遠賀川流域が「自女王国以北」だと考えていますが、そこは面土国王(スサノオ)が「刺史の如く」支配していました。それは鞍手郡の物部氏の遠祖との連合支配でしたが、台与の後の王(ホノニニギ)の即位に反対したために物部氏の支族が消滅するようです。
その後にホノニニギの「天孫降臨」が始まりますが、降臨するホノニニギをサルタヒコ(猿田彦・猨田彦)がアメノヤチマタ(天八達之衢)で待ち受けていました。私は伊都国を田川郡だと考えていますが、サルタヒコは伊都国で常治していた一大率だと思っています。
遠賀川流域では猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔をよく見かけますが、初めて見たのは北九州市の小倉城のもので強く印象に残っています。サルタヒコは道教の「道祖神」や山王信仰の猿と融合して、賽ノ神と同様に道路が交わる辻を守護する神とされています。
サルタヒコの石塔は田川郡香春町の鏡山の周辺に特に多く見られて、鏡山の隣の岩原・宮原では集落内に三〇基以上があります。香春と猿の関係については香春町採銅所の現人神社の祭神で、香春城主の原田義種を猿が救ったという伝承があり、猿を神の使いとする山王信仰の影響を受けているようで、石塔には「庚申」と刻まれているものもあります。
その後この地方で疫病が大流行し原田義種を救った猿の信仰が広がり「お猿様」と言われて親しまれていて、以前には現人神社の祭礼の日には北九州市などから臨時列車が編成されるほど賑わったということですが、この「お猿様」とサルタヒコが融合しているようです。
鏡山付近に猿田彦の石塔が多いのは山王信仰と無関係ではないようですが、猿田彦信仰は遠賀川流域や豊前に広く見られますから、鏡山付近に一大率、つまりサルタヒコが居たという伝承があったと考えるのがよさそうです。
国道201号線と322号線は鏡山で分岐しており、201号線は行橋方面に、322号線は小倉方面に到りますが、201号線が律令制官道の田河路になります。鏡山のように道路が四通八達している交通の要所が賽ノ神・庚申や猿田彦が祀られる場所になっています。
私は奴国の「東南至奴国百里」を宗像郡(面土国)と鞍手郡(奴国)の郡境の猿田峠だと考えていますが、猿田と言う地名から見てここに一大率配下の兵が配置され、面土国と奴国を監視していたようです。直方市にも猿田があり猿田彦神社があります。
猿田峠の西側(宗像市)には猿田という集落があり、その隣の高六にはサルタヒコを祭る神社があります。小さな神社ですが行橋市草場の豊日別宮(草葉神社)と関係があるようです。私は高六を猿田だと勘違いしていましたが、猿田にも神社があるようで、おそらくサルタヒコかトヨヒワケ(豊日別)が祭神でしょう。
さて先払いの者が帰ってきてアメノヤチマタ(天八達之衢)に一人の神がいると報告しましますが、これがサルタヒコでいかにも恐ろしげな姿です。私はこれを倭人伝に見える「自女王国以北。特置一大率検察諸国。畏憚之」の、諸国が一大率を畏れ憚っているさまを描写していると考えています。
「一人の神が天八達之衢に居ます。その鼻の長さは七咫、背の長さは七尺余り。まさに七尋と言うべきでしょう。また口尻は明るく輝いています。眼は八咫鏡のようで照り輝く様子は赤いホオズキに似ている」という。
後にこれが山王思想(修験道)と結びついて想像上の天狗になるようです。ホノニニギに随行する神を遣わして何者なのか問わせようとしますが、その姿が恐ろしくて誰も問いかけることができません。そこでアメノウズメ(天鈿女・天宇受売)が遣わされます。
天鈿女はその胸乳を露に出して、裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ。此の時に衢神(ちまたのかみ)は問いかけて「天鈿女、汝が為しているのは何の故があっての事か」という。答えて「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と言う。
この神話ではサルタヒコとアメノウズメがペアで活動していますが、アメノウズメの胸乳を露出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天照大神の籠っている天の岩戸の前での光景と共通しています。
これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。この神話についてはサルタヒコとアメノウズメの子孫とされている猿女君の性格を知ること、及び「敢て(あえて)問う」と言っていることの意味を考えてみる必要がありそうです。
2011年2月20日日曜日
台与の後の王 その5
一月に投稿した「宇佐説・その4」で、台与の時代には周防灘沿岸の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったであろうことを述べましたが、「自女王国以北」を支配していた面土国王と、それに加担する物部の支族が滅亡したことでそれが加速するようです。
ホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)には天孫降臨の事績があり、フツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになっていますが、葦原中国は出雲、あるいは大和だと考えられています。ところがホノニニギの降臨先は出雲でも大和でもなく日向とされています。
中国の諸王朝は敵対する大勢力の出現することを警戒して、冊封体制で支配領域を稍(260キロ四方)に制限していましたから、台与の後の王(ホノニニギ)が出雲や大和を支配するには冊封体制が障害になります。ホノニニギの降臨先が出雲や大和でないのは、まだ魏(あるいは晋)の冊封体制から離脱できていなかったということでしょう。
倭の五王の時代(413~502)には明らかに大和朝廷は存在していますから、倭人が中国の冊封体制から離脱したのは、倭人伝の記述の終わる247年から413年の間で、この間に大和朝廷が成立するのでしょう。
具体的には265年以後の3世紀後半だと考えていますが、とすれば266年の倭人の遣使の意味を考えなければならなくなります。『日本書紀』は266年に遣使したのは台与だと思わせようとしていますが、私はこれを神武天皇の東遷を成功させるためには、晋の爵号が必要だったと考えています。
日向(日向・大隈・薩摩の3国)が侏儒国ですが、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けたというのは、女王国では台与が在位したままで、男王は侏儒国の支配者としての爵命を受けたのだと解釈し、これが天孫降臨の意味だとすることもできそうです。
図は女王国(筑紫)と侏儒国(日向)の間に地質学上の中央構造線が通っていることを示していますが、構造線は大規模な断層で南北の交通を分断していて、九州の古代文化は中央構造線を境にして大きく異なります。
北側は朝鮮半島からの渡来民と縄文人が混血した「渡来系弥生人」の文化圏ですが、その経済基盤は稲作を中心とする農耕で、通婚関係の生じた宗族が部族を形成しており、銅矛・銅戈を配布したようです。
南はいわゆる縄文系弥生人の熊襲・隼人の文化圏で、青銅祭器は豊後の南部を除いてほとんど見られなくなります。これは中央構造線が南北の交通を阻害しているために、朝鮮半島からの渡来民と土着縄文人の通婚がなかったからでしょう。
中央構造線の南側は、日向灘沿岸部は比較的に平坦ですが、北部は山岳地帯で、南部はシラス・ボラと呼ばれる火山の噴出物に覆われているところが多く、稲作に適していません。こうしたことから狩猟民的・海洋民的な性格が強いことが考えられていています。
構造線の南北では文化の違いが見られますが、その境界は緑川流域になっています。緑川以北では中期に北部九州の須玖式土器の影響を受けた黒髪式土器が見られますが、緑川以南には見られません。青銅祭器が見られるのも緑川流域までです。
後期後半になると緑川以南の人吉盆地を中心にして流麗な長頚壷を特徴とする免田式土器が現れてきます。狭義の熊襲はこの文化を持っていた人々のようです。肥後が狗奴国だと考えていますが、狗奴国は異質の二つの文化を包含した国だったようです。
倭人伝は狗奴国の王を卑弥狗呼とし、その官に狗古智卑狗がいるとしていますが、狗古智卑狗は中央構造線の北側の菊池川流域の支配者のようです。難升米は239年に率善中郎将に任ぜられていますが、247年に帯方郡使の張政が難升米に届けた黄幢・詔書は、難升米に武官位が追加付与されたことを表しているようです。
難升米はこれを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようです。狗古智卑狗が殺されたのに続いて緑川以南が統合され、さらには南の侏儒国の統合が行なわれたと考えますが、天孫降臨の神話には台与の後の王の時に中央構造線以南が統合されたことが語られているようです。
ホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)には天孫降臨の事績があり、フツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになっていますが、葦原中国は出雲、あるいは大和だと考えられています。ところがホノニニギの降臨先は出雲でも大和でもなく日向とされています。
中国の諸王朝は敵対する大勢力の出現することを警戒して、冊封体制で支配領域を稍(260キロ四方)に制限していましたから、台与の後の王(ホノニニギ)が出雲や大和を支配するには冊封体制が障害になります。ホノニニギの降臨先が出雲や大和でないのは、まだ魏(あるいは晋)の冊封体制から離脱できていなかったということでしょう。
倭の五王の時代(413~502)には明らかに大和朝廷は存在していますから、倭人が中国の冊封体制から離脱したのは、倭人伝の記述の終わる247年から413年の間で、この間に大和朝廷が成立するのでしょう。
具体的には265年以後の3世紀後半だと考えていますが、とすれば266年の倭人の遣使の意味を考えなければならなくなります。『日本書紀』は266年に遣使したのは台与だと思わせようとしていますが、私はこれを神武天皇の東遷を成功させるためには、晋の爵号が必要だったと考えています。
日向(日向・大隈・薩摩の3国)が侏儒国ですが、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けたというのは、女王国では台与が在位したままで、男王は侏儒国の支配者としての爵命を受けたのだと解釈し、これが天孫降臨の意味だとすることもできそうです。
図は女王国(筑紫)と侏儒国(日向)の間に地質学上の中央構造線が通っていることを示していますが、構造線は大規模な断層で南北の交通を分断していて、九州の古代文化は中央構造線を境にして大きく異なります。
北側は朝鮮半島からの渡来民と縄文人が混血した「渡来系弥生人」の文化圏ですが、その経済基盤は稲作を中心とする農耕で、通婚関係の生じた宗族が部族を形成しており、銅矛・銅戈を配布したようです。
南はいわゆる縄文系弥生人の熊襲・隼人の文化圏で、青銅祭器は豊後の南部を除いてほとんど見られなくなります。これは中央構造線が南北の交通を阻害しているために、朝鮮半島からの渡来民と土着縄文人の通婚がなかったからでしょう。
中央構造線の南側は、日向灘沿岸部は比較的に平坦ですが、北部は山岳地帯で、南部はシラス・ボラと呼ばれる火山の噴出物に覆われているところが多く、稲作に適していません。こうしたことから狩猟民的・海洋民的な性格が強いことが考えられていています。
構造線の南北では文化の違いが見られますが、その境界は緑川流域になっています。緑川以北では中期に北部九州の須玖式土器の影響を受けた黒髪式土器が見られますが、緑川以南には見られません。青銅祭器が見られるのも緑川流域までです。
後期後半になると緑川以南の人吉盆地を中心にして流麗な長頚壷を特徴とする免田式土器が現れてきます。狭義の熊襲はこの文化を持っていた人々のようです。肥後が狗奴国だと考えていますが、狗奴国は異質の二つの文化を包含した国だったようです。
倭人伝は狗奴国の王を卑弥狗呼とし、その官に狗古智卑狗がいるとしていますが、狗古智卑狗は中央構造線の北側の菊池川流域の支配者のようです。難升米は239年に率善中郎将に任ぜられていますが、247年に帯方郡使の張政が難升米に届けた黄幢・詔書は、難升米に武官位が追加付与されたことを表しているようです。
難升米はこれを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようです。狗古智卑狗が殺されたのに続いて緑川以南が統合され、さらには南の侏儒国の統合が行なわれたと考えますが、天孫降臨の神話には台与の後の王の時に中央構造線以南が統合されたことが語られているようです。
2011年2月13日日曜日
台与の後の王 その4
『日本書紀』第二の一書は天に天津甕星(あまつみかほし)、又の名は天香香背男(あめのかかせお)がいるとしていますが、台与の退位と男王の即位に反対しているようで、私はこれを物部の支族だと考えています。
物部氏の祖のニギハヤヒハは多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承を持っていますが、『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる神の天津甕星も「天津○○」ですし、またの名の天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。天津甕星と天津赤星も「みかほし」「あかほし」と、音がひとつ違うだけです。
鳥越憲三郎氏は畿内に同族関係にあると思われるものがあることから、物部氏の発祥地は遠賀川流域だとしています。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されています。
1、鞍手郡若宮町鶴田 筑紫弦田物部
2、 都地 十市部首
3、 芹田 芹田物部
4、 小竹町小竹 狭竹物部
5、 鞍手町新北 贄田物部
6、飯塚市新多 二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見 馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門 嶋戸物部
9、宗像市赤間 赤間物部
10、北九州市(企救郡) 聞物部
奥野正雄氏は『日本の神社』で北部九州にある物部伝承地には神武東遷以前からある古いものと、継体天皇21年の物部麁鹿火による筑紫君磐井討伐以後の新しいものがあるとしています。私は神武天皇が筑紫の岡田の宮(遠賀郡岡垣町)に滞在したのは、神武東遷以前の古い物部一族から、東遷の同意を取り付けるためであったと考えています。
図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程ですが、土穴から猿田峠までが百里、猿田峠から烏尾峠までが四百里になります。◎が物部伝承地ですが、図は伊都国に到る行程の途中に物部伝承地が多いことを表そうとしています。
図には2の鞍手郡若宮町都地と、6の飯塚市新多を記入していませんが、2の都地は1の鶴田と3の芹田の中間に位置しており、図が煩雑になるので記入していません。都地の位置も伊都国に到る行程の途中になります。
6の飯塚市新多ですが、飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思います。私は伊都国に到る五百里の行程では小竹町新多の付近が遠賀川の渡河地点になっていると考えています。
面土国を宗像郡と考え、奴国は鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、宗像郡の釣川、および鞍手郡の犬鳴川・西川の分水嶺が宗像郡と鞍手郡の郡境になっています。犬鳴川・西川流域は宗像氏の支配地だったとも言われていて、流域の象徴になっている六ヶ岳には宗像3女神が降臨したという伝承があります。
物部氏の故地は六ヶ岳周辺の犬鳴川・西川流域に集中していますが、ここを中心とする遠賀川中・下流域に10数社の剣神社・八剣神社があり、物部氏の兵杖を祭るという伝承があります。物部氏の発祥地がこの地であることをうかがわせます。
『先代旧事本紀』には若宮町鶴田を故地とする筑紫弦田物部などの祖の天津赤星は見えますが『日本書紀』第二の一書の天津甕星は見えません。神武東遷以前の鞍手郡にいて、台与の退位・男王の即位に反対したために滅ぼされた物部の支族だと考えます。
そうであれば物部氏の遠祖は奴国王であることが考えられ、また2世紀から3世紀前半にあっては面土国王と密接な関係にあったと考えることができます。面土国王が「自女王国以北」を刺史のごとく支配しているのは、宗像氏の祖と物部氏の祖による連合支配なのでしょう。
物部氏の祖のニギハヤヒハは多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承を持っていますが、『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる神の天津甕星も「天津○○」ですし、またの名の天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。天津甕星と天津赤星も「みかほし」「あかほし」と、音がひとつ違うだけです。
鳥越憲三郎氏は畿内に同族関係にあると思われるものがあることから、物部氏の発祥地は遠賀川流域だとしています。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されています。
1、鞍手郡若宮町鶴田 筑紫弦田物部
2、 都地 十市部首
3、 芹田 芹田物部
4、 小竹町小竹 狭竹物部
5、 鞍手町新北 贄田物部
6、飯塚市新多 二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見 馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門 嶋戸物部
9、宗像市赤間 赤間物部
10、北九州市(企救郡) 聞物部
奥野正雄氏は『日本の神社』で北部九州にある物部伝承地には神武東遷以前からある古いものと、継体天皇21年の物部麁鹿火による筑紫君磐井討伐以後の新しいものがあるとしています。私は神武天皇が筑紫の岡田の宮(遠賀郡岡垣町)に滞在したのは、神武東遷以前の古い物部一族から、東遷の同意を取り付けるためであったと考えています。
図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程ですが、土穴から猿田峠までが百里、猿田峠から烏尾峠までが四百里になります。◎が物部伝承地ですが、図は伊都国に到る行程の途中に物部伝承地が多いことを表そうとしています。
図には2の鞍手郡若宮町都地と、6の飯塚市新多を記入していませんが、2の都地は1の鶴田と3の芹田の中間に位置しており、図が煩雑になるので記入していません。都地の位置も伊都国に到る行程の途中になります。
6の飯塚市新多ですが、飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思います。私は伊都国に到る五百里の行程では小竹町新多の付近が遠賀川の渡河地点になっていると考えています。
面土国を宗像郡と考え、奴国は鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、宗像郡の釣川、および鞍手郡の犬鳴川・西川の分水嶺が宗像郡と鞍手郡の郡境になっています。犬鳴川・西川流域は宗像氏の支配地だったとも言われていて、流域の象徴になっている六ヶ岳には宗像3女神が降臨したという伝承があります。
物部氏の故地は六ヶ岳周辺の犬鳴川・西川流域に集中していますが、ここを中心とする遠賀川中・下流域に10数社の剣神社・八剣神社があり、物部氏の兵杖を祭るという伝承があります。物部氏の発祥地がこの地であることをうかがわせます。
『先代旧事本紀』には若宮町鶴田を故地とする筑紫弦田物部などの祖の天津赤星は見えますが『日本書紀』第二の一書の天津甕星は見えません。神武東遷以前の鞍手郡にいて、台与の退位・男王の即位に反対したために滅ぼされた物部の支族だと考えます。
そうであれば物部氏の遠祖は奴国王であることが考えられ、また2世紀から3世紀前半にあっては面土国王と密接な関係にあったと考えることができます。面土国王が「自女王国以北」を刺史のごとく支配しているのは、宗像氏の祖と物部氏の祖による連合支配なのでしょう。
2011年2月6日日曜日
台与の後の王 その3
白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠るのは卑弥呼の死と台与の共立を表しているとしていますが、その原因はスサノオの乱暴・狼藉だとされていて、スサノオについては狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。
スサノオのスサ(須佐・素戔)とは107年に遣使した面土国王の帥升のことですが、ここで言うスサノオはその140年後の子孫(帥升の緒)です。卑弥弓呼は『日本書記』の保食神、『古事記』の大宜津比売だと考えています。保食神はツキヨミに、また大宜津比売はスサノオに斬殺されますが、これは狗奴国が平定されたということです。
スサノオは高天が原から追放されることになっていますが、このスサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。卑弥呼死後の争乱の事後処理、言わば軍事裁判が行われたというのです。
是に八百万の神、共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦、鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。
千位の置戸(ちくらのおきと)とは、賠償の品を乗せる多くの台ということで、賠償を課せられた者や鬚を切り手足の爪を抜くという体刑を受けた者があり、追放された者もいたというのです。これは台与共立の一方の当事者だった面土国王が失脚し、これを擁立した銅戈を配布した部族が消滅したということのようです。
事の性質からみてそれは争乱からごく近く、まだ争乱の余韻の残っているころのことでしょう。前回に述べたように魏に遣わした掖邪狗らが帰国したと推定される249年に近いころで、少なくとも250年代だと考えるのがよさそうです。
追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治することになっていますが、オロチ退治の神話には倭国大乱が中国地方に波及したことが語られていて、高天が原から追放される須佐之男とオロチを退治するスサノオは別個のものです。
266年の倭人の遣使以前に面土国王が失脚して女王制は有名無実になっており、『梁書』『北史』にみえるように、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けていることが考えられます。スサノオを面土国王とし、天の岩戸から出てきた天照大神を台与とすると、男王はホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)になります。
『翰苑』にも台与の後の男王の存在を思わせる文があり、この文では413年に遣使した「倭の五王」の讃のように思える記述になっていますが、神話と関連させて考えると男王はホノニニギでなければいけません。『日本書紀』本文は次ぎのように記しています。
そこで皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主にしようと思われた。しかしその国には、蛍火のように光る多くの神、及びうるさい蠅のような邪まな神がいた。また草木のような名のないものまでが言い合っていた。
ホノニニギは天照大神の孫とされていますが、高天が原の主ではなく葦原中国の主にしようとされています。高天が原は女王の王都のある邪馬台国、あるいは女王国のことですが、それに対し葦原中国は出雲や大和を含めたすべての倭人の国を言います。
卑弥呼・台与を共立した当事者である面土国王は失脚しています。また卑弥呼・台与を「親魏倭王」に冊封した魏も滅亡寸前で冊封体制は機能していなかったことが考えられます。
弥生時代には部族が稍(230キロ四方)を支配する王を擁立しましたが、中国の冊封体制から離脱して部族を解体し、女王制から「氏姓制」に変えようということで、大和朝廷が成立しようとしているのです。
しかし台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねなかったようで、台与の退位、男王の即位に反対する者がいました。『日本書紀』第二の一書は本文とは少し違う伝承を記しています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に悪い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
本文のいう「蛍火の光く神、及び蠅聲す(さばえなす)邪しき神」が、天津甕星、またの名は天香香背男だというのです。そしてホノニニギ(台与の後の王)はフツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになります。
スサノオのスサ(須佐・素戔)とは107年に遣使した面土国王の帥升のことですが、ここで言うスサノオはその140年後の子孫(帥升の緒)です。卑弥弓呼は『日本書記』の保食神、『古事記』の大宜津比売だと考えています。保食神はツキヨミに、また大宜津比売はスサノオに斬殺されますが、これは狗奴国が平定されたということです。
スサノオは高天が原から追放されることになっていますが、このスサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。卑弥呼死後の争乱の事後処理、言わば軍事裁判が行われたというのです。
是に八百万の神、共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦、鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。
千位の置戸(ちくらのおきと)とは、賠償の品を乗せる多くの台ということで、賠償を課せられた者や鬚を切り手足の爪を抜くという体刑を受けた者があり、追放された者もいたというのです。これは台与共立の一方の当事者だった面土国王が失脚し、これを擁立した銅戈を配布した部族が消滅したということのようです。
事の性質からみてそれは争乱からごく近く、まだ争乱の余韻の残っているころのことでしょう。前回に述べたように魏に遣わした掖邪狗らが帰国したと推定される249年に近いころで、少なくとも250年代だと考えるのがよさそうです。
追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治することになっていますが、オロチ退治の神話には倭国大乱が中国地方に波及したことが語られていて、高天が原から追放される須佐之男とオロチを退治するスサノオは別個のものです。
266年の倭人の遣使以前に面土国王が失脚して女王制は有名無実になっており、『梁書』『北史』にみえるように、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けていることが考えられます。スサノオを面土国王とし、天の岩戸から出てきた天照大神を台与とすると、男王はホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)になります。
『翰苑』にも台与の後の男王の存在を思わせる文があり、この文では413年に遣使した「倭の五王」の讃のように思える記述になっていますが、神話と関連させて考えると男王はホノニニギでなければいけません。『日本書紀』本文は次ぎのように記しています。
そこで皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主にしようと思われた。しかしその国には、蛍火のように光る多くの神、及びうるさい蠅のような邪まな神がいた。また草木のような名のないものまでが言い合っていた。
ホノニニギは天照大神の孫とされていますが、高天が原の主ではなく葦原中国の主にしようとされています。高天が原は女王の王都のある邪馬台国、あるいは女王国のことですが、それに対し葦原中国は出雲や大和を含めたすべての倭人の国を言います。
卑弥呼・台与を共立した当事者である面土国王は失脚しています。また卑弥呼・台与を「親魏倭王」に冊封した魏も滅亡寸前で冊封体制は機能していなかったことが考えられます。
弥生時代には部族が稍(230キロ四方)を支配する王を擁立しましたが、中国の冊封体制から離脱して部族を解体し、女王制から「氏姓制」に変えようということで、大和朝廷が成立しようとしているのです。
しかし台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねなかったようで、台与の退位、男王の即位に反対する者がいました。『日本書紀』第二の一書は本文とは少し違う伝承を記しています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に悪い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
本文のいう「蛍火の光く神、及び蠅聲す(さばえなす)邪しき神」が、天津甕星、またの名は天香香背男だというのです。そしてホノニニギ(台与の後の王)はフツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになります。
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