嘉」は台か壱の誤字で邪馬台国のことでしょう。この文では奴国・不弥国・投馬国が省略されています。

倭人伝の地理記事が直線行程なら、伊都国と邪馬台国の間に奴国・不弥国・投馬国が位置していることになりますが、この文だとこれらの国を考慮する必要がありません。これは「自女王国以北」の国々の方位・距離は放射行程だということです。

『広志』の原書が失われているので確証にはなりませんが「邪届伊都」の「邪」を邪馬台国のことだとすると、ある地点の東南に伊都国があり、南には邪馬嘉国が有って、邪馬嘉国は一方で伊都国に届き、また一方では斯馬国に連なっていることになってきます。

「邪」が邪馬台国のことではないにしても、「自女王国以北」に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることに違いはないようです。

「ある地点」は宗像郡だと考えていますが、伊都国は糸島郡ではなく田川郡であり、斯馬国は糸島郡のうちの旧志摩郡だと考えます。伊都国(田川郡)に届いているのは現在の朝倉郡東峰村になります。

東峰村は旧宝珠山村と小石原村が合併したもので、律令制の上座郡(かむつあさくら)に属しており、現在の朝倉市東半と東峰村が上座郡になります。従って志摩郡と上座郡の間の筑前西半が邪馬台国ということになってきます。

筑前を三郡山地で東西に二分した時の西側には甕棺墓が見られますが、東側は土坑墓・石棺墓で、東西で文化に相違があったようです。甕棺墓が見られる地域が邪馬台国であり、土坑墓・石棺墓の地域が奴国のようです。

上座郡は筑前・筑後・豊前・豊後の国境に位置し、国境を越える交通路も存在しています。また肥前国境もごく近距離にあります。このように見ると邪馬台国の地政学上の中心は上座郡と見るのがよさそうです。

こうしたことから私は豊前・豊後・筑前・筑後の4ヶ国に肥前の佐賀県部分を加えたものが女王国だと考え、伊都国(田川郡)に届いている上座郡が卑弥呼の都のあった邪馬台国であり、神話の高天が原だと考えます。

この考えは安本美典氏の一連の著書から得たものですが、安本氏は上座郡、ことに旧志波村に神話に関係するものがあることを重視しつつ、下座郡(しもつあさくら)や夜須郡をも含めた地域を邪馬台国(の中心部)とされているようです。

それに異論はありませんが『翰苑』の「邪届伊都傍連斯馬」に拘ってみたいと思っています。その東峰村の西が1955年に甘木市に編入された旧高木村ですが、高木村を中心とする上座郡、及び隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)の南部に多数の高木神社が見られます。

英彦山は修験道の道場として知られていますが、3月投稿の「一大率」では豊前のサルタヒコが山王信仰の影響で猿に変わることを述べました。上座郡周辺の高木神には山王信仰の大行事権現の影響を受けて大行事社の祭神になっているものがあり、高木神を祭る神社は相当数にのぼります。

2011年6月5日日曜日

高天が原神話 その2

銅剣を配布した部族が神格化されたものがイザナミであり、銅剣を配布した部族が神格化されたものがイザナギだと考えていますが、イザナミは銅剣を配布した部族に擁立された奴国王でもあると考えます。イザナミが火の神・カグツチを生んだために焼死するのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことが語られているようです。

滅んだ奴国王に代わって倭の盟主になるのが107年に遣使した面土国王の帥升ですが、これが神話のスサノオであり面土国は筑前宗像郡のようです。

このように考えると高天が原神話の構造が見えてきます。図は私の考える高天が原神話の概念ですが、イザナギ・ミイザナミが島や国、神々を生むオノゴロ島は筑前の志賀島のようです。

志賀島からは57年に奴国王に授与された金印が出土していますが、志賀島が神聖視されていたが故に金印の埋納地になり、神話の舞台にもなったのでしょう。

イザナギは神退り(かむさり、神でなくなること)したイザナミを追って「根之堅洲国」に行きますが、「根之堅洲国」は「黄泉の国」とも言われ、一般に出雲だと考えられています。ここで神話の舞台は筑紫から出雲に移ります。

舞台が急に変わるので途惑いますが、出雲神話のイザナミは370本にものぼる中細形銅剣C類や、瀬戸内の平形銅剣を配布した部族でもあるようです。高天が原のイザナミと出雲のイザナミは銅剣を配布した部族という点では一致するものの、区別して考えなければならないようです。

「黄泉の国」から逃げ帰ったイザナギは「橘之小戸之阿波岐原」で禊ぎをして22神を生みますが、生まれた神の中には志賀海神社の綿津美3神や、住吉神社の筒之男3神、警固神社の直比神ように博多湾の沿岸で祭られているものがあり「小戸之阿波岐原」は博多湾の沿岸とするのがよいようです。

『古事記』で22神の最後に生まれたとされている天照大御神は卑弥呼であり、月読は卑弥呼の弟のようです。またスサノオは面土国王のようです。イザナギは天照大御神には高天が原を、月読には夜之食国を、スサノオには海原を統治するように命じています。

『日本書紀』の一書は天照大御神と月読は天に送り上げられたとしていますが、天とは高天が原のことであり邪馬台国のことです。2神が天に送り上げられたのは、王になった卑弥呼を弟が補佐するようになったということのようです。

筑前の筑後川水系域が高天が原で、ここが卑弥呼の都のある元来の邪馬台国だと考えます。筑後が夜之食国でありそれは投馬国だと考えていますが、邪馬台国と奴国・面土国は対立しており、そのために投馬国の有力者である卑弥呼姉弟が共立されて女王国を統治するようになるのだと考えます。

私の考えは邪馬台国と投馬国は宗像郡(面土国)の南になければならないということから始まりますが、以後に述べることの多くは、安本美典氏の『高天原の謎』(講談社現代新書、昭和49年)の163~173ページに依拠しています。

「小戸之阿波岐原」と高天が原が戸数7万の邪馬台国のようですが、元来の邪馬台国は筑前上座郡(現在の朝倉市の東半と東峰村)だと考えています。そこから見る筑紫平野の光景は、まさに高天が原から下界を眺める感があります。

宗像郡が海原であり面土国だと考えていますが、図の赤線は倭人伝・神話から想定した交通路です。天之八衢は田川郡で伊都国であり、海原と天之八衢の間が倭人伝に見える「東南陸行五百里到伊都国」の行程だと考えます。

概観すると高天が原神話は、海原(面土国、スサノオ)・根之堅洲国(奴国、イザナミ)と、高天が原(邪馬台国、天照大神)・小戸之阿波岐原(邪馬台国、イザナギ)・夜之食国(投馬国、月読)とは対立する関係にあり、天之八衢(伊都国)には猿田彦(一大率)が配置されて海原と根之堅州国を「検察」しているという構図になるようです。