2010年8月24日火曜日

神社 その1

今回は目先を変えて神社について考えてみたいと思います。邪馬台国や面土国と神社に関係があるのかと思われるでしょうが、神社が現在の形で祭られるようになるについては弥生時代から古墳時代にかけての歴史と無関係ではないようです。

倭人伝には「卑弥呼事鬼道能惑衆」とありますが、私は鬼道を古神道の主要々素になっていたシャーマニズムだと考えています。王となってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが「辞を伝え飲食を給仕」するために、彼女のもとに出入りをしていたとありますが、この男子はサニハ(審神者)のようです。

日本ではお寺の檀徒であると同時に神社の氏子でもあることが多いようですが、神道は日本の民族宗教と言えるでしょう。神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖を神として祀る氏神の祭祀が中心でした。

江戸時代になると山崎闇斎が垂加神道を唱えましたが、垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調したものでした。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれます。

ここで述べようとしていることは山崎闇斎や本居宣長の考えとは別の次元のことであり、純粋に歴史学の面から見てみようというものです。しかし私は神道は儒教の影響を強く受けていると思っています。

国学院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めておられますが、神道の発生期を弥生文化期とされています。この時期に儒教が中国の国教になりますが、中国と倭人との交流も始まります中国との交流を通してそうとは知らずに儒教を受け入れていた考えています。

表の大場説とはやはり国学院大学教授で「神道考古学」の提唱者大場磐雄氏の説ですが、大場氏は神道の発生期を弥生時代とするか、古墳時代とするか決めかねていたということです。私は大場氏の「神道考古学」という考え方に関心を持っています。

第二次世界大戦以前の神道は山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤などの影響を強く受けていましたが、終戦後にその反動がきます。考古学に関してもそれが顕著で、津田左右吉の神話は史実ではないとする説が闊歩するようになります。

私が「神道考古学」という考え方に関心を持つようになったのは、島根県加茂岩倉遺跡で全国最多の銅鐸39個が出土したことがきっかけになりました。それまでは大場氏のことも「神道考古学」という考え方のあることも知りませんでした。

大場氏はその著作『銅鐸私考』で銅鐸を使用した氏族はカモ氏・ミワ氏などの「出雲神族」だとし、出土地と両氏に関係があることが多いとしています。「出雲神族」とはオオクニヌシに系譜の連なる氏族と言う意味だそうですが、当時、その「出雲神族」の多い出雲国にはほとんど銅鐸が見られませんでした。

その出雲国の、しかも加茂から39個もの銅鐸が出土したのです。今では出雲国の銅鐸は53個になっています。出雲国の銅鐸のほとんどが加茂岩倉に集まっていたために、出雲国には銅鐸が無いように見えたのです。大場氏の予見が的中しました。

大場氏の『銅鐸私考』はその後無視されていましたが、加茂岩倉遺跡の発見で脚光をあびることになります。しかし考古学会がこれを認めているかと言うとそうでもなさそうで、相変わらず津田史学がまかり通っていそうです。その11年前には同じ出雲国の荒神谷遺跡で総数380という大量の青銅祭器が出土しています。

古代出雲国を考える時、大場磐雄氏の「神道考古学」という考え方は有効ではないかと思っています。右欄の「私の考え」は統治形態と神道の関係を見てみようというものですが、その始原は稲作の流入、つまり弥生時代の始まりと一致すると思っています。

そして『古事記』『日本書記』が神道の「聖典」と言われるようになり、現在の神道なり神社なりの形になってくるのだと思います。

2010年8月17日火曜日

部族 その5

57年に奴国という部族国家の首長が遣使して、後漢から「漢倭奴国王」に冊封され、初めて倭人の王が出現します。107年には面土国という部族国家の首長の帥升が倭国という部族連盟国家の盟主として遣使し、「倭国王」の称号を授けられます。

さて卑弥呼ですが、卑弥呼は銅矛・銅戈を配布した部族に共立されて倭国という部族連盟国家の盟主になり、魏から「親魏倭王」冊封されますが、邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の首長(王)ではありません。邪馬台国の首長は倭人伝に見える「大倭」であろうと思っています。

倭人伝は当時の日本を女王国、倭国、女王、倭、倭人、倭種、倭地という用語で表し、それぞれ特定の意味で使い分けています。女王国は卑弥呼、または台与の支配している北部九州の三〇ヶ国です。そして倭国は倭人伝に三回出てきます。

①その国、もと亦男子をもって王となす。とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。    
②詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假す
③王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣いるに、郡の倭国に使いするや、皆津に臨んで捜露す                                    

①の倭国は卑弥呼が王になる以前には男子が王だったというのですから、この倭国と女王国は同じものです。②の倭王は卑弥呼ですからこの倭国も女王国です。③は卑弥呼・台与の使者も津で捜露を受けるというのですから、この倭国も女王国と同じです。

西島定生氏は倭人伝に見える倭国は、倭王である卑弥呼・台与と直接に関係のある場合に用いられており、倭国という国号は外交関係だけに用いられるものであるとされています。そしてこの倭国は女王国と同じものです。

漢・魏王朝は冊封体制によって外臣の王の支配する国の面積を稍、つまり王城を中心とする六百里四方(260キロ四方)に制限していました。倭王が少なくとも東日本の半分までを支配すると六百里という限度をはるかに越えます。

冊封体制の目的は周辺諸国を懐柔・分断し、中国に敵対する大勢力の出現を阻止することにあります。その中国が六百里以上を支配する王を冊封することはありません。卑弥呼が支配しているのは北部九州にあった女王国であり、それが倭国です。

古墳時代になると部族連盟国家が統合されて大和朝廷が成立し、民族国家(日本民族の国)の倭国が誕生します。それは270~80年ころのことだと考えていますが、女王国は北部九州にあった部族連盟国家の一つに過ぎません。

また寺沢薫氏の『王権誕生』から引用させていただきます。大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとされ、これを「イト倭国」と呼ばれています。

その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わって、卑弥呼を王とする「新生倭国」(ヤマト王権)が誕生したとされ、奈良県桜井市の纒向遺跡が新生倭国の王都であり、その延長線上に大和朝廷が出現してくるとされます。

『王権誕生』にはこの「部族的な国家」と言う表現が散見され、「部族的国家連合」という表現も見られます。「部族的国家」は政治学者の滝村隆一氏の提唱された考え方だそうですが、寺沢氏はこれを「大共同体」と呼び、「クニ」と片仮名で表記されているようです。

私のいう「部族国家」と寺沢氏の言われる「大共同体」(クニ)とは同じもののようですが、「部族的な国家」は卑弥呼の時代以前の状態の国という意味のようで、私の考える宗族の通婚圏が「部族国家」になるというのとは違うようです。

「部族的国家連合」も同じで、私の考えている部族連盟国家とは違うようです。また「倭国」について、寺沢氏は「新生倭国」を「ヤマト王権」とも呼び、律令時代の大和朝廷の前身が、卑弥呼の時代に始まるとされています。

神話では卑弥呼・台与は天照大御神とされているようです。その五世孫の神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するとされ、部族連盟国家の倭国(女王国)と民族国家の倭国(大和朝廷支配下の倭国)とは連続しているとされています。しかし実質的には別であり、部族連盟国家が統一されて民族国家の倭国になると考えるのがよさそうです。

2010年8月10日火曜日

部族 その4

私は「律令制社会」の前の古墳時代を「氏姓制社会」とし、その前の弥生時代を「部族制社会」とするのがよいのではないかと思っています。「部族制社会」とは部族が首長や王を擁立する社会という意味です。

古墳時代以前については「原始社会」と呼ばれた時代があったようですが、実情に合わず今では「首長制社会」と言われているようです。しかし弥生時代後半には王が出てきますから弥生時代が純粋な「首長制社会」だとは言えません。

首長は土侯とか酋長と言われていましたが、差別用語だということで現在では首長と呼ばれるようになっています。私は日本の王と首長の違いは、首長が中国の冊封体制に組み込まれて王として認められているかどうかだと考えています。

弥生時代前半は部族が首長を擁立し、後半には王を擁立するようになる考えるのですが、そのような意味で弥生時代を「部族制社会」と呼ぶのがよいと思うのです。とすれば57年に奴国王が「漢委奴国王」に冊封される以前には首長は居るが王は居ないことになります。

それは奴国・面土国・女王国のある北部九州に限って言えることであり、他の地方は首長制社会のままだということになります。しかし冊封体制には隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないという職約(義務)があり、冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていました。

他の地方の首長も王と同じだと考えるのがよさそうです。弥生時代前半までの部族は律令制の郡程度の通婚圏ごとに部族国家を形成したでしょう。部族国家の首長は有力な宗族が擁立しますが、弱小の宗族もその首長の支配を受けたと考えられます。

弥生時代後半になると部族は宗族長など支配者層の母系の親族集団になり、部族は王を擁立するための政治的集団になっていくようです。王の擁立を巡って対立するようになりますが、その部族の集まりを部族連盟と呼び、その国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと考えます。

高句麗も部族連盟国家で、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主でしたが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていきました。部族国家は部族が国を形成したものですが、部族連盟国家はその部族国家が統合されて、さらに規模の大きな国を形成している状態だと考えるのがよいと思っています。

倭人伝には戸数千~三千の小国と二万~七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていました。この小国が部族国家であり、女王国が部族連盟国家だと考えるのがよいようです。邪馬台国・奴国・投馬国などの大国は、部族国家が統合されたもので部族国家と部族連盟国家の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。

部族連盟国家は王が支配しますが、王は冊封体制によって支配領域を六百里四方の稍に制限されていたので、部族連盟国家も六百里四方以下に限定されました。しかし部族は王を擁立するが王そのものでもなく、また国そのものでもないので冊封体制の制限を受けません

部族が幾つの稍を支配してもよいし、何人の王を擁立してもよいのです。このことから弥生時代後半には複数の稍に同族が分布していて、複数の部族連盟国家の王を擁立することのできる巨大な部族が現れてきます。

高句麗には5大部族が存在していましたが、倭には4大部族が存在していました。北部九州から中国、四国地方にかけて、銅矛、銅戈を配布した部族があり、東海から中国・四国地方にかけて銅鐸を配布した部族がありました。中国、四国地方には銅剣を配布した部族もありました。  
 
2世紀の北部九州では銅戈を配布した部族が優勢で、面土国王の帥升を部族連盟国家(筑紫)の盟主に擁立しますが、3世紀には銅矛を配布した部族が優勢になります。倭国大乱で盟主の座は卑弥呼に移りますが、このことが銅戈を配布した部族の衰退する原因になっているようです。

弥生後期後半に製作された広形銅矛が増加しているのに対し、広形銅戈が3本ほどと激減しているのはこのことを示しています。面土国王は遠賀川流域の「自女王国以北」の諸国を「刺史」の如くに支配するようになりますが、小数ながら広形銅戈が存在しているのを見ると、銅戈を配布した部族が消滅したのではないようです。

2010年8月4日水曜日

部族 その3

門戸の集合体が宗族ですが、宗族は父系で血縁関係をたどることのできる範囲内の人々の集団です。それは氏族に似ていますが、根本的な違いは宗族の血縁関係が明確であるのに対し、氏族は不明確だということです。

そのために宗族には明確な始祖がありますが、氏族には明確な始祖はなく、神話・伝説上の始祖がいます。前回に述べた罪を犯して消滅した宗族を吸収した場合や、あるいは集落が複数の宗族の構成員で形成されているなど、始祖や血縁関係が明確でない時に神話・伝説上の始祖を持つ氏族が生れます。

日本の古代氏族については、大和朝廷の支配機構と見る考え方と、血縁集団と見る考え方があり、支配機構と見る考え方は昭和初期に津田左右吉が初めて提唱し、その後の研究に大きな影響を与えました。津田左右吉の考え方によれば大和朝廷成立以前の日本には氏族は存在しないことになります。

中国の5大姓の一つ、劉氏の現代の人口は6千580万人という巨大なものですが、中国の氏族には「同姓不婚」の不文律があります。氏族にしても宗族にしても父系の血縁集団ですから同族間の通婚は許されず、他の宗族と通婚します。徒歩以外に交通手段の無かった時代ですから通婚圏は限定されます。

宗族間の通婚が重なるうちに通婚圏が形成されますが、部族の原形は宗族の通婚圏であり、それは縄文時代にも存在していたでしょう。この部族を形成する通婚圏が弥生時代中期に「国」になると考えています。それは律令制の郡の原形でもあるようです。

後期後半の女王国は30ヶ国で構成されていました。投稿の『再考、国名のみの21ヶ国』で述べましたが、筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側の10郡ほどを邪馬台国と考え、奴国は東側の3郡と考えています。投馬国は筑後の10郡だと考えます。残りの27ヶ国は律令制の豊前・豊後・肥前の佐賀県部分の郡と一致するようです。

紀元前1世紀に倭人の百余国が遣使していますが、この百余国の個々が後に律令制の郡になると考えられます。この時点では筑前西半の10郡ほどが統合された邪馬台国や、筑後の10郡が統合された投馬国などの大国は存在していなかったでしょう。

こうした大きな国が出現するようになるのは百余国の遣使以後のことで、冊封体制では支配する国が大きいほど高位の爵号を授けられることを知ったことが原因になっているようです。支配する国が大きいということは支配する宗族も多いと言うことですが、弥生時代後半には部族は急速に巨大になっていくようです。倭人伝に次の文があります。

其の国の俗は、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人は不淫、不妬忌

有力者は皆、4・5人の妻を持ち、さほど有力でない者でも2・3人の妻を持つ者がいるというのです。この多妻については大人階層に女性の労働力が必要だったからだという説や、戦争で男性が死んだために男性が少ないからだという説があります。

妻が多いことは通婚によって同族関係の生じた宗族が多いということで、それだけ権力が強くなるということです。多妻によって部族の規模が大きくなっていき、時代が下るにつれて文化的集団であったものが政治的な集団に変わるようです

部族が政治的な集団に変わったことにより宗族の形態も変化し、より政治性が強く始祖の不明確な氏族に替わっていくのではないかと思われます。多妻は支配者階層の義務であり、多妻を理由にした女性の浮気・嫉妬はタブーになっていたのでしょう。

部族は弥生時代後半には宗族長層の通婚によって結合する、言ってみれば支配者層の母系の親族集団になるようです。宗族の始祖と部族の間には父系の血縁関係はありませんが、宗族は父系の血縁集団ですから部族も父系の結合体である必要がありました。

中国の氏族には三皇・五帝のような神話・伝説上の始祖がありますが、部族も神話・伝説上の部族の父系始祖を持つようになります。こうして部族と宗族とが父系で結びついていると考えられるようになっていきます。

そして部族は通婚関係の生じた宗族に青銅祭器を配布するようになります。青銅祭器は創作された部族の始祖の依り代(神体)であると同時に、配布を受ける側の宗族にとっては宗族の始祖の依り代でもありました。宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ないました。

倭人も神話上の始祖を持つようになります。最初からそう呼ばれていたのではないでしょうが、銅矛を配布した部族の始祖はイザナギになります。銅戈を配布した部族の始祖はスサノヲであり、銅鐸を配布した部族の始祖はオオクニヌシです。

銅剣を配布した部族の始祖は女神のイザナミですが、始祖は男性でなければならないので、ヤマタノオロチの神話でスサノヲとされるようになります。銅戈を配布した部族の始祖のスサノヲが高天が原で活動するのに対し、銅剣を配布した部族の始祖のスサノヲは出雲で活動することになっています。