2009年11月29日日曜日

八岐大蛇 その1

今回からまた神話に戻ります。卑弥呼は天照大神であり、天の岩戸の神話では247年ころのことが語られています。神話でみると間もなく面土王家が滅びますが、これがスサノオの高天が原からの追放として語られています。

高天が原を追放されたスサノオは出雲の肥の川上(斐伊川)の鳥髪という土地に下り(古事記)、ヤマタノオロチを退治することになっています。神話をそのままに解釈すると、倭人伝の「刺史の如き者」、すなわち面土国王が248年から間もないころに追放されて出雲に行ったということになり、三世紀後半の出雲でオロチ退治に語られている事件があったということになります。

神話の舞台は筑紫から出雲に移っていきますが、スサノヲが降る先がなぜ出雲でなければならないのかが問題です。卑弥呼共立までの7~80年間は面土国王が倭国の盟主でしたが、大乱後には盟主の座は卑弥呼に移ります。

先述のように筑紫神話では魏・蜀正閠論は魏が邪馬台国に、また蜀が面土国に置き換えられていますが、出雲神話では魏が女王国に置き換えられ、蜀が出雲に置き換えられているようです。ここで出雲とスサノオ(面土国王)との結びついてきますが、この場合の出雲は銅剣・銅鐸の分布圏と考えるのがよいようです。その考え方は卑弥呼が魏から親魏倭王に冊封されたことに始まります。

中・四国地方や近畿地方の、銅剣・銅鐸を配布した部族も、面土国王を潜在的な倭王と考えたのでしょう。これが出雲神話におけるスサノオのようです。高天が原を追放されたスサノオと、オロチを退治しクシイナダヒメを妻にするスサノオとは直接の関連は無く、紀伝体の神話によく見られるようにまったく別の神話だと見なければならないようです

『日本書紀』本文はオオナムチ(大国主神の別名)をスサノオの子としていますが、子とするのは本文だけで、他の一書も『古事記』も六世孫だとしています。

古事記        六代の系譜の記載がある
『日本書記』本文  (素戔鳴尊と奇稻田姫は)兒大己貴神を生む
第一の一書     兒は八島篠、この神の五世の孫は、即ち大国主神なり 
第二の一書     六世の孫、これを大己貴命と曰す
第三の一     (素戔鳴尊)の五世の孫の天之葺根神(その兒が大国主)             

オオナムチがスサノヲの六世孫であれば、天照大神の孫のホノニニギとは世代が合わず国譲りの神話は成立しませんが、オオナムチをスサノヲの子とすることによって初めて国譲り神話は成立します。『日本書紀』本文は国譲り神話を成立させるために、オオナムチをスサノオの子としなければならなかったようです

前述のようにホノニニギは台与の後の男王ですから、その活動時期は247年(正始8年)から266年までの間のある時期になります。そのホノニニギにオオナムチが国譲りをするのですから、オロチを退治するスサノオの活動時期は、天の岩戸の天照大神やスサノオよりも4代ほど以前ということになりそうです。

天照大神B(台与)とオシホミミ(卑弥呼死後の男王)の活動時期は出雲の天之冬衣神と同時期になり、天照大神A(卑弥呼)と高天が原のスサノオが淤美豆奴神と同時期であることが考えられます。淤美豆奴神は『出雲国風土記』で国引きをする八束水臣津野命と同神です。

淤美豆奴神とオロチを退治するスサノオの間には、まだ深淵之水夜礼花神、布波能母遅久奴須奴神、八島士奴美神の三代が入りますが、安本美典氏は古代の王の平均在位年数を10,3年とされています。その説に従うとオロチを退治するスサノオの時期は、オオクニヌシの60年ほど以前、すなわち倭国大乱のころになります。オロチ退治とは倭国大乱が出雲に波及したことが語られているようです。 

2009年11月27日金曜日

神功皇后紀の年代 その3

神功皇后紀の紀年だと皇后は169年に生まれ、269年に死んだことになりますが、413年に東晋の安帝に方物を献じた倭の五王の賛を、仁徳・履中のいずれかの天皇とすると、神功皇后の時代は4世紀も終わりのころでなければならないことになります。

よく知られているように干支2運、120年が繰り上げられており、120年を繰り下げると神功皇后の死は389年になって実態に近くなります。『日本書紀』の紀年を干支2運、120年繰り上げるためには、神功皇后は倭女王、つまり卑弥呼・台与でなければならなかったのです。

なぜそのような操作をする必要があったのでしょうか。私は『日本書紀』の編纂者は卑弥呼が天照大神であり、邪馬台国が高天が原であることを知っていたのだと考えます。天照大神の5代の後の神武天皇の即位は紀元前660年とされていますが、そうするためには天照大神が卑弥呼・台与であってはならなかったのでしょう。  

その結果、天照大神の時代は神代とされ、初期の天皇の在位期間は異常に永くなりました。在位期間が2倍に引き延ばされているという考えも見られますが、そうであっても計算が合いません。仲衷天皇の皇后としての神功皇后は実在したでしょうが、皇后の三韓征伐はなかったように思います。斉明天皇の百済救援の出兵と卑弥呼・台与とが合成されて、神功皇后の三韓征伐の物語が出来たのだと考えています。

「欠史八代」という呼び方は、初期の大和朝廷が弱体で諸天皇の事績に見るべきものが無かったことを表しているのでしょう。 しかし「欠史八代」は存在しないという説は適切ではないように思います。古墳時代前期はおよそ4世紀だとされていますが、私は270年から360年にかけての90年間を古墳時代前期として捉えるのがよいと思っています。この90年間が「欠史八代」の時代であり、大和朝廷の統治が確立する時期だと考えます。

240年から270年の後期後半3期に、台与とその後の男王の時代があり、やがて神武天皇の東征があって大和朝廷成立するのだと思います。266年の倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するのでしょう。

古墳は弥生時代後期の墓が巨大になったと言うよりも、氏姓制が施行されたことによって墓制が変わったことにより出現したと考えるのがよさそうです。氏姓制とは有力氏族長に県主・君・公・直などの姓(かばね)を与えて土地・人民の私有を認めると共に、朝廷の統治を分担させる制度です。前方後円墳という定型化された古墳は大和朝廷から姓を与えられた者の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書紀』綏靖天皇紀を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、この空位は東征以前から従って来た中臣氏、忌部氏、猿女氏など天神系氏族と、東征後に服属するようになった三輪氏、賀茂氏など地祇系氏族との間に、大王(天皇)位を巡る抗争があったためのようです。

綏靖天皇は親(神武天皇)を思う気持ちが強く空位の三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。綏靖天皇紀の記事にはこの三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが述べられているようです。これが前方後円墳の出現の要因になっているのでしょう。

箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛の墓だとも、また卑弥呼の墓だとも言われていますが、箸墓が三世紀後半に造られたものであれば、卑弥呼の時代とは 20~30年の年代差が出ます。箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖、安寧、懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王(天皇)に擁立するために造った、神武天皇の墓のように思います。

2009年11月24日火曜日

神功皇后紀の年代  その2

神功皇后紀の編纂者は誰も見たことのない『晋起居注』を引用したとして、266年に台与が遣使したと思わせようとしていますが、これは事実ではありません。『梁書』『北史』に次のような記事があります。

正始中卑弥呼死、更立男王、国中不服更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王、其後復立男王、并中国爵命

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與(いよ)を立てて王となす。その後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける〉

この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は中国が倭王に冊封したということですが、「并」には二人を前後にならべて一組にするという意味があります。

「并」は二人を前後にならべて一組にすると意味で、前が台与、後が男王ということになります。当時の倭国では台与を退位させ、男王を立てようとする動きがあったようですが、一時期二人の王がおりそれを中国が認めています。

台与が即位して間もなく、卑弥呼死後の争乱の原因になったとして面土国王と銅戈を配布した部族が滅ぼされるようです。女王共立の一方の当事者が滅んだことにより女王制は有名無実になり、台与を退位させ、男王を立てようとする動きが出てきます。

ところがやはり台与を退位させて男王を立てることに対して反対する者があり、この反対する者を封じ込めるために、台与と男王とが同時に立てられたようです。私も「并」にそのような意味があるとは思わなかったので漫然と見すごしていたのですが、女王の時代と男王の時代の間に、王が二人いる時代があったようです。『晋書』巻九十七 四夷伝 倭人条に次のように記されています。

乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。   

〈すなわち女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と言う。宣帝の公孫氏を平(たいら)ぐるや、其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘(こうへい)の絶えることなし文帝の相に及ぶに又、數(かず)至(いた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す

宣帝は司馬懿(しばい)のことで、文帝は懿の子の昭(しょう)のことです。二三九年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、その後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国になってからも何度かの遣使、入貢があったというのです。

昭が相国として魏の実権を握っていたのは二五八年から二六五年までの七年間でした。『神功皇后紀』六十六年条に引きずられて、このことが省みられていないことはまことに残念です。『晋起居注』を見たと言っているのは『神功皇后紀』の編纂者だけです。

254年、司馬師は皇帝芳を廃し、高貴郷公髦を立てますが、後継者の司馬昭は髦を殺し元帝を立てていて、皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。司馬氏が元帝から禅譲を受けることは衆知の事実で、それが何時になるのかが関心の的になっていたようです。

倭人もこのことを知っていて、炎が即位すると翌266年にさっそく遣使しますが、これが「泰始の初め」の遣使、つまり神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。司馬昭が相国だった時期にも何度かの遣使がありました。台与が即位して初めて行なった遣使が266年だという説は『神功皇后紀』の創作です
 
後期後半三期(240~70)の残りの20年間は台与とその後の男王の時代ですが、男王は1代ではなく2代か3代のようです。神功皇后紀は台与の後に男王が立ったことを隠蔽していますが、266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されるようです。

2009年11月22日日曜日

神功皇后紀の年代 その1

倭人伝の記事は正始八年(二四七)で終わりますが、その正始八年の記事には台与が掖邪狗ら二〇人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。帯方郡使の張政の送還を兼ねての遣使でしたが、使節には復命の義務があり任務が終了すればすみやかに復命しなければいけません。

張政の復命のことを考えると掖邪狗らが洛陽に行ったのは、正始八年か翌九年と考えなければならないでしょう。ところが通説では晋の武帝の泰始二年(二六六)だとされています。これは『日本書紀』神功皇后紀六十六年条に次のように記されているためです。

六十六年 この年は晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云う。晋の武帝の泰初二年十月、倭の女王が遣わして譯を重ねて貢献す。

神功皇后紀は『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、卑弥呼は二四七年ころに死んでいるので、この女王は台与ということになります。しかしどこか不自然で、この引用部分は後世に書き加えられたとして削除する考え方もあります。

神功皇后紀三十九年条と六十六年条を比較してみると、文の構成が非常によく似ていて、明らかに四十年条、四十三年条とは構成が違います。これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されているということのようです。 

三十九年  是の年太歳己未なり。 魏志に云はく、明帝景初三年六月に倭女王は大夫難升米等を遣わして、郡に詣でて朝献を求める。

六十六年  是の年は晋の武帝の泰初二年晋起居注に云はく、晋の武帝の泰初二年十月倭女王遣わして、譯を重ねて貢献する。

四十年条と四十三年条の書き出しは「魏志云」となっていますが、三十九年条も「魏志云」で始めればよさそうなのに「是年也」で始まっています。六十六年条も同じで「晋起居注云」で始めればよさそうなものなのに「是年」で始まっていますが、これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されたということでしょう。

三十九年条に「是年也太歳己未」とあるのは、六十九年条の神功皇后の崩年が「是年也太歳己丑」とされていることによるのでしょう。太歳の文字は天皇の即位年や崩年など、『日本書紀』の紀年の基準になる重要な年に付けられますが、六十九年条の「是年也大歳己丑」を設定する根拠が『魏志』の明帝景初三年六月の記事なので、そのことを表すために三十九年条では『魏志』の文に「是年也太歳己未」が加えられたことが考えられます。

そうすると三十九年条と六十九年条との中間の、泰初二年の遣使は女王が行ったとしなければならず、こうして六十六年条が創作されたと考えられます。三十九年条の「是年也太歳己未」が「是年晋武帝泰初二年」に書き換えられ、また「魏志云」が「晋起居注云」に書き換えられたのです。

「明帝景初三年六月」は「晋の武帝の泰初二年十月」に書き換えられ、「大夫難升米等」を削除して六十六年条の女王遣使記事が完成しました。『魏志』の記事と『晋書』武帝紀や『晋書』四夷伝の記事が合成されたのです。こうして創作すると『魏志』の「倭女王」の文字が、六十六年条にコピーされます。

神功皇后紀の編纂者にとっての神功皇后は半神半人の神聖な存在ですが、その神功皇后を東夷の野蛮人のような倭人と書くわけにはいきません。そこで六十六年条に倭女王という表記がコピーされたのでしょう。こうして神功皇后は卑弥呼・台与だと思われるようになるのですが、これは神功皇后紀の創作であって、266年の遣使は台与が行なったのではないようです。

2009年11月18日水曜日

後期後半

倭国大乱から弥生時代の終わる三世紀後半までの九〇年間が後期後半で、それは一八〇年から二七〇年までになります。この時期の中国は三国時代に当たりますが、同時に懿・師・昭・炎と続く司馬氏の時代でもあり、司馬氏が後漢滅亡後の中国を再統一するための期間でもあります

1期の倭国は大乱で王のいない時期だと考えられます。大乱は卑弥呼が王になることで終わると言われていますが卑弥呼が王になった時期は分かっていません。『後漢書』などに「更に相攻伐し暦年無主」とあり、卑弥呼が王になるのは三国鼎立が確定したことによると見ることもできます。

後期後半3期は240年から270年までの30年間です。238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていいますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期であり、3期の初めにも卑弥呼の遣使は続きます。

270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンで、この間に確実に古墳時代が始まりそうです。当稿が今まで主に言及してきたのは3期の最初の10年間ですが、私たちが最も知りたいのは倭人伝の記述の終わる247年から、倭人の遣使のあった266年までの20年間だと言えそうです。

注意されなければならないのは、3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が弥生時代に遣使した最後の年の266年にほぼ一致することです。265年には炎が魏の元帝に禅譲を迫って皇帝になり国名を晋としますが、その翌年に倭人の遣使が行なわれています。中国の動きに連動して倭国でも変化が起きるようです。

晋の成立の4年後が270年なのですが、私が270年を弥生時代の終わりとするのは、90年ごとに時代(文化)が変わるということの他に、266年の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思うからです。それは稍を統合して部族を解体し、倭国王(大王、天皇)が氏族を支配する体制に変えようということで、部族社会から氏族社会へ転換しようということです

高天が原で活動するスサノヲが追放されて出雲に下る神話に語られているように、250年ころに卑弥呼死後の争乱の戦後処理が行われて、銅戈を配布した部族が消滅し、その部族に擁立された面土国王家も滅亡します。この時に銅戈がいっせいに埋納されるのですが、春日市とその周辺には多数の埋納された銅戈が見られます。

私は台与が遣使して倭王に冊封されたのは266年ではなく249年ころだと考えていますが、面土国王は卑弥呼死後の争乱の原因になったとして滅ぼされていますから、面土国王家の滅亡は卑弥呼死後の争乱から間もないころで、250年よりも後のことになりそうです。

面土国王は女王共立の一方の当事者ですが、その当事者が居なくなったのですから女王制には存在理由がなくなります。こうして女王制にかわるヘゲモニーが必要になってきて、台与は退位し、実権のある王が立てられることになります。それは弥生時代の部族連盟社会が古墳時代の氏族社会(氏姓制社会)に変わっていく接点に、卑弥呼・台与がいるということです

部族連盟社会とは部族の擁立した王が、部族の連盟に属している宗族を統率している社会です。それに対し氏族社会(氏姓制社会)は天皇(大王)が氏族長を支配し、氏族長が下部にいる氏族員を支配するもので、部族は存在しなくなります。それを画策したのは大倭や難升米たちでした。

冊封体制の職約(義務)によって部族制社会の王は六〇〇里四方以上を支配することはできません。その六〇〇里四方が稍ですが、オオクニヌシの「出雲の国譲り」とは稍P(稍出雲)が併合されたとゆうことです。ホノニニギの「天孫降臨」とは稍O(稍日向)が併合されたとゆうことであり、そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の稍Q(稍大和)への東征が始まるのだと考えています。

2009年11月15日日曜日

後期前半

107年ころに奴国王から面土国王に統治権の移譲が行われたことが考えられますが、この統治権の移譲のさいに動乱があったようです。この動乱のことは中国の史書には見えませんが、相当に大規模のものだったようです。この動乱から霊帝の光和年中(178~183)の倭国大乱までが後期前半になるようです。帥升が即位したのが1期であり、倭国大乱で王のいなくなるのが3期になります。

私が90年ごとに中区分することに拘る最大の原因はこのことにあります。面土国王が倭国王として君臨したのは、後期前半90年間の内の7~80年間だったと考えることができます。紀元前1世紀を百余国時代とし、1世紀を奴国時代とするなら、2世紀は面土国時代であり、3世紀は邪馬台国時代だとも言えるようです。

換言すると後期は倭国大乱を境にして前半と後半に分かれ、面土国王が倭王として君臨した七、八〇年間が後期前半であり、後期後半は卑弥呼や台与の時代だということになります。武器形青銅祭器の中広形と広形は後期に造られたとされていますが、面土国王が倭王だった時期に中広形が造られ、卑弥呼や台与の時代に広形が造られたことになりそうです。

面土国王が遣使した後期前半1期ころに中広形a類が造られ、倭国大乱の予兆が見えてきた3期ころに中広形b類が造られたと考えることができ、卑弥呼が女王になると広形a類が造られ、卑弥呼死後の争乱のころに広形b類が造られたことになります。中広形をabcdに4分類することも行なわれていますが、これは地域によって異なった形式が見られることによるようです。

銅戈は中細形、中広形の段階では銅矛以上の量が造られていますが、広形になると三本ほどと極端に少なくなり、逆に銅矛は増加しています。広形銅矛にa類とb類があるのに銅戈にはa類とb類の区別がありません。中細形が中広形に変わるのは奴国王から面土国王への統治権の移譲に伴う動乱のころであり、中広形が広形に変わるのは二世紀末の倭国大乱が原因になっていると考えられます。

銅戈を配布した部族は一世紀から倭国大乱までは隆盛しますが、大乱後には劣勢になります。面土国王は倭国大乱までの7、8〇年間、倭王として君臨しますが、大乱で王位を卑弥呼に譲り「自女王国以北」の国々を「刺史の如く」に支配するようになるのです。面土国王を擁立したのは銅戈を配布した部族です。

銅矛を配布した部族が神格化されたものがイザナギですが、那珂海人、阿曇海人など、博多湾沿岸の海人でしょう。銅戈を配布した部族が神格化されたものがスサノヲであり、その部族が面土国王を擁立したことが考えられます。面土国は宗像郡であり、スサノヲの剣から生まれた三女神を祭る宗像神社があります。

この神話には魏と蜀の正閠論が関係していることが考えられます。銅矛を配布した部族は魏を正統とし、銅剣・銅戈を配布した部族は蜀を正統としたのでしよう。邪馬台国は魏を正統とし、奴国や面土国は蜀を正統として対立したようです。これが誕生したスサノヲが母の住む根の国に行きたいと言って泣いたために、イザナギに追放される神話になっているようです。

スサノヲは出雲でも大活躍しますが、そうであれば出雲に大量の銅戈が分布していてもよさそうなものです。大場磐雄氏は加茂岩倉遺跡の発見を予見していましたが、それは的中しました。その出雲のことですから、どこかに三〇〇本ほどの「出雲形銅戈」が眠っているかもしれません。私はそのことを秘かに願っているのですが、しかしその可能性は少ないように思っています。

出雲大社本殿の背後にスサノヲを祭る素鵞神社があり、東に200メートルほど離れた命主神社境内から中細形銅戈一本と瑪瑙製の勾玉一個が出土しています。この銅戈を祀っていた宗族が出雲神話のスサノヲようで、出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しており、それはスサノオに結びつくと考えています。