2010年9月26日日曜日

神社 その6

天武天皇は「八色の姓」を制定して氏族を最編成しますが、さらに『古事記』編纂の発端になった帝紀・旧辞の撰録を命じています。『古事記』は天神とされている猿女君の伝えたものであるために、地祇・諸蕃が軽視されているようです。地祇・諸蕃の軽視が672年に起きた壬申の乱の遠因にもなっており、また神社・神道が今の形になる転機になるようです。

『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。

私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。

古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。

布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。

物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。

『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。

それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。

最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。

倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。

弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。

これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。

これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。

島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。

これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。

2010年9月20日月曜日

神社 その5

古墳時代の大和朝廷は有力な氏族長に君、直、首、公などの姓(かばね、身分)を与え、人民と土地の私有を認めましたが、定形化された前方後円墳は大和朝廷の統治に服属して姓を与えられた氏族長の墓なのでしょう。その墓の祭祀を継承することが姓を継承し氏族を支配していることを表し、その祭祀の場が神社になると思われます。

弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。

前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。

加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。

弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです

『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。

卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。

ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。

律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。

『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。

氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。

672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。

この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。

大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。

2010年9月12日日曜日

神社 その4

武帝の時代に儒教が国教になったことにより、儒教の礼が外交儀礼の礼式として流入してきますが、やがて神道の原形と儒教が融合し冊封体制下の倭人の王も儒教の礼に基づく統治を行なうようになると考えます。日本の神道と儒教には類似する点が多いのです。

儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。

本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです

神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。

青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。

私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです

今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。

その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。

兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。

遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。

遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。

加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。

大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。

銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。

ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです

2010年9月6日月曜日

神社 その3

弥生中期後半(1世紀)になると江南から流入してきた神道の原形に儒教が融合するようです。周王の姓は姫氏ですが周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っていました。姫姓の諸侯は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主宰することはできません。

周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。

孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。

前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。

しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。

紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。

新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。

元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。

それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。

礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。

区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。

これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう

この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。

この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。

西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。

それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。

2010年9月1日水曜日

神社 その2

古代中国の越は浙江省・江蘇省・安微省・山東省の一部、及び福建省にまたがる地域の先住民で、海に依存する度合いが高かったと言われています。その文化は相当に高度なものでしたが、特徴は稲作を行ない、青銅器を使用し、漁労文化を発達させたことでした。

また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。

岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)

岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があことなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。

越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。

倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。

越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。

卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。

越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。

弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。

しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。

漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。

神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。

青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変える考えることもできそうです。