2010年10月26日火曜日

三角縁神獣鏡 その4

前回の投稿では画文帯神獣鏡は魏の滅亡、大和朝廷の成立以後にも威信財としての価値があり、同じ時期に三角縁神獣鏡が国産されたと述べました。銅鏡は古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを示す威信財になるようです。

初期の天皇の皇宮・陵墓は9代開化天皇までは大和の高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり葛城王朝と呼ばれ、10代祟神、11代垂仁、12代景行の3代の皇宮・陵墓は磯城郡の三輪山周辺にあり三輪王朝と呼ばれています。

ところが13代成務天皇以後の皇宮は大和盆地から離れています。成務天皇は近江の高穴穂宮、14代仲哀天皇は長門の豊浦宮、あるいは筑紫の香椎宮を皇宮としています。15代が応神天皇ですが応神以後は河内王朝と呼ばれています。

仲哀天皇と応神天皇の間には何年間かの空位期間があり、その間は神功皇后が摂政として政務に当ったとされていますが、『日本書記』神功皇后紀の記年によれば、皇后は169年に生まれ269年に100歳で死んだことになっています。

これについては神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために、干支2運、120年が繰上げられている考えられています。義煕9年(413)に東晋の安帝に方物を献じた「倭の五王」の「讃」を16代仁徳・17代履中のいずれかとすると神功皇后の時代は4世紀の終わりごろでなければいけません。

干支2運、120年を繰下げると皇后の死は389年になり、実態に近くなります。安本美典氏は古代天皇の平均在位年数を10、3年とされていますが、仮に応神即位を390年とし、仲哀即位を380年とすると、景行・垂仁・祟神の三代の三輪王朝は360~340年になり、開化~神武の葛城王朝は330~250年になります。

私は神武天皇の即位を270年ころ、また祟神天皇の即位を360年ころと考えていて20年ほどの差がありますが、いずれにしても古墳時代の始まる3世紀後半に大和朝廷が成立し、葛城王朝は4世紀前半までで、三輪王朝は4世紀後半の早い時期と考えることができます。

5世紀が近くなると天皇の皇宮・陵墓は大和盆地から離れますが、三角縁神獣鏡を副葬する古墳の多くは4世紀中葉から後半のもので、これは三輪王朝期以後に当ります。三角縁神獣鏡に威信財としての価値があったのは葛城王朝期であり、三輪王朝期になると威信財としての価値がなくなるようです。

開化天皇までの8代は「欠史八代」と呼ばれ事績がほとんどありませんが、これが葛城王朝です。三輪王朝になると祟神朝の四道将軍の派遣や、景行朝の倭建命の熊曾・出雲・東国征伐に語られているように、大和朝廷の支配は全国に及びます。

三輪王朝では「氏姓制」が定着して天皇の統治は絶対的なものになり、『古事記』は祟神天皇を「初国知らしし天皇」と称えています。葛城王朝は存在してはいるものの弱体だったが、三輪王朝になると大和朝廷の支配が確立したというのでしょう。

天照大御神は卑弥呼・台与が合成されたものですが、その5世孫が神武天皇とされており、葛城王朝は卑弥呼の「親魏倭王」の王統を継承していると考えられていたようです。それを象徴するのが画文帯神獣鏡であり、三角縁神獣鏡は存在感の薄かった葛城王朝が存在を誇示するために画文帯神獣鏡をモデルにして鋳造し配布したものでしょう。

天理市黒塚古墳では棺内の遺骸の頭部に画文帯神獣鏡が立てて置かれ、棺外の石室の壁面に33面の三角縁神獣鏡が並べて置かれており、その価値は画文帯神獣鏡のほうが高いのではないかと話題になりましたが、葛城王朝が卑弥呼・台与(天照大御神)の王権を継承していることを大義名分にしていたことを表しているようです。

三角縁神獣鏡の記年銘はすべて卑弥呼の時代のものです。記年銘は「親魏倭王」の称号が魏から与えられたもので、葛城王朝がそれを継承していることを表し、呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡は、晋による中国再統一以後には呉も卑弥呼が倭国王であることを認めていたとされるようになることを表しているのでしょう。

『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、『古事記』『日本書記』の記述からみると、応神天皇は天照大神(卑弥呼・台与の統治)に連なる皇統とは別系の、継体天皇の出自と関係する天皇のように思われます。

皇宮・陵墓が大和を離れる13代成務天皇以後には、葛城王朝が大義名分にしていた天照大神(卑弥呼・台与の統治)の王権を継承しているとする考えが否定されるようです。三角縁神獣鏡の威信財としての価値は三輪王朝以後にはなくなり、河内王朝期には大半が副葬されていたと考えます。

2010年10月18日月曜日

三角縁神獣鏡 その3

三角縁神獣鏡に見える記年と副葬された時とには100年程度の差がありますが、柳田康雄氏は当時の平均寿命を40~50年と見て王の在位期間を20~30年間とし、銅鏡が鋳造された時に20~30年をプラスしたものが副葬された時になるとされています。

これには銅鏡が威信財として伝世されたことが考えられていませんが、畿内説の年代論は鋳造と副葬の年代差をゼロに近づけることに腐心しているような印象を受けます。しかし年代差がゼロ、あるいは副葬されるのが先になることはあり得ません。

現時点の「年輪年代測定法」や「放射性炭素(C14)年代測定法」の精度では主観・主張が先行すれば副葬されるのが先ということにもなりかねません。銅鏡が副葬されるのは威信財としての価値なくなるからで、年代差をいくらゼロに近づけても三角縁神獣鏡の問題点は解決しないようです。

中国・朝鮮半島の銅鏡は私財であり一代限りで副葬されるのかもしれませんが、それが日本に渡ってくると威信財になり伝世されるようです。弥生時代の銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財でしたが、古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを表す威信財になるようです。

卑弥呼・台与は魏から「親魏倭王」に冊封されて「邑君」「邑長」のような魏の官職を与えることができ、印綬の代わりに銅鏡を配布したと考えています。そのために大量の銅鏡が必要になり、魏から与えられた銅鏡だけでは絶対数が不足し、小形仿製鏡や後漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られるようです。

高倉洋彰氏によると(『三世紀の考古学』、学生社、昭和56年)、小型仿製鏡の時期は3段階に分かれ、第一段階(後期初頭~前半)と第二段階(後期中頃~後半)には北部九州で鋳造され、分布も北部九州を中心にしているということです。

ところが第三段階(終末期~古墳時代初頭)になると、小形重圏文仿製鏡などのように北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土するものがあり、第三段階には北部九州と近畿とその周辺の両方で鋳造されたということです。そして次のように述べられています。

仿製鏡の第三段階に北部九州と近畿を中心する地域との二つの製作地がみられることは、取りも直さず、他の資料からも知られるように大きな範囲の二つの地域社会が成立していたことを示すにほかならない。この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある。

「この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある」とされていますが、検討方法の一つが畿内説・九州説の分析であり、青銅祭器の分布の分析と見ることができます。しかし畿内説では仿製鏡の第三段階に「二つの地域社会」が並存することにはなりません。

畿内説の寺沢薫氏は2世紀末の倭国大乱によって、北部九州を中心とする「イト倭国」から、大和を中心とする「新生倭国」(ヤマト王権とも)へ転換したとされていますが、この説では二世紀末にはすでに九州と畿内は統一されていることになり、「二つの地域社会」が説明できません。これは寺沢氏の説に限らず畿内説全般に言えることです。

高倉氏は第三段階の小形仿製鏡の時期を弥生時代終末期~古墳時代初頭とされていますが、これは古墳時代初頭に「大きな範囲の二つの地域社会」が一つの民族国家に統合されたということで、大和朝廷が成立し古墳が築造されるようになることを表しているようです。

大和朝廷の成立は3世紀後半の270年ころだと考えています。第三段階の小形仿製鏡の鋳造が始まるのは、卑弥呼の時代に印綬の代用として銅鏡が配布され大量の鏡が必要だったからですが、大和朝廷も大量の鏡を必要としたので三角縁神獣鏡の鋳造が始まると考えます。

高倉氏は小形仿製鏡・分割鏡について、「仿製され、鏡片化される要因はこのような中国鏡、おそらくは長宜子孫内行花文鏡の絶対数の不足にある」とされていますが、長宜子孫内行花文鏡は後漢の滅亡ですでに価値を失っており、絶対数が不足したのは画文帯神獣鏡などの魏鏡だと考えます。

画文帯神獣鏡も265年の魏の滅亡で、冊封関係を表す威信財としての価値は無くなるようです。しかし間もなく成立する大和朝廷が卑弥呼の王権を継承していると称しので卑弥呼の王権を象徴する威信財としての新たな価値が生じるようです。

画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も副葬されるのは4世紀中葉~後半になるようです。三角縁神獣鏡は初期の大和朝廷が画文帯神獣鏡などをモデルにして鋳造させたもので、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡などの記年をコピーしたものだと考えます。

呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡がありますが、中国が晋によって再統一された280年以後に大和朝廷が鋳造させた国産鏡だと考えるのがよさそうです。

2010年10月11日月曜日

三角縁神獣鏡 その2

三角縁神獣鏡を副葬している古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされ、記年銘と副葬されている古墳の年代には100年、あるいはそれ以上の差があります。また箸墓古墳の築造年代は通説では260~280年ころとされていますが、これにも卑弥呼の時代との間に30年ほどの差があります。

そこで「年輪年代測定法」「放射性炭素(C14)年代測定法」などの方法で、この100年、あるいは30年の差を縮める試みが行なわれていますが、その精度には問題があり研究者の間でも疑問視する考えがあります。この差については次のように考えています。

三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で鋳造されたと推定されている画文帯神獣鏡には3世紀前半の年代が与えられており、三角縁神獣鏡よりも画文帯神獣鏡を重視すべきだという考え方があります。三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡をモデルにした国産鏡であり、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡の銘をコピーしたものだと考えます。

天皇位を象徴する「三種神器」に「八咫鏡」がありますが、この鏡を継承することは天皇の権威・威信を継承していることを表しています。「八咫鏡」が副葬されてしまえば権威・威信を伝えるものとしての意義がありません。

倭人伝に「悉可以示汝国中人、使知国家哀汝」とありますが、弥生時代の銅鏡も単に私財だから副葬されるのではなく、公的な権威を象徴する「威信財」で伝世されていたと考えます。威信は銅鏡と共にその後継者に伝えられますが、威信が消滅すると鏡の威信財としての価値もなくなり副葬されるようです。

つまり三角縁神獣鏡に見られる記年とそれを副葬している古墳の年代の100年ほどの差は、鋳造された時とは無関係の、威信財としての価値があると思われていた期間だと考えます。中国の諸王朝は周辺の異民族と冊封関係を結んでいましたが、冊封を受けた者には倭国王などの称号が与えられ、銅鏡などの賜与の品が与えられます。

賜与の品は分配されますが、分配された銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財になります。その王朝が断絶すると与えられていた威信が消滅しますが、同時に銅鏡の威信財としての価値も無くなり、単なる私財になって副葬されます。100年の差は 中国の王朝によって威信が保障されていたと想定されている期間のようです。

三角縁神獣鏡に威信財としての価値が有ったのは100年間ほどとされていたようですが、杉原荘介氏(1913~1983)も理由を明らかしていませんが、銅鏡が鋳造されてから副葬されるまでを100年とし、このことから1960年に100年ごとに区分する編年を発表し、一時期それが定説になっていました。

私はそれを10年短縮して90年ごとの編年考えています。卑弥呼が王に擁立されたのは西暦180年ころに倭国に大乱が起きたためでしたが、90~180年を後期の前半とするのがよいと思っています。180年ころの中国は後漢の霊帝の時代で、後漢は220年に滅亡します。

90~180年ころに威信財としての価値があったのは長宜子孫内行花文鏡など後漢鏡で、その時期は倭人伝に見える卑弥呼以前の70~80年間の男王の時代と一致し、面土国王が倭国王だった時代に当ります。後漢鏡が副葬されるようになるのは後漢の滅亡や、卑弥呼の共立で面土国王の倭王としての権威・威信が消滅したからでしょう。

その90年後の270年ころ(3世紀後半)に女王の時代が終わり、大和朝廷が成立し古墳時代が始まると考えています。魏が滅んだ翌年の266年に倭人が遣使したのは、神武天皇の東遷に「倭国王」の称号が必要だったからだと考えていますが、魏鏡に威信財としての価値なくなるのは魏の滅亡や大和朝廷の成立が原因でしょう。

その鏡は三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと考えられている画文帯神獣鏡だと考えます。景初3年(239)の銘を持つ画文帯神獣鏡が大阪府和泉黄金塚古墳などで出土しており、青龍3年(235)の銘を持つ方格規矩四神鏡が大阪府安萬宮山古墳などで2面が出土しています。

魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚は三角縁神獣鏡ではなく画文帯神獣鏡ではないでしょうか。方格規矩四神鏡は新(王莽)・後漢時代前半のものとされていますが、220年の後漢の滅亡まで威信財としての価値があったのではないでしょうか。青龍3年の銘を持つ方格規矩四神鏡は卑弥呼の時代以後に鋳造された国産鏡でしょう。

270年ころの大和朝廷の成立から90年後の360年ころまでが、綏靖天皇から開化天皇に至る、いわゆる「欠史八代」の時代だと考えています。この時期が古墳時代前期にあたり、三角縁神獣鏡に威信財としての価値の有ったのが「欠史八代」の時代だと考えます。

台与の即位以後、東晋の義煕9年(413)までの間の遣使は266年だけで、時代が下るにつれて中国からの銅鏡の流入は減少するようです。卑弥呼がそうであったように成立後間もない大和朝廷は服属してきた者に銅境を与えなければならず、大量の三角縁神獣鏡を鋳造したと考えます。

2010年10月4日月曜日

三角縁神獣鏡 その1

邪馬台国の所在については九州説と畿内説が対立していると言えますが、畿内説では奈良県纒向遺跡を邪馬台国の王都とし、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。その他にも多くの説がありますが、方位・距離を無視すれば邪馬台国はどこにでも比定できます。

その中には博多の梓書院前社長、田村明美氏をして「おらが邪馬台国原稿」と言わしめるものも出てくることになります。邪馬台国や卑弥呼の墓は歴史愛好家にとってはロマンですが、同時に史学の一分野でもあり事実を追及する姿勢も必要です。

畿内説は方位・距離を考慮に入れないことを前提にしています。通説では伊都国は糸島郡とされ奴国は福岡平野とされていますが、この通説自体が倭人伝の地理記事と合いませんから、邪馬台国の位置についても方位・距離を考慮する必要はないとも言えます。しかし方位・距離を無視することは邪馬台国の存在そのものを否定することにならないでしょうか。

以下は私の考えている九州説ですが、面土国が3世紀にも実在しており、それは筑前宗像郡であることを前提にしています。面土国は倭人伝の地理記事の末盧国と伊都国の中間に位置していると考えていますが、これは通説の南を東と見る考えを無視したもので、「同じ穴の狢」だと言えなくもありません。

しかし方位・距離を無視しているわけではありません。その起点は宗像市田熊・土穴付近であり、一里は65メートルだと考えています。付近は宗像大社の「根本神領」とされ、一昨年には田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土して話題になりました。畿内説と比較してみてください。

倭国(女王国)は律令制の筑前・筑後・豊前・豊後・肥前東半と考えています。これは現在の福岡・佐賀・大分の3県になりますが、朝鮮半島から渡来してきた「渡来系弥生人」の形成する国です。

邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半の10郡ほどであり、東半には「自女王国以北」の国である面土国・奴国・不弥国がありました。投馬国は筑後の10郡ほどであり、豊前・豊後・肥前東半には国名のみの21ヶ国がありました。

狗奴国は肥後と肥前西半で、熊本・長崎の2県になりますが、「熊襲」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。元来の熊襲は肥(肥前・肥後)の住民のようですが、青銅祭器の分布から見て、肥後の北半と肥前東半の熊襲は「渡来系弥生人」と融合するようです。その結果、肥前東半(佐賀県部分)は女王国に属することになると思われます。

侏儒国は薩摩・大隅・日向で、後に「隼人」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。侏儒とは住民が低身長であることを表していますが、現代でも成人男性平均身長が160,7センチと低身長であることが観察されています。

倭人伝の記述している「女王国」や「倭」あるいは「倭地」は現在の九州であり、それよりも以東は「船行一年」でその東端に至ることのできる、「倭の種」の住むところとして区別して考えるのがよいと思っています。

その「倭の種」の国には出雲(中国・四国)や(北陸)の国があり、固有の呼び方はありませんが大和や尾張を中心とする国もありました。出雲は銅剣・銅鐸を宗廟祭祀の神体とする部族の国ですが、大和や尾張は近畿式・三遠式の銅鐸を神体とする部族の国です。

九州説と畿内説とは「水掛け論」になりそうです。その原因の一つに畿内説がその論拠を初期古墳の存在と、古墳に副葬されている三角縁神獣鏡に求めていることにありそうです。畿内説では方位・距離は考慮されていませんが、これも原因の一つでしょう。

三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使して銅鏡百枚を賜与された景初3年(239)の記年銘を持つ島根県神原神社古墳出土鏡や、その翌年の正始元年の記年銘を持つ3面などがありますが、三角縁神獣鏡は畿内を中心にして400面以上が出土しています。

三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと推定される画文帯神獣鏡も60面ほどが出土していますが、景初3年の銘を持つものが大阪府泉黄金塚古墳などから出土しています。これも三角縁神獣鏡と同様に畿内とその周辺で出土することが多いとされています。

畿内やその周辺に三角縁神獣鏡の多いことは畿内説に有利ですが、副葬されている古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされています。記年銘とそれが副葬されている古墳の年代の間には100年かそれ以上の差がありますが、この差は何を意味するのでしょうか。

箸墓古墳が卑弥呼の墓とされるのは、 三角縁神獣鏡に景初・正始などの記年銘を持つものがある ⇔  三角縁神獣鏡は畿内に多い  ⇔  箸墓古墳の築造は古墳時代初頭  ⇔  箸墓古墳は卑弥呼の墓、 という論法のようですが、箸墓古墳から三角縁神獣鏡が出土したわけではありませんし100年もの年代差があると、この論法は成立しないと考えるのがよさそうです。

2010年9月26日日曜日

神社 その6

天武天皇は「八色の姓」を制定して氏族を最編成しますが、さらに『古事記』編纂の発端になった帝紀・旧辞の撰録を命じています。『古事記』は天神とされている猿女君の伝えたものであるために、地祇・諸蕃が軽視されているようです。地祇・諸蕃の軽視が672年に起きた壬申の乱の遠因にもなっており、また神社・神道が今の形になる転機になるようです。

『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。

私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。

古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。

布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。

物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。

『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。

それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。

最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。

倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。

弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。

これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。

これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。

島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。

これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。

2010年9月20日月曜日

神社 その5

古墳時代の大和朝廷は有力な氏族長に君、直、首、公などの姓(かばね、身分)を与え、人民と土地の私有を認めましたが、定形化された前方後円墳は大和朝廷の統治に服属して姓を与えられた氏族長の墓なのでしょう。その墓の祭祀を継承することが姓を継承し氏族を支配していることを表し、その祭祀の場が神社になると思われます。

弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。

前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。

加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。

弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです

『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。

卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。

ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。

律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。

『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。

氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。

672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。

この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。

大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。

2010年9月12日日曜日

神社 その4

武帝の時代に儒教が国教になったことにより、儒教の礼が外交儀礼の礼式として流入してきますが、やがて神道の原形と儒教が融合し冊封体制下の倭人の王も儒教の礼に基づく統治を行なうようになると考えます。日本の神道と儒教には類似する点が多いのです。

儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。

本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです

神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。

青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。

私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです

今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。

その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。

兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。

遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。

遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。

加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。

大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。

銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。

ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです

2010年9月6日月曜日

神社 その3

弥生中期後半(1世紀)になると江南から流入してきた神道の原形に儒教が融合するようです。周王の姓は姫氏ですが周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っていました。姫姓の諸侯は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主宰することはできません。

周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。

孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。

前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。

しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。

紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。

新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。

元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。

それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。

礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。

区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。

これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう

この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。

この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。

西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。

それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。

2010年9月1日水曜日

神社 その2

古代中国の越は浙江省・江蘇省・安微省・山東省の一部、及び福建省にまたがる地域の先住民で、海に依存する度合いが高かったと言われています。その文化は相当に高度なものでしたが、特徴は稲作を行ない、青銅器を使用し、漁労文化を発達させたことでした。

また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。

岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)

岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があことなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。

越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。

倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。

越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。

卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。

越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。

弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。

しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。

漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。

神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。

青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変える考えることもできそうです。

2010年8月24日火曜日

神社 その1

今回は目先を変えて神社について考えてみたいと思います。邪馬台国や面土国と神社に関係があるのかと思われるでしょうが、神社が現在の形で祭られるようになるについては弥生時代から古墳時代にかけての歴史と無関係ではないようです。

倭人伝には「卑弥呼事鬼道能惑衆」とありますが、私は鬼道を古神道の主要々素になっていたシャーマニズムだと考えています。王となってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが「辞を伝え飲食を給仕」するために、彼女のもとに出入りをしていたとありますが、この男子はサニハ(審神者)のようです。

日本ではお寺の檀徒であると同時に神社の氏子でもあることが多いようですが、神道は日本の民族宗教と言えるでしょう。神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖を神として祀る氏神の祭祀が中心でした。

江戸時代になると山崎闇斎が垂加神道を唱えましたが、垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調したものでした。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれます。

ここで述べようとしていることは山崎闇斎や本居宣長の考えとは別の次元のことであり、純粋に歴史学の面から見てみようというものです。しかし私は神道は儒教の影響を強く受けていると思っています。

国学院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めておられますが、神道の発生期を弥生文化期とされています。この時期に儒教が中国の国教になりますが、中国と倭人との交流も始まります中国との交流を通してそうとは知らずに儒教を受け入れていた考えています。

表の大場説とはやはり国学院大学教授で「神道考古学」の提唱者大場磐雄氏の説ですが、大場氏は神道の発生期を弥生時代とするか、古墳時代とするか決めかねていたということです。私は大場氏の「神道考古学」という考え方に関心を持っています。

第二次世界大戦以前の神道は山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤などの影響を強く受けていましたが、終戦後にその反動がきます。考古学に関してもそれが顕著で、津田左右吉の神話は史実ではないとする説が闊歩するようになります。

私が「神道考古学」という考え方に関心を持つようになったのは、島根県加茂岩倉遺跡で全国最多の銅鐸39個が出土したことがきっかけになりました。それまでは大場氏のことも「神道考古学」という考え方のあることも知りませんでした。

大場氏はその著作『銅鐸私考』で銅鐸を使用した氏族はカモ氏・ミワ氏などの「出雲神族」だとし、出土地と両氏に関係があることが多いとしています。「出雲神族」とはオオクニヌシに系譜の連なる氏族と言う意味だそうですが、当時、その「出雲神族」の多い出雲国にはほとんど銅鐸が見られませんでした。

その出雲国の、しかも加茂から39個もの銅鐸が出土したのです。今では出雲国の銅鐸は53個になっています。出雲国の銅鐸のほとんどが加茂岩倉に集まっていたために、出雲国には銅鐸が無いように見えたのです。大場氏の予見が的中しました。

大場氏の『銅鐸私考』はその後無視されていましたが、加茂岩倉遺跡の発見で脚光をあびることになります。しかし考古学会がこれを認めているかと言うとそうでもなさそうで、相変わらず津田史学がまかり通っていそうです。その11年前には同じ出雲国の荒神谷遺跡で総数380という大量の青銅祭器が出土しています。

古代出雲国を考える時、大場磐雄氏の「神道考古学」という考え方は有効ではないかと思っています。右欄の「私の考え」は統治形態と神道の関係を見てみようというものですが、その始原は稲作の流入、つまり弥生時代の始まりと一致すると思っています。

そして『古事記』『日本書記』が神道の「聖典」と言われるようになり、現在の神道なり神社なりの形になってくるのだと思います。