糸島市の周辺を伊都国・奴国とし福岡平野を邪馬台国とする説があります。この説も新井白石以来の通説を改変したもので、同じ糸島郡を問題視するのなら奴国を福岡平野とし伊都国を大宰府付近とすれば、投馬国を筑後とすることができ、邪馬台国は筑後川流域とすることができて面白くなります。
図は私の考える倭国ですが、伊都国以後の諸国は「従郡至倭」の行程には含まれず「自女王国以北」の国だと考えます。そうであれば倭人伝の地理記事は末盧国までの「従郡至倭」の行程と、伊都国以後の「自女王国以北」の間で分断されることになります。
その分断される部分に面土国があると考えることができます。倭人伝に「刺史の如し」とあるのが面土国王だと考えていますが、図の赤丸で示した筑前宗像郡が面土国だと考えます。「自女王国以北」は遠賀川流域であり伊都国は白丸の豊前田川郡のようです。また卑弥呼の王都は青丸の筑前上座郡(朝倉市)にあったと考えます。
「王城を去ること三百里」、あるい「方六百里」を稍と言いますが、倭人伝の千里は65キロで六百里は260キロになります。以前の投稿で何度か示した稍の図は四千里=280キロとして作図していますが、これは260キロで作図すると隣接する稍との間に20キロほどの空隙が生じるためです。これは図法によるもののようで今回の図は260キロで作図していて稍が以前のものよりも小さくなっています。
「王城を去ること三百里」、あるい「方六百里」を稍と言いますが、倭人伝の千里は65キロで六百里は260キロになります。以前の投稿で何度か示した稍の図は四千里=280キロとして作図していますが、これは260キロで作図すると隣接する稍との間に20キロほどの空隙が生じるためです。これは図法によるもののようで今回の図は260キロで作図していて稍が以前のものよりも小さくなっています。
稍については諸橋徹次編『大漢和辭典』第七巻1135ページ【畿】の項に説明があり、「王城の外側の三百里以内を稍という」とあり、また【稍】の項には『正字通』を引用して「三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。『大漢和辭典』は名著でどこの図書館にもありますから調べてみてください。
稍は太夫に食封として与えられる面積で、卑弥呼は外臣の王であることから大夫と同格とされ、王城から三百里(130キロ)以内を支配できたようです。狗奴国は肥後だと考えますが、面土国の南二千里に位置しているようで、律令制国郡の原形がすでに存在していたようです。
筑前上座郡(朝倉市、図の青丸)を邪馬台国とすると、卑弥呼は王城から二千里以内の狗奴国の北半を支配できることになりますが、狗奴国はこれを認めていなかったようです。
稍は太夫に食封として与えられる面積で、卑弥呼は外臣の王であることから大夫と同格とされ、王城から三百里(130キロ)以内を支配できたようです。狗奴国は肥後だと考えますが、面土国の南二千里に位置しているようで、律令制国郡の原形がすでに存在していたようです。
筑前上座郡(朝倉市、図の青丸)を邪馬台国とすると、卑弥呼は王城から二千里以内の狗奴国の北半を支配できることになりますが、狗奴国はこれを認めていなかったようです。
女王国の東千里にある倭種の国は長門と考えてよいようです。侏儒国は女王国の南四千里に位置しているとありますが、薩摩・大隅・日向が侏儒国になります。裸国・黒歯国は「東南船行一年」とありますが、これは本州の東端までの日数であり四国西部と考えるのがよさそうです。
伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は誤りです。その根源を辿ると『日本書記』神功皇后紀が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしたことに始まるようで、『日本書記』神功皇后紀は実に巧妙に構成されていています。