侏儒国は小さな国が鼎立しており、これを支配する有力者(王)はいなかったようで、薩摩のヒコホホデミ(古事記の彦穂々手見・火遠理、日本書記の火折)と、日向のヒコホホデミ(神武天皇)という「二人のヒコホホデミ」もそうした小さな国の支配者のようです。
台与の後の王の時代にこれらの小さな国が統合されますが、その過程が六つの独立した伝承になり、それが編成されて神武天皇の系譜が創られ、神武天皇はヒコホホデミの孫ということになったと思われます。
良い土地があることを教えると共に、そこに行く海路を支配する役割を持っていて、塩土とは「潮つ道」で、海路を熟知している者と考えられています。
図は黒潮とその分流を示していますが、薩摩の沖で黒潮と対馬海流が分岐します。ホノニニギとアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)の物語の舞台は薩摩ですが、シオツチノオジはこの海流のことを熟知している海洋民なのでしょう。
シオツチノオジとされる海洋民は南西諸島沿いの黒潮だけでなく、対馬海流のことも知っており、対馬海峡を渡れば朝鮮半島に到ることも知っているようです。山幸彦が海神の宮に行くのは、対馬海峡を渡る必要があった、つまり中国(魏)の冊封を受ける必要があったということのようです。
日向の美々津沖で派生した黒潮の分流は豊予海峡を通過して周防灘に流入していて、この潮流に乗れば大和に到ることができます。シオツチノオジはこの大和に至る潮流を知っており、このことが神武天皇に大和への東遷を勧める物語の根底にあるようです。
海幸彦・山幸彦の神話に見られるように、薩摩半島部の隼人は南西諸島産の貝を加工する海洋民としての性格が強いことが知られていますが、対馬海流を熟知しているのは対馬の海人や綿津美3神を祭る阿曇海人・住吉3神を祀る那珂海人(筑前那珂郡の海人)です。
近藤喬一・佐原真氏は銅矛を外洋航路に関わる祭祀具とし、平形銅剣を瀬戸内海航路にかかわる祭祀具だとされています。また大場磐雄氏は『銅鐸私考』で銅矛を使用したのは阿曇氏であり、銅剣を使用したのは物部氏だとしています。
私は青銅祭器について部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものであり、配布を受けた宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ったと考えていますが、いずれにしても玄界灘沿岸に銅矛を祭祀具とする、阿曇海人・那珂海人に代表されるような海洋民集団が存在したことが考えられます。
シオツチノオジは対馬の海人や阿曇海人・那珂海人など、玄界灘の海人神と同族関係にあるようです。『日本書紀』第四の一書はホノニニギに国土を献上し、コノハナノサクヤヒメのことを教えた事勝国勝神の別名をシオツチノオジとしイザナギの子だとしています。
大場氏は銅矛を配布したのは阿曇氏だとしていますが、私は銅矛を配布した部族の伝説・神話上の始祖がイザナギだと考えています。シオツチノオジがイザナギの子だとすると、シオツチノオジは銅矛を配布した部族と関係があることになります。
阿曇海人の祭る綿津見3神も那珂海人の祭る筒之男3神もイザナギの禊で生れた子とされていますが、阿曇海人も那珂海人も海神・豊玉彦の子孫とする伝承を併せ持っています。対馬下県郡にも和多都美神を祀る式内社が二社あり、ホホデミや豊玉毘売が祀られています。
また上県郡の式内社にも和多都美神社と和多都美御子神社があり、豊玉毘売とホホデミの子のウガヤフキアエズが祀られているようです。豊玉彦は壱岐の海神社でも祀られていて、日向神話の豊玉毘売・玉依毘売の父の豊玉彦だと考えられています。
豊玉彦の伝承が南九州ではなく対馬にあるのは奇異な感じがしますが、シオツチノオジを玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族だと考えると辻褄が合ってきます。山幸彦を海神・豊玉彦の宮に行かせるのは銅矛を配布した部族が、山幸彦に南九州を統合させようとしているということでしょう。
神武天皇の東遷出発地が日向であることも奇異な感じがしますが、神武天皇に東遷をさせるのも玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族であり、神武天皇は南北九州が統合される際の中心的存在であったが故に、東遷という重責を担うことになると考えます。