2011年4月17日日曜日

二人のヒコホホデミ その2

神武天皇の実名が彦火火出見であることが考えられますが、日向北部に神武天皇をホノニニギ(台与の後の王)の子とする伝承があり、薩摩に火遠理(日本書紀の火折)をホノニニギの子とする伝承があって、「二人のヒコホホデミ」が存在していると考えています。

それに伴ってホオリをホノニニギの子とする伝承では霧島連山の高千穂の峰が天孫降臨の地とされ、神武天皇をホノニニギの子とする伝承では日向臼杵郡の高千穂が降臨の地とされて、「二つの高千穂の峰」が存在するようになったことが考えられます。

2010年1月の投稿では「日向三代」の神話を、薩摩を舞台とする火神系神話と、大隅・日向を舞台とする海神系神話に区別しましたが、図のような六つの伝承が合成されて「日向三代」の神話になったのであり、そのために「二人のヒコホホデミ」が出現したと考えるのがよいようです。

このことは古墳時代の墓制からも考えることができます。この地方特有の慕制では3・4・5に「地下式横穴墓』が見られるのに対して、の薩摩北部は「地下式板石積石室墓」であり、の薩摩半島部には立石土壙墓が見られます。

は薩摩北部の薩摩君・前君などの伝承で、事勝国勝神(シオツチノオジの別名)がホノニニギに国土を献上する物語です。は薩摩半島の阿多君・衣君などの伝承で、ホノニニギがアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)を「妻問い」し、ヒコホホデミ・ホオリが誕生する物語です。

は大隅半島の大隅直・肝属君などの伝承で、鰐に姿を変えた豊玉姫がウガヤフキアエズを生む物語です。は大隅北部の曽君などの伝承で、山幸彦(ヒコホホデミ、ホオリ)が海神の宮に行く物語です。

海幸彦・山幸彦の神話はの間に抗争のあったことが語られているようで、山幸彦が4であるのに対し海幸彦は2のようです。この抗争には海の神・豊玉彦が関係してきますが、豊玉彦については玄界灘沿岸、壱岐・対馬安曇・住吉など海人族だと思っています。

は日向の南半分ですが特別な伝承はありませんは日向北部の神武天皇の伝承で、美々津が東遷の出発地とされています。5では3・4・6の伝承が交錯しており、の伝承を中心として1~6の伝承が纏められて一連の「日向神話」になることが考えられます。天孫降臨の地が霧島連山の高千穂の峰とされるのは、5と1・4・の境に位置していることによるのでしょう

「日向神話」は侏儒国が統合される過程で生まれた、個々に独立した六つの伝承が合成されたもののようですが、それにはシオツチノオジ(塩土老翁、塩椎神)が重要な役割を果たしています。シオツチノオジが存在しないと「日向神話」は六つに分裂します。

の薩摩北部のホノニニギの伝承では事勝国勝神(シオツチノオジの別名)がホノニニギに国土を献上します。の薩摩南部の伝承ではアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)のことを教えますが、その結果ホオリあるいはヒコホホデミが生まれます。

の大隅半島部のウガヤフキアエズの伝承にはシオツチノオジは関係していませんが、山幸彦に海神の宮に行く方法を教えなければウガヤフキアエズが生まれることはありません。の大隅北部の火遠理(日本書記の火折、ヒコホホデミ)の伝承では、シオツチノオジは山幸彦に海神の宮に行く方法を教えています。

の日向北部の神武天皇の伝承では神武天皇に東方に好い国が在ることを教えていて、神武天皇はその助言に従って東遷を決断しています。シオツチノオジが登場しないとそれぞれが孤立した物語になります。

日向神話には出雲の大国主や大和の大物主、あるいは越(北陸地方)のタケミナカタに相当する神が見られません。これは侏儒国が小さな国の集合体であり、孤立分散し鼎立しており、これを統合する大きな勢力が存在していなかったということでしょう。

南九州に青銅祭器が見られないことは大きな部族が存在していないということですが、志布志湾沿岸の曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しています。この銅矛を祭っていた宗族が、山幸彦に海神・豊玉彦の宮に行くことを教えたシオツチノオジだと考えています。(2010年1月12日投稿)

北部九州の銅矛を配布した部族が鼎立する小国を統合しようとしていることが、シオツチノオジの行動に見て取れます。山幸彦が豊玉彦の宮に行くことや、神武天皇の東遷が日向で始まることなどはいかにも奇異な感じがしますが、それは北部九州の銅矛を配布した部族の意向によるものであったようです。

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