2010年7月29日木曜日

部族 その2

元来の部族は宗族が通婚することによって形成された地縁・血縁的な統一体だと思われますが、三世紀中ごろには中国の妻子・門戸、宗族に相当するものが存在していました。妻子は一つの家屋に住む男の妻とその子供を表していると考えられ、中国ではこれを房と言っています。

房の集まりが家ですが、中国では父母とその子、および既婚の息子とその妻子が集まってできた集団を家と言っており、日本の長男以外が別の家を構えるのと違い、家族の範囲が広いようです。このことを思わせる文が倭人伝に見えます。

「屋室有るも父母・兄弟は臥息処を異にす」

父母と兄弟は寝る場所を別にするというのですが、竪穴式住居だと父母と兄弟は別の竪穴で寝起きしていたことになります。中期の福岡市比恵遺跡では30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居のうち、4基が同時に存在していた可能性があるということです。

図は鏡山猛氏の『北九州の古代遺跡』からお借りしたものです。私の素人考えですが、この場合1号竪穴が父母の住居であり、2.4・5号竪穴が既婚の息子とその妻子の住居ということになりそうです。

3号竪穴は父母が最初に建てたものだが、子供が生れて手狭になったので1号竪穴に建て替えられ、1号竪穴にはその後も父母が住んでいたと考えることができそうです。

倭人伝に見える妻子とは一基の竪穴に住む男の妻子と言う意味でしょう。そうした竪穴住居が3~4基集まって「家」を形成していたと考えられます。それは「父母・兄弟は臥息処を異にす」とあるように、親子・兄弟の関係にあったと考えられます。

鳥取県妻木晩田遺跡は総面積170ヘクタールの微高地上の遺跡ですが、今までに1千基に近い建物が発見されています。最盛期の後期には1600~5000平方メートルほどの比較的に平坦な場所に、竪穴住居3~4基と掘建柱建物2~3基で小集落が形成されていることが観察されています。

これを居住単位と呼んでいますが、妻木晩田遺跡では25ほどの居住単位が確認されています。比恵遺跡は妻木晩田遺跡と違い水田地帯の遺跡ですが、溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居も居住単位なのでしょう。

倭人伝には記述がありませんが、妻子と門戸の間に中国の家に相当するものがあり、これが居住単位であることが考えられます。竪穴住居1基に5人が住んでいたとすると居住単位には15~20人が居たことになります。

比恵遺跡には30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域が四ヶ所あり、一つの集落を形成していましたが、単純計算では全体で60~80人が住んでいたと考えることができそうです。妻木晩田遺跡の妻木山地区と呼ばれている区域の居住単位群でも70~80人という数が考えられています。

倭人伝を見ると対馬国は千余戸、末盧国は四千余戸とされているのに対し一大国は三千家、不弥国は千余家とされていますが、この戸と家はどう違うのでしょうか。戸は住居数であり、家は居住単位(家)数ではないでしょうか。
 
倭人伝に見える門戸は、居住単位(家)が結びついた親族集団で、比恵遺跡は比較的に短期間に営まれた門戸の集落のようです。歴史の古い大きな門戸の場合には、いわゆる分村が起きますが、考古学では中心になる大きな集落を母村(母集落)と呼び、小さな集落を子村(子集落)と呼んでいます。

この母村(母集落)と子村(子集落)の関係が、宗族と門戸の関係・形態を表していると考えられます。子村から孫村が派生し、歴史の古い宗族は規模が次第に大きくなっていくのでしょう。この呼称は母系が想定されていますが宗族は父系の始祖が同じであることにより結合したものです。

倭人伝にも見えるように逆に門戸が滅ぼされ宗族が消滅することもありましたが、消滅した門戸・宗族はどうなるのでしょうか。後世の物部氏などの例から見て再興されることもあったが、多くは他の宗族に隷属したのではないかと思っています。

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