2010年9月1日水曜日

神社 その2

古代中国の越は浙江省・江蘇省・安微省・山東省の一部、及び福建省にまたがる地域の先住民で、海に依存する度合いが高かったと言われています。その文化は相当に高度なものでしたが、特徴は稲作を行ない、青銅器を使用し、漁労文化を発達させたことでした。

また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。

岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)

岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があことなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。

越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。

倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。

越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。

卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。

越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。

弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。

しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。

漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。

神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。

青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変える考えることもできそうです。

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