2011年3月27日日曜日

一大率 その4

筑紫神話で活動する神なら筑紫で祭られていてもよさそうなものですが、政治の中心が大和に移ったことにより、例によってサルタヒコもアメノウズメも伊勢や大和で祭られていて、三重県鈴鹿市の椿大神社がサルタヒコを祭る神社の総本宮とされています。

豊前京都郡には鈴鹿市の椿大神社と関係のありそうな椿市村があります。今の行橋市長尾の周辺で、今でも学校名や駐在所名は長尾ではなく椿市になっています。長尾は景行天皇紀12年条に見える長峡縣の行宮の地とする説もあります。

行橋市稗田の付近には他にもサルタヒコに関係すると思われる伝承が見られ、行橋市草場の豊日別宮(草場神社)は宇佐神宮の特殊神事の放生会神事に先立って、香春町採銅所で鋳造された鏡が運ばれてくる神社とされています。豊前国一の宮と称したこともある豊前北部では最も格式の高い神社で、その主祭神は豊日別です。

伝承ではその神官の大伴連牟彌奈里に佐留多毘古大神の神託があって、豊日別のために伊勢神宮なみの神宮が建てられ、サルタヒコは別宮としたとされています。この社伝ではサルタヒコが祭られていることになりますが、神官の大伴連牟彌奈里は天忍日を祖とする大伴氏と関係がありそうです。

天孫降臨には中臣連らの祖のアメノコヤネ(天児屋)が随行しますが、『倭名類聚抄』には豊前仲津郡の8郷の内に中臣郷があり、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』は中臣氏の発祥の地ではないかとしています。これについては京都郡みやこ町付近とする説が有力なようです。

付近には大伴氏・中臣氏に関係する伝承があり、猿女君・稗田氏に関係すると思われる地名もあります。このように考えると豊前風土記を引用したという「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」は、案外に根拠のあることのように思えてきます。

「蓋し天照大神の神京なり」については台与の都という説もありますが、天孫降臨の出発地かどうかという点も含めて、台与の時代以後、女王国と「葦原中国」、つまり出雲や吉備・大和との接触の拠点になったことは考えられてよいと思います。

図は九州で鋳型が出土している「福田形」と呼ばれる古式銅鐸の搬送ルートを想定したものです。銅矛は山陰では島根県荒神谷遺跡の16本以外には出土していませんが、これも瀬戸内や四国西部に分布している銅矛の分流であることが考えられ、同様の搬送ルートが想定できます。
 
北部九州で鋳造された銅鐸や銅矛は宇佐か草野津で舟積みされ、安芸から中国山地を超えて出雲に持ち込まれたと考えます。「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」も字義通りではなく、こうした視点から考えてみる必要がありそうです。

図の福田形銅鐸の搬送ルートはさらに東に伸びるように作図しています。図の3もそうですが銅鐸そのものは出土していないものの、播磨国神前郡(兵庫県神崎郡)にスクナヒコナの伝承があることから、福田形銅鐸の存在を想定しています。(2009年12月投稿)

播磨に福田形銅鐸があったのであれば、近畿地方の近畿式銅鐸の祖形は福田形銅鐸だと考えられるようになります。これは近畿を中心として銅鐸の祭祀が行われるようになるについては宇佐や草野津が関与している可能性があるということでしょう。

それは出雲の国譲りや天孫降臨、あるいは武天皇の東遷にも言えるでしょう。邪馬台国=畿内説では邪馬台国が発展して大和朝廷になるとすることができますが、九州説では神武天皇が東遷して大和朝廷が成立すると考えなければならなくなります。

天孫の降臨先がなぜ出雲ではなく南九州なのかという問題もありますが、北部九州勢力の東方進出に宇佐や草野津が関与しているというのであれば、当然のことではありますが図の福田形銅鐸の搬送ルートに示したような、瀬戸内海航路による東方進出が考えられます。

この地を邪馬台国とするよりも東方進出の拠点であったことが意識されてよいように思います。このことは卑弥呼が貰ったという100枚の銅鏡にも言えそうで、この銅鏡が北部九州とは無関係に丹後や若狭に陸揚げされて、畿内を中心にして配布されたとは思えません。

100枚の銅鏡が三角縁神獣鏡ならなおさらこのことが言えます。鏡を尊重する風習も北部九州を経由して入ってきたことが考えられますが、100枚の銅鏡は宇佐や草野津から、後に神武天皇が東遷することになる畿内や、その周辺に配布されたとするのがよさそうです

2011年3月20日日曜日

一大率 その3

女王制では女王の統治権と一大率の軍事・警察権、及び大倭の経済権がそれぞれ独立していたようです。面土国王は帯方郡・諸韓国からの使節だけでなく、女王の派遣する使節をも捜露していますから、倭人伝の一大率と「如刺史」とは別の官職であり、面土国王は外交権を掌握していたことが考えられ、4権が分立していたことが考えられます。

天孫降臨は台与の後の王(ホノニニギ)の時代に侏儒国が併合されたということのようですが、これは軍事行動であり、一大卒の軍事・警察権を干犯する行動だったと思います。タケミカズチ・フツヌシが出雲の大国主に国譲りさせるのも同様であろうと思います。

サルタヒコの問いかけに対して、アメノウズメが「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と答えているのは、一大率が廃止されて、台与の後の王(ホノニニギ)に軍事権が付与されたということだと思います。

『古事記』の神話を語り伝えた稗田氏はアメノウズメとサルタヒコの子孫とされています。香春付近に猿田彦の石塔が多いことから見て、周辺にアメノウズメに関係する猿女氏、あるいは稗田氏の伝承がありそうなものですが、アメノウズメは芸能の神とされているためか、残念ながらそれが見当たりません。

田川郡糸田町に稗田という集落がありますが、立地が中元寺川の河川敷と思われることから見て後世に生まれた地名のようです。その点では香春に近い行橋市にも稗田がありこちらは相当に古い歴史があるようです。

豊前風土記に曰く、宮處の郡(みやこのこおり)、古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し天照大神の神京なり。云々
                                  (中臣祓氣吹抄上)

この文は邪馬台国=京都郡説の有力な根拠になっていますが、狭間畏三氏は『神代帝都考』でこの地方を高天が原としています。この文によればホノニニギの天孫降臨の出発地も京都郡ということになり、サルタヒコが田川郡(伊都国)にいたのであれば、アメノウズメが京都郡(伊弥国)にいてもおかしくはありません。

行橋市草葉の付近は往古、律令制官道の要港になっていて「草野津」と呼ばれ、田川郡を経由して大宰府に至る田河路の起点になっていました。その周辺が「宮處の郡』ですが、草野付近には稗田や椿市など、猿女君・稗田氏に関係すると思われる地名が見られます。

行橋市稗田の氏神は大分八幡宮で、南北朝期に筑前国穂波郡の大分八幡宮が勧進され、本殿の祭神を神功皇后・応神天皇・比女大神とし、相殿の祭神を大山咋としています。奈良時代以前にも小祠があったということですが、サルタヒコが祭られていたと思います。

大山咋は滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ・ひよし)神社の祭神で、日吉神社は比叡山延暦寺の地主神とされ、天台仏教と神道が融合した山王信仰の中心になっています。山王信仰は「修験道」とも言われていて「役行者」の名が知られています。

その特徴は山を修行の場とすることで、各地にそうした山が存在していて、九州では英彦山が中心になっています。その伝説上の行者は「豊前坊」と呼ばれ、豊前坊はオシホミミ(忍穂耳)が降臨してしまったので、役行者が英彦山で修行した時に出現したとされています。

求菩提山(豊前市境)には烏天狗の伝説があり、国東半島の「六郷満山」も修行の場として知られています。サルタヒコと修験道の行者が融合して天狗になるようですが、山王信仰ではサルタヒコと猿が結び付けられて、猿が神の使いとされています

大分八幡宮の大山咋は平安時代に英彦山を中心とする山王信仰が広まったことにより祭られるようになったのでしょう。天正8年の遷宮で本殿の祭神は神功皇后・応神天皇・比女大神になり、大山咋は相殿の祭神になったということです。

このことから稗田の地名の由来は日吉(ひえ)の神である大山咋の神領であることによると考えられているようですが、山王信仰はサルタヒコや猿と関係しています。前回に述べた奈良県大和郡山市稗田の賣太神社や、三重県鈴鹿市の椿大神社との関係を考えてみる必要があるように思います。

豊前のサルタヒコは英彦山・求菩提山の山王信仰と融合して猿に変わっているようです。私は京都郡を国名のみの21ヶ国の3番目に見える伊邪国と考えるので、邪馬台国=京都郡が成立するとは思っていませんが、「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」はこの地方に猿女君・中臣氏・大伴氏などの伝承があったことによるのでしょう。

2011年3月6日日曜日

一大率 その2

ホノニニギ(台与の後の王)の天孫降臨には五伴緒(いつのとものお)と呼ばれる五柱の神が随行しますが、いずれも大和朝廷の祭祀を行う氏族の祖のようです。『古事記』では次のようになっていますが、右欄は氏族名やその性格から見た私の考える職掌です。

天児屋      中臣連らの祖     政事にかかわる祭祀を担当
布刀玉      忌部首らの祖     祭事にかかわる祭祀を担当
天宇受売    猿女君の祖      卜占を担当
伊斯許理度売 作鏡連らの祖     祭祀具の鏡を鋳造
玉祖       玉祖連らの祖     祭祀具の玉を製作

猿女君は朝廷の行う大嘗祭の前行程や、鎮魂祭の演舞を行う巫女の、「猿女」を貢進した祭祀氏族だと考えられていて、同じ祭祀氏族でも中臣氏や忌部氏などは男性が祭祀に携わりましたが、猿女君は女性が巫女として祭祀に携わったために勢力が弱く、中臣氏・忌部氏ほどの活動が見られません。

猿女君は伊勢を本拠としたようで、三重県鈴鹿市の椿大神社は伊勢国一の宮で、サルタヒコを祭る神社の総本宮とされています。その支族の稗田氏は朝廷の行事に参加する必要から大和国添上郡稗田村(奈良県大和郡山市稗田)を本拠としていて、賣太神社は稗田阿礼、サルタヒコ、アメノウズメを祭神にしています。

『古事記』序文にその名の見える稗田阿礼もその一族ですが、阿礼は女性だとする説もあります。阿礼が男性なら猿女君一族の男性に大和朝廷の「語部」を職掌とする者がいたことが考えられます。倭人伝に次の文が見られます。

以婢千人自侍。唯有男子一人給飲食。伝辞出入。居処宮室・樓觀・城柵嚴設

卑弥呼は大きな宮殿に住み、婢(はしため)が千人も侍して(かしづいて)いるというのですが、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞を伝えるために出入りしているばかりでした。そのギャップが面白いのですが、この文の感じでは大きな宮殿には女性ばかりが千人もいて男性は少なかったように思えてきます。

婢千人は女王国にいる巫女の数のように思います。卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」とあります。鬼道を当時の中国で盛んだった道教と結び付ける説もありますが、神意を占ってそれを政治に反映させるものでしょう。

成文化された法や令のない社会では慣習や前例が法・令になりますが、慣習や前例のない場合には神意を占い、それが法・令になりました。律令時代以前の大和朝廷では中臣氏は政事(まつりごと)に関わる祭祀を担当していたと考えます。

猿女君は中臣氏や忌部氏が職掌とする慣習や前例のない事態が発生した時に神意を占う巫女を出したのだと考えます。それは国家の運営から庶民の日常生活に及びますから、その範囲は今日風に言えば日本国憲法の解釈から近所付合いのルールにまで至ります。

卑弥呼が一人でそのすべてを処理できるとは思えません。卑弥呼は国事を卜占してそれを政治に反映させていましたが、その卑弥呼を助けていたのが千人にも及ぶ巫女であったと考えます。それが「以婢千人自侍」と誤解されているのでしょう。

アメノウズメの胸乳を露に出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天の岩戸の前での姿と同じです。これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。

猿女氏は大和朝廷内で巫女を出すことを職掌としましたが、アメノウズメも巫女だと考えるのがよさそうで、倭人伝に見える婢千人を管理しているのがアメノウズメだと考えることができそうです。天の岩戸に籠もる天照大神は卑弥呼であり、岩戸から出てきた天照大神は台与ですが、アメノウズメが岩戸の前で踊るのは女王がいなかったということでしょう。
                                         
女王であると同時に巫女でもある卑弥呼・台与のいない時にアメノウズメが活動するようで、サルタヒコに向き立つアメノウズメも、台与が退位して女王がいない時期に、猿女君の祖が女王の代役(後の伊勢神宮の斎王)のような立場にあったことが語られているようです。

アメノウズメは命ぜられてサルタヒコの元に出向きますが、サルタヒコはアメノウズメに送られて伊勢の阿耶訶(あざか、三重県松坂市)に行くことになっています。これはすでに台与が巫女としての役割を果たしていないということであり、女王制が廃止されると同時に一大率の制度も廃止されたということでしょう。