邪馬台国の所在については九州説と畿内説が対立していると言えますが、畿内説では奈良県纒向遺跡を邪馬台国の王都とし、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。その他にも多くの説がありますが、方位・距離を無視すれば邪馬台国はどこにでも比定できます。
その中には博多の梓書院前社長、田村明美氏をして「おらが邪馬台国原稿」と言わしめるものも出てくることになります。邪馬台国や卑弥呼の墓は歴史愛好家にとってはロマンですが、同時に史学の一分野でもあり事実を追及する姿勢も必要です。
畿内説は方位・距離を考慮に入れないことを前提にしています。通説では伊都国は糸島郡とされ奴国は福岡平野とされていますが、この通説自体が倭人伝の地理記事と合いませんから、邪馬台国の位置についても方位・距離を考慮する必要はないとも言えます。しかし方位・距離を無視することは邪馬台国の存在そのものを否定することにならないでしょうか。
以下は私の考えている九州説ですが、面土国が3世紀にも実在しており、それは筑前宗像郡であることを前提にしています。面土国は倭人伝の地理記事の末盧国と伊都国の中間に位置していると考えていますが、これは通説の南を東と見る考えを無視したもので、「同じ穴の狢」だと言えなくもありません。
しかし方位・距離を無視しているわけではありません。その起点は宗像市田熊・土穴付近であり、一里は65メートルだと考えています。付近は宗像大社の「根本神領」とされ、一昨年には田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土して話題になりました。畿内説と比較してみてください。
倭国(女王国)は律令制の筑前・筑後・豊前・豊後・肥前東半と考えています。これは現在の福岡・佐賀・大分の3県になりますが、朝鮮半島から渡来してきた「渡来系弥生人」の形成する国です。
邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半の10郡ほどであり、東半には「自女王国以北」の国である面土国・奴国・不弥国がありました。投馬国は筑後の10郡ほどであり、豊前・豊後・肥前東半には国名のみの21ヶ国がありました。
狗奴国は肥後と肥前西半で、熊本・長崎の2県になりますが、「熊襲」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。元来の熊襲は肥(肥前・肥後)の住民のようですが、青銅祭器の分布から見て、肥後の北半と肥前東半の熊襲は「渡来系弥生人」と融合するようです。その結果、肥前東半(佐賀県部分)は女王国に属することになると思われます。
侏儒国は薩摩・大隅・日向で、後に「隼人」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。侏儒とは住民が低身長であることを表していますが、現代でも成人男性平均身長が160,7センチと低身長であることが観察されています。
倭人伝の記述している「女王国」や「倭」あるいは「倭地」は現在の九州であり、それよりも以東は「船行一年」でその東端に至ることのできる、「倭の種」の住むところとして区別して考えるのがよいと思っています。
その「倭の種」の国には出雲(中国・四国)や越(北陸)の国があり、固有の呼び方はありませんが大和や尾張を中心とする国もありました。出雲は銅剣・銅鐸を宗廟祭祀の神体とする部族の国ですが、大和や尾張は近畿式・三遠式の銅鐸を神体とする部族の国です。
九州説と畿内説とは「水掛け論」になりそうです。その原因の一つに畿内説がその論拠を初期古墳の存在と、古墳に副葬されている三角縁神獣鏡に求めていることにありそうです。畿内説では方位・距離は考慮されていませんが、これも原因の一つでしょう。
三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使して銅鏡百枚を賜与された景初3年(239)の記年銘を持つ島根県神原神社古墳出土鏡や、その翌年の正始元年の記年銘を持つ3面などがありますが、三角縁神獣鏡は畿内を中心にして400面以上が出土しています。
三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと推定される画文帯神獣鏡も60面ほどが出土していますが、景初3年の銘を持つものが大阪府泉黄金塚古墳などから出土しています。これも三角縁神獣鏡と同様に畿内とその周辺で出土することが多いとされています。
畿内やその周辺に三角縁神獣鏡の多いことは畿内説に有利ですが、副葬されている古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされています。記年銘とそれが副葬されている古墳の年代の間には100年かそれ以上の差がありますが、この差は何を意味するのでしょうか。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とされるのは、 三角縁神獣鏡に景初・正始などの記年銘を持つものがある ⇔ 三角縁神獣鏡は畿内に多い ⇔ 箸墓古墳の築造は古墳時代初頭 ⇔ 箸墓古墳は卑弥呼の墓、 という論法のようですが、箸墓古墳から三角縁神獣鏡が出土したわけではありませんし、100年もの年代差があると、この論法は成立しないと考えるのがよさそうです。
2010年10月4日月曜日
2010年9月26日日曜日
神社 その6
天武天皇は「八色の姓」を制定して氏族を最編成しますが、さらに『古事記』編纂の発端になった帝紀・旧辞の撰録を命じています。『古事記』は天神とされている猿女君の伝えたものであるために、地祇・諸蕃が軽視されているようです。地祇・諸蕃の軽視が672年に起きた壬申の乱の遠因にもなっており、また神社・神道が今の形になる転機になるようです。
『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。
私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。
古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。
布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。
物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。
『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。
それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。
最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。
倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。
弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。
これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。
これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。
島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。
これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。
『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。
私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。
古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。
布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。
物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。
『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。
それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。
最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。
倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。
弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。
これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。
これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。
島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。
これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。
2010年9月20日月曜日
神社 その5
古墳時代の大和朝廷は有力な氏族長に君、直、首、公などの姓(かばね、身分)を与え、人民と土地の私有を認めましたが、定形化された前方後円墳は大和朝廷の統治に服属して姓を与えられた氏族長の墓なのでしょう。その墓の祭祀を継承することが姓を継承し氏族を支配していることを表し、その祭祀の場が神社になると思われます。
弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。
前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。
加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。
弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです。
『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。
卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。
ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。
律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。
『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。
氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。
672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。
この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族が不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。
大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰(すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。
弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。
前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。
加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。
弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです。
『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。
卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。
ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。
律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。
『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。
氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。
672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。
この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族が不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。
大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰(すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。
2010年9月12日日曜日
神社 その4
武帝の時代に儒教が国教になったことにより、儒教の礼が外交儀礼の礼式として流入してきますが、やがて神道の原形と儒教が融合し冊封体制下の倭人の王も儒教の礼に基づく統治を行なうようになると考えます。日本の神道と儒教には類似する点が多いのです。
儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。
本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです。
神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。
青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。
私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです。
今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。
その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。
兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。
遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。
遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。
加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。
大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。
銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。
ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです。
儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。
本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです。
神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。
青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。
私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです。
今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。
その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。
兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。
遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。
遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。
加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。
大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。
銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。
ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです。
2010年9月6日月曜日
神社 その3
弥生中期後半(1世紀)になると江南から流入してきた神道の原形に儒教が融合するようです。周王の姓は姫氏ですが周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っていました。姫姓の諸侯は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主宰することはできません。
周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。
孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。
前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。
しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。
新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。
元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。
それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。
礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。
区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。
これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう
この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。
この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。
西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。
それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。
周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。
孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。
前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。
しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。
新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。
元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。
それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。
礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。
区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。
これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう
この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。
この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。
西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。
それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。
2010年9月1日水曜日
神社 その2
古代中国の越は浙江省・江蘇省・安微省・山東省の一部、及び福建省にまたがる地域の先住民で、海に依存する度合いが高かったと言われています。その文化は相当に高度なものでしたが、特徴は稲作を行ない、青銅器を使用し、漁労文化を発達させたことでした。
また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。
岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)
岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があることなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。
越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。
倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。
越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。
卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。
越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。
弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。
しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。
漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。
神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。
青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変えると考えることもできそうです。
また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。
岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)
岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があることなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。
越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。
倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。
越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。
卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。
越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。
弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。
しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。
漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。
神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。
青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変えると考えることもできそうです。
2010年8月24日火曜日
神社 その1
今回は目先を変えて神社について考えてみたいと思います。邪馬台国や面土国と神社に関係があるのかと思われるでしょうが、神社が現在の形で祭られるようになるについては弥生時代から古墳時代にかけての歴史と無関係ではないようです。
倭人伝には「卑弥呼事鬼道能惑衆」とありますが、私は鬼道を古神道の主要々素になっていたシャーマニズムだと考えています。王となってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが「辞を伝え飲食を給仕」するために、彼女のもとに出入りをしていたとありますが、この男子はサニハ(審神者)のようです。
日本ではお寺の檀徒であると同時に神社の氏子でもあることが多いようですが、神道は日本の民族宗教と言えるでしょう。神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖を神として祀る氏神の祭祀が中心でした。
江戸時代になると山崎闇斎が垂加神道を唱えましたが、垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調したものでした。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれます。
ここで述べようとしていることは山崎闇斎や本居宣長の考えとは別の次元のことであり、純粋に歴史学の面から見てみようというものです。しかし私は神道は儒教の影響を強く受けていると思っています。

国学院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めておられますが、神道の発生期を弥生文化期とされています。この時期に儒教が中国の国教になりますが、中国と倭人との交流も始まります。中国との交流を通してそうとは知らずに儒教を受け入れていたと考えています。
表の大場説とはやはり国学院大学教授で「神道考古学」の提唱者大場磐雄氏の説ですが、大場氏は神道の発生期を弥生時代とするか、古墳時代とするか決めかねていたということです。私は大場氏の「神道考古学」という考え方に関心を持っています。
第二次世界大戦以前の神道は山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤などの影響を強く受けていましたが、終戦後にその反動がきます。考古学に関してもそれが顕著で、津田左右吉の神話は史実ではないとする説が闊歩するようになります。
私が「神道考古学」という考え方に関心を持つようになったのは、島根県加茂岩倉遺跡で全国最多の銅鐸39個が出土したことがきっかけになりました。それまでは大場氏のことも「神道考古学」という考え方のあることも知りませんでした。
大場氏はその著作『銅鐸私考』で銅鐸を使用した氏族はカモ氏・ミワ氏などの「出雲神族」だとし、出土地と両氏に関係があることが多いとしています。「出雲神族」とはオオクニヌシに系譜の連なる氏族と言う意味だそうですが、当時、その「出雲神族」の多い出雲国にはほとんど銅鐸が見られませんでした。
その出雲国の、しかも加茂から39個もの銅鐸が出土したのです。今では出雲国の銅鐸は53個になっています。出雲国の銅鐸のほとんどが加茂岩倉に集まっていたために、出雲国には銅鐸が無いように見えたのです。大場氏の予見が的中しました。
大場氏の『銅鐸私考』はその後無視されていましたが、加茂岩倉遺跡の発見で脚光をあびることになります。しかし考古学会がこれを認めているかと言うとそうでもなさそうで、相変わらず津田史学がまかり通っていそうです。その11年前には同じ出雲国の荒神谷遺跡で総数380という大量の青銅祭器が出土しています。
古代出雲国を考える時、大場磐雄氏の「神道考古学」という考え方は有効ではないかと思っています。右欄の「私の考え」は統治形態と神道の関係を見てみようというものですが、その始原は稲作の流入、つまり弥生時代の始まりと一致すると思っています。
そして『古事記』『日本書記』が神道の「聖典」と言われるようになり、現在の神道なり神社なりの形になってくるのだと思います。
倭人伝には「卑弥呼事鬼道能惑衆」とありますが、私は鬼道を古神道の主要々素になっていたシャーマニズムだと考えています。王となってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが「辞を伝え飲食を給仕」するために、彼女のもとに出入りをしていたとありますが、この男子はサニハ(審神者)のようです。
日本ではお寺の檀徒であると同時に神社の氏子でもあることが多いようですが、神道は日本の民族宗教と言えるでしょう。神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖を神として祀る氏神の祭祀が中心でした。
江戸時代になると山崎闇斎が垂加神道を唱えましたが、垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調したものでした。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれます。
ここで述べようとしていることは山崎闇斎や本居宣長の考えとは別の次元のことであり、純粋に歴史学の面から見てみようというものです。しかし私は神道は儒教の影響を強く受けていると思っています。

国学院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めておられますが、神道の発生期を弥生文化期とされています。この時期に儒教が中国の国教になりますが、中国と倭人との交流も始まります。中国との交流を通してそうとは知らずに儒教を受け入れていたと考えています。
表の大場説とはやはり国学院大学教授で「神道考古学」の提唱者大場磐雄氏の説ですが、大場氏は神道の発生期を弥生時代とするか、古墳時代とするか決めかねていたということです。私は大場氏の「神道考古学」という考え方に関心を持っています。
第二次世界大戦以前の神道は山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤などの影響を強く受けていましたが、終戦後にその反動がきます。考古学に関してもそれが顕著で、津田左右吉の神話は史実ではないとする説が闊歩するようになります。
私が「神道考古学」という考え方に関心を持つようになったのは、島根県加茂岩倉遺跡で全国最多の銅鐸39個が出土したことがきっかけになりました。それまでは大場氏のことも「神道考古学」という考え方のあることも知りませんでした。
大場氏はその著作『銅鐸私考』で銅鐸を使用した氏族はカモ氏・ミワ氏などの「出雲神族」だとし、出土地と両氏に関係があることが多いとしています。「出雲神族」とはオオクニヌシに系譜の連なる氏族と言う意味だそうですが、当時、その「出雲神族」の多い出雲国にはほとんど銅鐸が見られませんでした。
その出雲国の、しかも加茂から39個もの銅鐸が出土したのです。今では出雲国の銅鐸は53個になっています。出雲国の銅鐸のほとんどが加茂岩倉に集まっていたために、出雲国には銅鐸が無いように見えたのです。大場氏の予見が的中しました。
大場氏の『銅鐸私考』はその後無視されていましたが、加茂岩倉遺跡の発見で脚光をあびることになります。しかし考古学会がこれを認めているかと言うとそうでもなさそうで、相変わらず津田史学がまかり通っていそうです。その11年前には同じ出雲国の荒神谷遺跡で総数380という大量の青銅祭器が出土しています。
古代出雲国を考える時、大場磐雄氏の「神道考古学」という考え方は有効ではないかと思っています。右欄の「私の考え」は統治形態と神道の関係を見てみようというものですが、その始原は稲作の流入、つまり弥生時代の始まりと一致すると思っています。
そして『古事記』『日本書記』が神道の「聖典」と言われるようになり、現在の神道なり神社なりの形になってくるのだと思います。
2010年8月17日火曜日
部族 その5
57年に奴国という部族国家の首長が遣使して、後漢から「漢倭奴国王」に冊封され、初めて倭人の王が出現します。107年には面土国という部族国家の首長の帥升が倭国という部族連盟国家の盟主として遣使し、「倭国王」の称号を授けられます。
さて卑弥呼ですが、卑弥呼は銅矛・銅戈を配布した部族に共立されて倭国という部族連盟国家の盟主になり、魏から「親魏倭王」に冊封されますが、邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の首長(王)ではありません。邪馬台国の首長は倭人伝に見える「大倭」であろうと思っています。
倭人伝は当時の日本を女王国、倭国、女王、倭、倭人、倭種、倭地という用語で表し、それぞれ特定の意味で使い分けています。女王国は卑弥呼、または台与の支配している北部九州の三〇ヶ国です。そして倭国は倭人伝に三回出てきます。
①その国、もと亦男子をもって王となす。とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。
②詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假す
③王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣いるに、郡の倭国に使いするや、皆津に臨んで捜露す
①の倭国は卑弥呼が王になる以前には男子が王だったというのですから、この倭国と女王国は同じものです。②の倭王は卑弥呼ですからこの倭国も女王国です。③は卑弥呼・台与の使者も津で捜露を受けるというのですから、この倭国も女王国と同じです。
西島定生氏は倭人伝に見える倭国は、倭王である卑弥呼・台与と直接に関係のある場合に用いられており、倭国という国号は外交関係だけに用いられるものであるとされています。そしてこの倭国は女王国と同じものです。
漢・魏王朝は冊封体制によって外臣の王の支配する国の面積を稍、つまり王城を中心とする六百里四方(260キロ四方)に制限していました。倭王が少なくとも東日本の半分までを支配すると六百里という限度をはるかに越えます。
冊封体制の目的は周辺諸国を懐柔・分断し、中国に敵対する大勢力の出現を阻止することにあります。その中国が六百里以上を支配する王を冊封することはありません。卑弥呼が支配しているのは北部九州にあった女王国であり、それが倭国です。
古墳時代になると部族連盟国家が統合されて大和朝廷が成立し、民族国家(日本民族の国)の倭国が誕生します。それは270~80年ころのことだと考えていますが、女王国は北部九州にあった部族連盟国家の一つに過ぎません。
また寺沢薫氏の『王権誕生』から引用させていただきます。大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとされ、これを「イト倭国」と呼ばれています。
その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わって、卑弥呼を王とする「新生倭国」(ヤマト王権)が誕生したとされ、奈良県桜井市の纒向遺跡が新生倭国の王都であり、その延長線上に大和朝廷が出現してくるとされます。
『王権誕生』にはこの「部族的な国家」と言う表現が散見され、「部族的国家連合」という表現も見られます。「部族的国家」は政治学者の滝村隆一氏の提唱された考え方だそうですが、寺沢氏はこれを「大共同体」と呼び、「クニ」と片仮名で表記されているようです。
私のいう「部族国家」と寺沢氏の言われる「大共同体」(クニ)とは同じもののようですが、「部族的な国家」は卑弥呼の時代以前の状態の国という意味のようで、私の考える宗族の通婚圏が「部族国家」になるというのとは違うようです。
「部族的国家連合」も同じで、私の考えている部族連盟国家とは違うようです。また「倭国」について、寺沢氏は「新生倭国」を「ヤマト王権」とも呼び、律令時代の大和朝廷の前身が、卑弥呼の時代に始まるとされています。
神話では卑弥呼・台与は天照大御神とされているようです。その五世孫の神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するとされ、部族連盟国家の倭国(女王国)と民族国家の倭国(大和朝廷支配下の倭国)とは連続しているとされています。しかし実質的には別であり、部族連盟国家が統一されて民族国家の倭国になると考えるのがよさそうです。
さて卑弥呼ですが、卑弥呼は銅矛・銅戈を配布した部族に共立されて倭国という部族連盟国家の盟主になり、魏から「親魏倭王」に冊封されますが、邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の首長(王)ではありません。邪馬台国の首長は倭人伝に見える「大倭」であろうと思っています。
倭人伝は当時の日本を女王国、倭国、女王、倭、倭人、倭種、倭地という用語で表し、それぞれ特定の意味で使い分けています。女王国は卑弥呼、または台与の支配している北部九州の三〇ヶ国です。そして倭国は倭人伝に三回出てきます。
①その国、もと亦男子をもって王となす。とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。
②詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假す
③王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣いるに、郡の倭国に使いするや、皆津に臨んで捜露す
①の倭国は卑弥呼が王になる以前には男子が王だったというのですから、この倭国と女王国は同じものです。②の倭王は卑弥呼ですからこの倭国も女王国です。③は卑弥呼・台与の使者も津で捜露を受けるというのですから、この倭国も女王国と同じです。
西島定生氏は倭人伝に見える倭国は、倭王である卑弥呼・台与と直接に関係のある場合に用いられており、倭国という国号は外交関係だけに用いられるものであるとされています。そしてこの倭国は女王国と同じものです。
漢・魏王朝は冊封体制によって外臣の王の支配する国の面積を稍、つまり王城を中心とする六百里四方(260キロ四方)に制限していました。倭王が少なくとも東日本の半分までを支配すると六百里という限度をはるかに越えます。
冊封体制の目的は周辺諸国を懐柔・分断し、中国に敵対する大勢力の出現を阻止することにあります。その中国が六百里以上を支配する王を冊封することはありません。卑弥呼が支配しているのは北部九州にあった女王国であり、それが倭国です。
古墳時代になると部族連盟国家が統合されて大和朝廷が成立し、民族国家(日本民族の国)の倭国が誕生します。それは270~80年ころのことだと考えていますが、女王国は北部九州にあった部族連盟国家の一つに過ぎません。
また寺沢薫氏の『王権誕生』から引用させていただきます。大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとされ、これを「イト倭国」と呼ばれています。
その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わって、卑弥呼を王とする「新生倭国」(ヤマト王権)が誕生したとされ、奈良県桜井市の纒向遺跡が新生倭国の王都であり、その延長線上に大和朝廷が出現してくるとされます。
『王権誕生』にはこの「部族的な国家」と言う表現が散見され、「部族的国家連合」という表現も見られます。「部族的国家」は政治学者の滝村隆一氏の提唱された考え方だそうですが、寺沢氏はこれを「大共同体」と呼び、「クニ」と片仮名で表記されているようです。
私のいう「部族国家」と寺沢氏の言われる「大共同体」(クニ)とは同じもののようですが、「部族的な国家」は卑弥呼の時代以前の状態の国という意味のようで、私の考える宗族の通婚圏が「部族国家」になるというのとは違うようです。
「部族的国家連合」も同じで、私の考えている部族連盟国家とは違うようです。また「倭国」について、寺沢氏は「新生倭国」を「ヤマト王権」とも呼び、律令時代の大和朝廷の前身が、卑弥呼の時代に始まるとされています。
神話では卑弥呼・台与は天照大御神とされているようです。その五世孫の神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するとされ、部族連盟国家の倭国(女王国)と民族国家の倭国(大和朝廷支配下の倭国)とは連続しているとされています。しかし実質的には別であり、部族連盟国家が統一されて民族国家の倭国になると考えるのがよさそうです。
2010年8月10日火曜日
部族 その4
私は「律令制社会」の前の古墳時代を「氏姓制社会」とし、その前の弥生時代を「部族制社会」とするのがよいのではないかと思っています。「部族制社会」とは部族が首長や王を擁立する社会という意味です。
古墳時代以前については「原始社会」と呼ばれた時代があったようですが、実情に合わず今では「首長制社会」と言われているようです。しかし弥生時代後半には王が出てきますから弥生時代が純粋な「首長制社会」だとは言えません。
首長は土侯とか酋長と言われていましたが、差別用語だということで現在では首長と呼ばれるようになっています。私は日本の王と首長の違いは、首長が中国の冊封体制に組み込まれて王として認められているかどうかだと考えています。
弥生時代前半は部族が首長を擁立し、後半には王を擁立するようになると考えるのですが、そのような意味で弥生時代を「部族制社会」と呼ぶのがよいと思うのです。とすれば57年に奴国王が「漢委奴国王」に冊封される以前には首長は居るが王は居ないことになります。
それは奴国・面土国・女王国のある北部九州に限って言えることであり、他の地方は首長制社会のままだということになります。しかし冊封体制には隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないという職約(義務)があり、冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていました。
他の地方の首長も王と同じだと考えるのがよさそうです。弥生時代前半までの部族は律令制の郡程度の通婚圏ごとに部族国家を形成したでしょう。部族国家の首長は有力な宗族が擁立しますが、弱小の宗族もその首長の支配を受けたと考えられます。
弥生時代後半になると部族は宗族長など支配者層の母系の親族集団になり、部族は王を擁立するための政治的集団になっていくようです。王の擁立を巡って対立するようになりますが、その部族の集まりを部族連盟と呼び、その国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと考えます。
高句麗も部族連盟国家で、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主でしたが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていきました。部族国家は部族が国を形成したものですが、部族連盟国家はその部族国家が統合されて、さらに規模の大きな国を形成している状態だと考えるのがよいと思っています。
倭人伝には戸数千~三千の小国と二万~七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていました。この小国が部族国家であり、女王国が部族連盟国家だと考えるのがよいようです。邪馬台国・奴国・投馬国などの大国は、部族国家が統合されたもので部族国家と部族連盟国家の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
部族連盟国家は王が支配しますが、王は冊封体制によって支配領域を六百里四方の稍に制限されていたので、部族連盟国家も六百里四方以下に限定されました。しかし部族は王を擁立するが王そのものでもなく、また国そのものでもないので冊封体制の制限を受けません。
部族が幾つの稍を支配してもよいし、何人の王を擁立してもよいのです。このことから弥生時代後半には複数の稍に同族が分布していて、複数の部族連盟国家の王を擁立することのできる巨大な部族が現れてきます。
高句麗には5大部族が存在していましたが、倭には4大部族が存在していました。北部九州から中国、四国地方にかけて、銅矛、銅戈を配布した部族があり、東海から中国・四国地方にかけて銅鐸を配布した部族がありました。中国、四国地方には銅剣を配布した部族もありました。
2世紀の北部九州では銅戈を配布した部族が優勢で、面土国王の帥升を部族連盟国家(筑紫)の盟主に擁立しますが、3世紀には銅矛を配布した部族が優勢になります。倭国大乱で盟主の座は卑弥呼に移りますが、このことが銅戈を配布した部族の衰退する原因になっているようです。
弥生後期後半に製作された広形銅矛が増加しているのに対し、広形銅戈が3本ほどと激減しているのはこのことを示しています。面土国王は遠賀川流域の「自女王国以北」の諸国を「刺史」の如くに支配するようになりますが、小数ながら広形銅戈が存在しているのを見ると、銅戈を配布した部族が消滅したのではないようです。
古墳時代以前については「原始社会」と呼ばれた時代があったようですが、実情に合わず今では「首長制社会」と言われているようです。しかし弥生時代後半には王が出てきますから弥生時代が純粋な「首長制社会」だとは言えません。
首長は土侯とか酋長と言われていましたが、差別用語だということで現在では首長と呼ばれるようになっています。私は日本の王と首長の違いは、首長が中国の冊封体制に組み込まれて王として認められているかどうかだと考えています。
弥生時代前半は部族が首長を擁立し、後半には王を擁立するようになると考えるのですが、そのような意味で弥生時代を「部族制社会」と呼ぶのがよいと思うのです。とすれば57年に奴国王が「漢委奴国王」に冊封される以前には首長は居るが王は居ないことになります。
それは奴国・面土国・女王国のある北部九州に限って言えることであり、他の地方は首長制社会のままだということになります。しかし冊封体制には隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないという職約(義務)があり、冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていました。
他の地方の首長も王と同じだと考えるのがよさそうです。弥生時代前半までの部族は律令制の郡程度の通婚圏ごとに部族国家を形成したでしょう。部族国家の首長は有力な宗族が擁立しますが、弱小の宗族もその首長の支配を受けたと考えられます。
弥生時代後半になると部族は宗族長など支配者層の母系の親族集団になり、部族は王を擁立するための政治的集団になっていくようです。王の擁立を巡って対立するようになりますが、その部族の集まりを部族連盟と呼び、その国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと考えます。
高句麗も部族連盟国家で、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主でしたが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていきました。部族国家は部族が国を形成したものですが、部族連盟国家はその部族国家が統合されて、さらに規模の大きな国を形成している状態だと考えるのがよいと思っています。
倭人伝には戸数千~三千の小国と二万~七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていました。この小国が部族国家であり、女王国が部族連盟国家だと考えるのがよいようです。邪馬台国・奴国・投馬国などの大国は、部族国家が統合されたもので部族国家と部族連盟国家の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
部族連盟国家は王が支配しますが、王は冊封体制によって支配領域を六百里四方の稍に制限されていたので、部族連盟国家も六百里四方以下に限定されました。しかし部族は王を擁立するが王そのものでもなく、また国そのものでもないので冊封体制の制限を受けません。
部族が幾つの稍を支配してもよいし、何人の王を擁立してもよいのです。このことから弥生時代後半には複数の稍に同族が分布していて、複数の部族連盟国家の王を擁立することのできる巨大な部族が現れてきます。
高句麗には5大部族が存在していましたが、倭には4大部族が存在していました。北部九州から中国、四国地方にかけて、銅矛、銅戈を配布した部族があり、東海から中国・四国地方にかけて銅鐸を配布した部族がありました。中国、四国地方には銅剣を配布した部族もありました。
2世紀の北部九州では銅戈を配布した部族が優勢で、面土国王の帥升を部族連盟国家(筑紫)の盟主に擁立しますが、3世紀には銅矛を配布した部族が優勢になります。倭国大乱で盟主の座は卑弥呼に移りますが、このことが銅戈を配布した部族の衰退する原因になっているようです。
弥生後期後半に製作された広形銅矛が増加しているのに対し、広形銅戈が3本ほどと激減しているのはこのことを示しています。面土国王は遠賀川流域の「自女王国以北」の諸国を「刺史」の如くに支配するようになりますが、小数ながら広形銅戈が存在しているのを見ると、銅戈を配布した部族が消滅したのではないようです。
2010年8月4日水曜日
部族 その3
門戸の集合体が宗族ですが、宗族は父系で血縁関係をたどることのできる範囲内の人々の集団です。それは氏族に似ていますが、根本的な違いは宗族の血縁関係が明確であるのに対し、氏族は不明確だということです。
そのために宗族には明確な始祖がありますが、氏族には明確な始祖はなく、神話・伝説上の始祖がいます。前回に述べた罪を犯して消滅した宗族を吸収した場合や、あるいは集落が複数の宗族の構成員で形成されているなど、始祖や血縁関係が明確でない時に神話・伝説上の始祖を持つ氏族が生れます。
日本の古代氏族については、大和朝廷の支配機構と見る考え方と、血縁集団と見る考え方があり、支配機構と見る考え方は昭和初期に津田左右吉が初めて提唱し、その後の研究に大きな影響を与えました。津田左右吉の考え方によれば大和朝廷成立以前の日本には氏族は存在しないことになります。
中国の5大姓の一つ、劉氏の現代の人口は6千580万人という巨大なものですが、中国の氏族には「同姓不婚」の不文律があります。氏族にしても宗族にしても父系の血縁集団ですから同族間の通婚は許されず、他の宗族と通婚します。徒歩以外に交通手段の無かった時代ですから通婚圏は限定されます。
宗族間の通婚が重なるうちに通婚圏が形成されますが、部族の原形は宗族の通婚圏であり、それは縄文時代にも存在していたでしょう。この部族を形成する通婚圏が弥生時代中期に「国」になると考えています。それは律令制の郡の原形でもあるようです。
後期後半の女王国は30ヶ国で構成されていました。投稿の『再考、国名のみの21ヶ国』で述べましたが、筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側の10郡ほどを邪馬台国と考え、奴国は東側の3郡と考えています。投馬国は筑後の10郡だと考えます。残りの27ヶ国は律令制の豊前・豊後・肥前の佐賀県部分の郡と一致するようです。
紀元前1世紀に倭人の百余国が遣使していますが、この百余国の個々が後に律令制の郡になると考えられます。この時点では筑前西半の10郡ほどが統合された邪馬台国や、筑後の10郡が統合された投馬国などの大国は存在していなかったでしょう。
こうした大きな国が出現するようになるのは百余国の遣使以後のことで、冊封体制では支配する国が大きいほど高位の爵号を授けられることを知ったことが原因になっているようです。支配する国が大きいということは支配する宗族も多いと言うことですが、弥生時代後半には部族は急速に巨大になっていくようです。倭人伝に次の文があります。
其の国の俗は、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人は不淫、不妬忌
有力者は皆、4・5人の妻を持ち、さほど有力でない者でも2・3人の妻を持つ者がいるというのです。この多妻については大人階層に女性の労働力が必要だったからだという説や、戦争で男性が死んだために男性が少ないからだという説があります。
妻が多いことは通婚によって同族関係の生じた宗族が多いということで、それだけ権力が強くなるということです。多妻によって部族の規模が大きくなっていき、時代が下るにつれて文化的集団であったものが政治的な集団に変わるようです。
部族が政治的な集団に変わったことにより宗族の形態も変化し、より政治性が強く始祖の不明確な氏族に替わっていくのではないかと思われます。多妻は支配者階層の義務であり、多妻を理由にした女性の浮気・嫉妬はタブーになっていたのでしょう。
部族は弥生時代後半には宗族長層の通婚によって結合する、言ってみれば支配者層の母系の親族集団になるようです。宗族の始祖と部族の間には父系の血縁関係はありませんが、宗族は父系の血縁集団ですから部族も父系の結合体である必要がありました。
中国の氏族には三皇・五帝のような神話・伝説上の始祖がありますが、部族も神話・伝説上の部族の父系始祖を持つようになります。こうして部族と宗族とが父系で結びついていると考えられるようになっていきます。
そして部族は通婚関係の生じた宗族に青銅祭器を配布するようになります。青銅祭器は創作された部族の始祖の依り代(神体)であると同時に、配布を受ける側の宗族にとっては宗族の始祖の依り代でもありました。宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ないました。
倭人も神話上の始祖を持つようになります。最初からそう呼ばれていたのではないでしょうが、銅矛を配布した部族の始祖はイザナギになります。銅戈を配布した部族の始祖はスサノヲであり、銅鐸を配布した部族の始祖はオオクニヌシです。
銅剣を配布した部族の始祖は女神のイザナミですが、始祖は男性でなければならないので、ヤマタノオロチの神話でスサノヲとされるようになります。銅戈を配布した部族の始祖のスサノヲが高天が原で活動するのに対し、銅剣を配布した部族の始祖のスサノヲは出雲で活動することになっています。
そのために宗族には明確な始祖がありますが、氏族には明確な始祖はなく、神話・伝説上の始祖がいます。前回に述べた罪を犯して消滅した宗族を吸収した場合や、あるいは集落が複数の宗族の構成員で形成されているなど、始祖や血縁関係が明確でない時に神話・伝説上の始祖を持つ氏族が生れます。
日本の古代氏族については、大和朝廷の支配機構と見る考え方と、血縁集団と見る考え方があり、支配機構と見る考え方は昭和初期に津田左右吉が初めて提唱し、その後の研究に大きな影響を与えました。津田左右吉の考え方によれば大和朝廷成立以前の日本には氏族は存在しないことになります。
中国の5大姓の一つ、劉氏の現代の人口は6千580万人という巨大なものですが、中国の氏族には「同姓不婚」の不文律があります。氏族にしても宗族にしても父系の血縁集団ですから同族間の通婚は許されず、他の宗族と通婚します。徒歩以外に交通手段の無かった時代ですから通婚圏は限定されます。
宗族間の通婚が重なるうちに通婚圏が形成されますが、部族の原形は宗族の通婚圏であり、それは縄文時代にも存在していたでしょう。この部族を形成する通婚圏が弥生時代中期に「国」になると考えています。それは律令制の郡の原形でもあるようです。
後期後半の女王国は30ヶ国で構成されていました。投稿の『再考、国名のみの21ヶ国』で述べましたが、筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側の10郡ほどを邪馬台国と考え、奴国は東側の3郡と考えています。投馬国は筑後の10郡だと考えます。残りの27ヶ国は律令制の豊前・豊後・肥前の佐賀県部分の郡と一致するようです。
紀元前1世紀に倭人の百余国が遣使していますが、この百余国の個々が後に律令制の郡になると考えられます。この時点では筑前西半の10郡ほどが統合された邪馬台国や、筑後の10郡が統合された投馬国などの大国は存在していなかったでしょう。
こうした大きな国が出現するようになるのは百余国の遣使以後のことで、冊封体制では支配する国が大きいほど高位の爵号を授けられることを知ったことが原因になっているようです。支配する国が大きいということは支配する宗族も多いと言うことですが、弥生時代後半には部族は急速に巨大になっていくようです。倭人伝に次の文があります。
其の国の俗は、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人は不淫、不妬忌
有力者は皆、4・5人の妻を持ち、さほど有力でない者でも2・3人の妻を持つ者がいるというのです。この多妻については大人階層に女性の労働力が必要だったからだという説や、戦争で男性が死んだために男性が少ないからだという説があります。
妻が多いことは通婚によって同族関係の生じた宗族が多いということで、それだけ権力が強くなるということです。多妻によって部族の規模が大きくなっていき、時代が下るにつれて文化的集団であったものが政治的な集団に変わるようです。
部族が政治的な集団に変わったことにより宗族の形態も変化し、より政治性が強く始祖の不明確な氏族に替わっていくのではないかと思われます。多妻は支配者階層の義務であり、多妻を理由にした女性の浮気・嫉妬はタブーになっていたのでしょう。
部族は弥生時代後半には宗族長層の通婚によって結合する、言ってみれば支配者層の母系の親族集団になるようです。宗族の始祖と部族の間には父系の血縁関係はありませんが、宗族は父系の血縁集団ですから部族も父系の結合体である必要がありました。
中国の氏族には三皇・五帝のような神話・伝説上の始祖がありますが、部族も神話・伝説上の部族の父系始祖を持つようになります。こうして部族と宗族とが父系で結びついていると考えられるようになっていきます。
そして部族は通婚関係の生じた宗族に青銅祭器を配布するようになります。青銅祭器は創作された部族の始祖の依り代(神体)であると同時に、配布を受ける側の宗族にとっては宗族の始祖の依り代でもありました。宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ないました。
倭人も神話上の始祖を持つようになります。最初からそう呼ばれていたのではないでしょうが、銅矛を配布した部族の始祖はイザナギになります。銅戈を配布した部族の始祖はスサノヲであり、銅鐸を配布した部族の始祖はオオクニヌシです。
銅剣を配布した部族の始祖は女神のイザナミですが、始祖は男性でなければならないので、ヤマタノオロチの神話でスサノヲとされるようになります。銅戈を配布した部族の始祖のスサノヲが高天が原で活動するのに対し、銅剣を配布した部族の始祖のスサノヲは出雲で活動することになっています。
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