2012年2月26日日曜日

倭面土国を考える その8

伊都国・末盧国のあたりで倭人伝の地理記事に変化が起きていますが、これは末盧国までが「従郡至倭」の行程で、伊都国以後は「自女王国以北」になるということで、その間の地理記事上の断絶部分に面土国があると考えることが可能になってきます。このことが考慮されないと面土国は存在しないことになります。

西嶋氏は面土国を解明する方法として音韻学と文献学を挙げています。他に考古学や民俗学もありますが、地政学が軽視されているように感じています。地政学は地理的な環境が軍事・政治・経済などに与える影響を考察する学問です。

倭人伝の地理記事についても地政学が応用できますが、図は私の考えている地政学的な意味での各国の位置です。右に国名とその理由を記しています。

  国名     音       意味        位置

①斯馬   しま    島             志麻郡
②面土   みなと  港・水門        宗像郡
③伊都   いと    稜威(いつ)? 田河郡
④奴    の     野                     鞍手郡
⑤不弥       うみ      海         遠賀郡
⑥邪馬台  やまと     山戸・山門    上座郡
⑦投馬      つま    水沼        妻郡
⑧邪馬       やま    山       日田郡
 
土地勘のある人ならこの図から、地勢が国名になっていることが分ると思います。しかし③の伊都国については地勢が国名になっているようには思えません。そこで伊都は稜威(いつ)ではないかと考えてみました。

稜威は厳と同義で、 ①斎み清められていること、神聖なこと ②勢いの激しいこと、威力の強烈なこと といった意味があり、天孫降臨の神話に「稜威(いつ)の道別き(ちわき)道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります」という用例があり、出雲の語源を「稜威藻」とする考え方もあります。

伊都国は田河郡だと考えていますが、田河郡は九州東北部の内陸交通の要所で南の英彦山方面、北の響灘方面、西の博多方面、東の周防灘方面、そして東北の関門海峡方面と、道路が五方に分岐しています。

そこで伊都国には一大率が置かれ、これを「常治」していました。伊都とは一大率が諸国を検察し諸国がこれを畏憚(恐れ憚る)していることを表す国名だと考えるのです。こじつけのようにも思えますが出雲=稜威藻の例もあります。

図では那珂郡を中心にした福岡平野にを付けています。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半の10郡ほどが戸数7万の邪馬台国だと考えますが、福岡平野がその中心であり、福岡平野に邪馬台という名の部族国家があってもよさそうなものです。

しかし部族国家としての邪馬台国は⑥の上座郡(朝倉郡)のようで、朝倉郡には斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」の伝承があります。の部族国家としての国名が判明すればこのことが明らかになってくると考えますが、残念ながらそれは望めそうもありません。

私はの福岡平野が神話の「竺紫の日向の小門の橘の阿波伎原」だと考えています。竺紫は筑紫のことであり、日向は太陽に向かった所という意味で、小門は小さな水門、もしくは瀬戸と考えられており、阿波伎原は平野を表しているとされています。

当時の三笠川・那珂川下流域は大きく湾入していたと考えられており、私は福岡平野と二日市地峡の境の須玖岡本遺跡付近が「小門の橘の阿波伎原」だと考え、の部族国家としての国名も同様の意味を持ったものだったと推察しています。

部族国家としての邪馬台国は⑥の朝倉郡のようですが、これは筑後川下流部の筑後三瀦郡が⑦の投馬国であり、上流部の豊後日田郡が⑧の邪馬国であることによる国名のようです。邪馬台とは山戸・山門・山止・山登・山処の文字で表すことのできる、平野と山間地との境という意味の国名だと考えます。

私は倭面土国を「倭の面土国」と読む説に従い、それは筑前宗像郡だと考えています。山尾幸久氏は面土をmian-tagと読んでおられますが、その音はミナトであり、港・湊・水門の文字で表される海と陸の境の国という意味になります。地政学の面から言っても、またその歴史から言っても宗像郡はまさに「港の国」そのものです。

2012年2月19日日曜日

倭面土国を考える その7

私が宗像郡を面土国だと考えるようになったのは、作家の高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになりました。小説は探偵神津恭介が東松浦半島(末盧国)から糸島(伊都国)への陸行に不審を抱いたことに始まります。

東松浦半島から糸島へ行くのならそのまま船で行けばよいのであって、唐津湾に張り付いたような唐津と前原の間の陸路を、銅鏡百枚などの重い荷物を担いで陸行する必要はないというのです。

また一大国(壱岐)から末盧国までの距離は千里ですが、末盧国の記事に方位と官名の記載がないのも不思議です。

通説は矛盾だらけで、末盧国と伊都国の間、伊都国と奴国の間の方位・距離も倭人伝の記述と合いません。私は帯方郡使が宗像に上陸したという高木氏の考えに強い関心を持ちました。

これは後に気づいたことですが、纒向遺跡・吉野ヶ里遺跡などのような有名遺跡を卑弥呼の王都とする説がありますが、「稍」の考え方では方位・距離の起点は王城だが、終点は国境、大きな河川、海岸線などの「境界」であって、相手国の国都や王城ではありません。

末盧国の記事に方位や官名がないのは末盧国の海岸が「従群至倭」の行程の終点だからで、倭人伝にとっては方位や官名は問題ではなく、一支国から千里のところが末盧国の境界であればよかったのです。

これは末盧国の境界までが「従郡至倭」の行程の国であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国であって、倭人伝の文脈上では「従郡至倭」と「自女王国以北」とは連続しておらず、その接点に面土国が位置していることを示しています。

宗像郡の東南の田川市周辺に位登、伊田、糸田、伊方、糸飛、猪国など伊都によく似た地名が集中しており、田川市周辺が伊都国であることが考えられました。とすれば東南百里の奴国は鞍手郡になり、東百里の不弥国は遠賀郡になります。

高木氏の『邪馬台国の秘密』では末盧国から邪馬台国までの九ヶ国は直線行程とされ、邪馬台国は宇佐だとされていますが、私は放射行程を考えたのです。

前回の投稿では榎一雄氏の伊都国を起点とする放射行程と、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする説に対し、面土国を起点とするのがよいと述べましたが、結果的に見ると私の考えは、両氏の説と高木氏の考えを折衷していることになります。

高木氏は帯方郡使の上陸地を宗像郡の神湊としていますが、「浜山海居。草木茂盛。行不見前人。好捕魚鰒。水無深浅。皆沈没取之」という末盧国のイメージと神湊の光景とが一致せず、私には宗像郡が末盧国だとは思えませんでした。

そこで考えたのが末盧国の記述は東松浦半島の呼子付近の光景とみてよいが、面土国には帯方郡使の上陸した港があったので「港の国」と呼ばれていたのではないかということです。その「港の国」が宗像郡ではなかと考えたのです。

確かに通説で伊都国とされている糸島郡は朝鮮半島に近く、その影響を受けた弥生時代の遺跡・遺物も多く、ことに平原遺跡は卑弥呼の時代に近いことは事実ですが、四世紀以降の宗像には沖ノ島祭祀遺跡が現れてきます。

また倭人伝は伊都国について「郡使往来常所駐」と記していますが、田川郡香春・鏡山を中心として渡来人の伝承があり、遺跡・遺物ではなく伝承の点では伊都国は糸島郡とするよりも田川郡とするほうが理に適っています。

こうして宗像郡が面土国であり宗像氏のはるかな遠祖が帥升であり、神話のスサノオだという考えが生まれてきました。そして今回は西嶋氏の考えを、面土国を伊都国のこととする白鳥庫吉の説に基づいた主観論だとしてきました。

帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されているという事実からすれば、面土国は存在するという私の考えも主観論だということになりますが、面土国は筑前宗像郡だということを前提にすると通説では考えられないことが現れてきます。

2012年2月12日日曜日

倭面土国を考える その6

西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいたものだと言えそうですが、ここで放射行程説を考えてみる必要がありそうです。

『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとし、大和が邪馬台国だと思わせようとしていますが、これは直線行程になります。おそらく西嶋氏は邪馬台国=九州説であり放射行程説を採っておられると思います。

放射行程については榎一雄氏の伊都国を起点とする説が知られていますが、伊都国は女王国内でも特殊な国であることが考えられ、末盧国までは方位・距離・国名の順になっているのに対し、伊都国以後は方位・国名・距離の順になっているというものです。

これに対し高橋善太郎氏は榎氏の説について、伊都国の特殊性に着目したに過ぎないと批評し末盧国を起点とする説を提唱しています。(『愛知大学文学部論集』、昭和43年、44年)高橋氏の説は合理性があり適切だと考えています。


高橋氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には「又」「次」「乃」など行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用するなど、何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。

高橋氏の指摘のように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表しているし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴て」「海岸に環い」「乍南し、乍南し」の文が見られます。

対海国の文には「始めて一海を度る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも又一海を渡る」とありますが、伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。 

高橋氏はこれを「末盧からの四至になるとさえも考えられる」としていますが、四至とは放射行程のことです。いずれにしても伊都国・末盧国のあたりで地理記事に変化が起きていることは確かです。

帯方郡から末盧国(佐賀県東松浦半島)までは一万里だとされ、残りの2千里が末盧国から邪馬台国までの距離だとされていますが、通説では狗邪韓国は金海・釜山とされ、その距離が七千余里だとされています。しかし狗弥韓国の七千余里は辰韓と馬韓の国境までの距離のようです。

対馬国(対馬南島)の寄港地も厳原ではなく浅茅湾のようです。そうであれば万二千里の終点は末盧国の海岸になり、「従郡至倭」の行程も末盧国で終わことになります。(2011年11月投稿「再考 従郡至倭の行程」)

高橋氏が末盧国と伊都国の間で地理記事に変化が生じているとするのは、末盧国までが「従郡至倭」の行程であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国になることによります。図の左が私の考える放射行程ですが、末盧国と伊都国の中間に面土国があり、面土国が放射の起点になっていると考えています。

末盧国=東松浦半島、伊都国=糸島市付近とする限り、地理的な現実の問題として末盧国・伊都国を起点とする放射行程は成立しません。西嶋氏が帥升を伊都国王とすることについて「文献的に確認された事実ではない」とされている遠因に、こうした点もあると推察しています。

2012年2月5日日曜日

倭面土国を考える その5

面土国の存在を否定される西嶋定生氏の考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいた主観論であり、客観的に言えば「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。

白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠る前後の状況と、卑弥呼の死の前後の状況が似ていることから、天照大神を卑弥呼・台与とし、その原因になったスサノオは狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。

倭国大乱は狗奴国との争だということですが、とすれば大乱以前の70~80年間の男王は狗奴国王ということになります。西嶋氏も『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)で同じ考えであることを述べています。

私は狗奴国王を『古事記』の大気都比売、『日本書記』の保食神と考え、スサノオは面土国王だと考えていますが、スサノオを狗奴国王としたために、「倭面土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしなければならなかったようです。

女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

私は通説とは違って、伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があってその国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいる仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというように解釈しています。

この文についての通説では一大率が諸国を検察し、また港で文書や献納物を捜露している有様があたかも中国の州刺史の如くだとされていますが、2011年5月投稿の「関八州取締出役」で、このように解釈したのも白鳥庫吉ではないかという推察を述べました。

幕末の関八州取締出役には直接ではないが横浜の外国船を取締りの対称にするものがあったようで、白鳥庫吉は一大率を横浜の外国船を取り締まるために配置された関八州取締出役のようなものだと考え、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だと考えたようです。

何度も言及してきましたが、文中の「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき用いられるとしています。

通説の解釈は3の、場合や事柄を表すとき「に関して」「について」「にあって」という意味のようで、「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が諸国を検察し、また津(港)では文書や献納物を捜露している有様が、中国の刺史の如くだと解釈されています。

この場合、一大率は常に伊都国にいるというのですから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます

この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということですが、魏・晋朝の州刺史は最高位の地方行政官であって、関八州取締出役のように諸国を検察したり、外国から来た船を捜露する役人ではありません。通説は大変な誤解で、この誤解から面土国の存在を否定する考えが生じたように思われます。

伊都国は筑前糸島郡ではなく田川郡であり、面土国は宗像郡のようです。「自女王国以北」は遠賀川流域だと考えますが、その「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者こそ、帥升の140年後の子孫の面土国王であり、これが神話のスサノオなのです。

倭人伝に面土国の名が見えないことが問題ですが、狗奴国は「自女王国以北」の国ではありません。大乱以前の男王を狗奴国の男王と見れば面土国の存在は否定され、逆に面土国の存在を肯定すれば大乱以前の70~80年間の男王は面土国王であってもよいことになります。どちらを選択するかで結果は大きく変ってきます。

2012年1月29日日曜日

倭面土国を考える その4

西嶋定生氏の「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し」という考えを継承されているのが寺沢薫氏で、『王権誕生』(講談社、2000年12月)で次のように述べられています。

だが、王仲殊氏(もと中国社会科学院考古学研究所長)や中国古代史の西嶋定生氏は、『後漢書』より約五十年前に編纂された『後漢紀』に「倭国」とあることや、『魏志』、『魏略』などの検討から、『後漢書』にはもともと「倭国」もしくは「倭国王」と書かれ、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」こそ実在しない国名であることを主張している。私もこの説をとる。

寺沢氏は大和の纒向遺跡を卑弥呼の王都とする畿内説を主張されていますが、大乱が起きる以前の倭国を「イト(伊都)倭国」と呼び、それは伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体で、伊都国王の統治は大和には及んでいなかったとされているようです。

広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏がそれに対峙していたとされ、「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、卑弥呼の共立でヤマト(大和)に権力の中枢を置く、新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでおられます。

この時に銅矛と銅鐸分布圏が統一されて、九州から近畿・東海にかけて統一国家が誕生したと考えられているようです。この考えは畿内説に共通すると言えますが、これだと神武天皇や「欠史八代」の天皇を認める必要がありません。

寺沢氏の言われる北部九州を中心とする「イト倭国」、及び大和を中心とする新生倭国(ヤマト王権)と、西嶋氏の言われる伊都国を中心とする「第一次の倭国」及び卑弥呼を中心とする「第二次の倭国」は一見すると同じもののように思えます。しかしそれは「似て非なるもの」のようです。

西嶋氏は邪馬台国の位置を九州とも大和とも断定されていないと思いますが、その念頭には「倭面土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の考えがあったと思います。そのために伊都国や邪馬台国は九州にあったが、「倭面土国」は大和朝廷によって統一された日本ということになったと思われます。

一方の寺沢氏の考えは内藤湖南の邪馬台国は大和にあったとする説、あるいは、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする説に従ったものだと思われます。面土国の存在は邪馬台国の位置論に直結しており、これが別問題とされているために、邪馬台国の位置論がさらに複雑になっているようです。

両氏は『後漢紀』『魏志』『魏略』などの検討からは、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」は実在しないことになるとされていますが、帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく、日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されており、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする根拠も見出すことができません。

面土国は存在しないという見解は畿内説にも九州説にも応用できますが、倭人伝の地理記事は説明不足で畿内説が正しいとも九州説が正しいとも断定できません。結果論になりますが、面土国は存在しないとする白鳥庫吉・内藤湖南の説を前提にした主観が述べられていることになりそうです。

寺沢氏は広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏が「新生倭国」の中枢とされ、卑弥呼の登場を銅矛・銅鐸の分布圏が対峙していたと説明とされています。

寺沢氏は大和の纒向遺跡を王都とする卑弥呼の時代に古墳時代が始まるとされていますが、私は卑弥呼の王都は銅矛分布圏の九州にあったが、卑弥呼の死後に九州勢力の東への移動(神武東遷)があったと考えるのがよいと思っています。(2009年7月投稿「部族と青銅祭器」)

面土国が存在したことを前提にすると、西嶋氏の言われるように「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。卑弥呼を王に共立した一方の当事者が大乱以前の男王の面土国王だと考えるのが穏当であり、またそう考えるのが自然です。

2012年1月22日日曜日

倭面土国を考える その3

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』では「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるとされていますが、『倭国の出現』ではその存在を否定されています。

西嶋氏と王仲殊氏の「其国」についての見解の相違は、其国・倭国・女王国・邪馬台国の詳細が不明なためで、西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとする白鳥庫吉の説に依拠した主観論のように思われます。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことでもあるとしますが、邪馬台国は「女王乃所都」とあるだけで、卑弥呼が邪馬台国の王だという根拠はありません。戸数7万の邪馬台国を構成している小国のな  かの一国で、卑弥呼が国都を置いている国に過ぎないようです。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことであり女王国のことだし、西嶋氏は倭国のことだとしていますが、女王国は女王が支配している国という意味ですから、女王国と「其国」は同じものだと考えるのがよいでしょう。では倭国はどの範囲をいうのでしょうか。

倭人伝に「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあります。これは女王国に居るのは倭人だが、海を渡った所にいるのも同じ倭人だということで、この場合の倭国は女王国ということになり、「其国」は女王国でもあり倭国でもあることになります。

『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で西嶋氏は、倭人伝に「倭女王」が3度出てくるが、いずれも卑弥呼・台与に関係するものだと述べていますが、この場合の倭も女王国と考えてよいでしょう。倭国と女王国とは同じものなのです。

西嶋氏は「其国」を倭国のことだとされていますが、「倭面土国」を「ヤマト国」と読んで、大和朝廷支配下の日本(倭国)のことだと考えられているようです。大和朝廷成立以前の日本(倭国)には2世紀に帥升という王がいて、それは伊都国王だとされているようです。

「其国」が3世紀の女王国のことであれば、倭面土国王の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになります。西嶋氏が「其国」を問題視されるのは「其国」を大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととするためのようで、これは「換骨奪胎」というべきでしょう。

「倭面土国」をヤマト国と読んで大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととすれば、面土国の存在を否定することができ、「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し・・・」とすることが可能になってきます。

そうは言っても「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるのも事実で、それが『倭国の出現』の「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」という記述になっているでしょう。

西嶋氏は東京大学教授を勤められ白鳥庫吉の説を継承する立場にありますが、おそらく伊都国は糸島市の周辺であり、伊都国以後は放射行程だとされていると思います。しかし伊都国は糸島市周辺ではないので、帥升を伊都国王としても矛盾が生じます。

そこで伊都国を中心とする第一次の倭国は「倭国の乱」で崩壊したとして、面土国の存在を否定し「倭面土国」は「倭国」と表記されるようになるとされているのでしょう。10世紀前半に成立した『旧唐書』倭国・日本伝に「日本国は倭国の別種である」とあります。

日本国の中心は大和だが、その過去には大和を中心とする日本国とは別の、九州を中心とする倭国があったと記されていると考えるのがよさそうです。私は面土国が2世紀どころか3世紀にも存在しており、それは筑前宗像郡だと考えています。

卑弥呼は共立されて王になりますが、卑弥呼を共立した一方の当事者が面土国王であり、卑弥呼を共立した後の面土国王は「自女王国以北」の諸国を、あたかも中国の「州刺史」の如くに支配するようになると考えています。

私の考えも面土国が存在したことを前提とする主観論だと言えなくはありませんが、主観を主張するだけでは論争にはなるけれど結論は出てきません。必要なことは傍証を詰めていくことではないかと思っています。

2012年1月15日日曜日

倭面土国を考える その2

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』で「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるが、なお疑問が残る国名だと述べられて、面土国が存在する可能性のあることを示唆されています。

しかし『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)(「倭面土国論」の問題点)では面土国の存在を否定されています。その論拠として「倭面土国」の表記が見られる『通典』は801年までに、また『翰苑』は660年以前に編纂されたことを問題にしたいようです。

そのころ遣唐使・遣隋使の派遣などがあって、対外的な国号を倭国から日本国に変え、大王を天皇と称するようになりますが、西嶋氏は7世紀前半の唐代初期が倭国から日本国への国号の転換期で、国名が動揺した時期だとされています。

それまでは「日本国」と言うことはなく「ヤマト国」と言ったが、そのヤマト国を「倭面土国」と漢字表記したというのでしょう。『通典』『翰苑』が書写されているうちに誤写されて、帥升は「倭面土国王」とされるようになったのであり、面土国という国は存在せず帥升は伊都国王だということのようです。

これを結果的にみると倭と面土を一体のものとする内藤湖南の読み方を肯定し、倭と面土を分離する白鳥庫吉の読み方を否定するけれども、白鳥庫吉の面土国=伊都国説は肯定するということになります。

ここで西嶋氏が<「其国」とは「倭国」のことである>とされていることに触れてみます。『倭国の出現』で次のように述べられていますが、倭人伝の「其国本亦男子為王。住七八十年。倭国乱。乃共立一女子為王」の記事が問題にされています。

さて、王仲殊氏は上文冒頭の「其国」をどのように理解されているのであろうか。王仲殊氏は「其国」とは「倭国」のことであるとする私の見解を批判し、上掲魏志倭人伝の一文について、
「其国」は代名詞で、「倭国」は名詞である。代名詞は名詞の後に使われるものであり、名詞の前に使われることはない。したがって文頭の「其国」は「倭国」ではなく邪馬台国を指す。卑弥呼が王となって以後は、邪馬台国を「女王国」と呼んでおり、魏志東夷伝本文前段部において「女王国」という名詞が多く散見されるので、「其国」は代名詞として「女王国」を指すと考えられる。したがって、「其国本亦以男子為王」とは、女王国が元々男子をもって王としていたことを説明している。
と述べて、「其国」とは邪馬台国すなわち女王国のことである、と論断されている。

西嶋氏が「其国」を倭国のことだとしているのに対し、王仲殊氏は「其国」を代名詞とし邪馬台国・女王国を名詞として、代名詞が名詞の前に使われることはないということを問題にしているようです。しかし倭人伝の記述を見ると、倭国・女王国・邪馬台国の実態はほとんど分らず、私には「其国」が代名詞であることにさして意味があるように思えません。

白鳥庫吉は伊都国を起点とする放射行程説に従って伊都国は糸島市周辺だとしています。西嶋氏の考えも同じであろうと思いますが、西嶋氏の考えとそれに対する王仲殊氏の反論は白鳥説を正しいとする主観に基づく論戦に過ぎないように思われます

「其国」は糸島市周辺を中心とする九州であり、それが倭国だという主観になっているようです。しかし伊都国=糸島市付近が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために創作されたものであれば、この伊都国=糸島市付近説を前提とする主観は崩壊します。

倭人伝に面土国の名は見えず、記述からもその存在を認めることは殆ど不可能です。私はその存在を思わせる記述が所々に見られると考えていますが、そこで西嶋氏は『倭国の出現』で面土国の存在を否定して次のように述べられています。

この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。

「倭面土国」とは国号が日本国に変る以前の倭国のことであり、面土国という国は存在しないということのようですが、「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」とされているのは、「倭回土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の説を正しいとする主観論であることの現われであるように思います。

2012年1月8日日曜日

倭面土国を考える その1

『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしており、そこから伊都国=糸島市付近、奴国=福岡平野という通説が生れましたが、狗邪韓国を金海・釜山とするのも同様で、狗邪韓国は馬韓と辰韓の境界付近のようです。では『古事記』『日本書記』はどこを邪馬台国と思わせたいのでしょうか。

いうまでもなく畿内大和になりますが、『古事記』『日本書記』は邪馬台国だけでなく、107年に遣使した「倭面土国」もヤマト国と読ませて畿内大和のことだと思わせようとしているようです。このように考えると倭面土国王の帥升は仲衷天皇以前の天皇の中の誰かということになります。

松下見林は帥升を景行天皇だとしていますが、音が似ている点では垂仁天皇か祟神天皇になりそうです。結果的に見るとこの企てに乗ったのが京都大学教授の内藤湖南だと言えそうで、倭面土国を大和朝廷によって統一された日本だと考えています。

これに対し東京大学教授の白鳥庫吉は面は回の古字の誤りで「倭回土国」が正しいとし、これを「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしました。また慶應義塾大学教授の橋本増吉は「倭のマズラ国」と読んで末盧国のことだとしました。

内藤・白鳥の考えは現在にも大きな影響を与えていて、内藤湖南が邪馬台国=畿内説であるのに対し、白鳥庫吉は邪馬台国=九州説で、「「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と対比されていますが、先に解明されなければならないのは「倭面土国」の実態であり、それが解明されれば邪馬台国の位置論も自ずと決着すると考えています。

これは「倭面土国」と読むのか、「倭の面土国」と読むのかという問題でもありますが、この問題に取り組んだのが東京大学教授の西嶋定生氏で、西嶋氏は白鳥説を継承する立場にあります。西嶋氏は倭面土国について『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で次のように述べられています。

私はこの面土国については、今でも疑問を持っています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができないかぎり、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。

57年の奴国王の遣使と239年の卑弥呼の遣使の中間の107年に「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上奴国のほかに面土国という国があったことになるとされています。その「疑問」に関して『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)では次のように述べられています。

私はこの伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し、卑弥呼が女王になってから以後は、暦年邪馬台国を都とする第二次の倭国の女王に服属しながら、ただ名目的に王名を称していたのではないかと想定する。そして王の所在の記述のない他の諸国は、帥升を王とする倭国の出現以後、その統属ごとに、その王位を失うことになったのではあるまいか。

倭人伝の伊都国の記事に「世有王。皆統属女王国」とありますが、西嶋氏はこの王を倭国王帥升の子孫の伊都国王だと考え、57年に奴国王が遣使した時点ではまだ倭国は存在していなかったが、107年に帥升が遣使した時点で倭国が出現する想定されています。

以上に述べたところの、二世紀初頭に出現した最初の倭国は伊都国を中心とするものであり、その倭国が一八〇年前後の「倭国の乱」で崩壊して、卑弥呼をその女王とし、邪馬台国をその都とする第二次倭国になったという想定は、わずかに女王国時代になっても伊都国のみに名目的な王が残存しているという一文によって推察したものであり、文献的に確認された事実ではない。

伊都国には一人の官と2人の副(副官)が居ますが、そのために名目的な王と実質的な官という2重の支配者がいるというのです。この2重の支配は卑弥呼が女王になってからのものであり、それ以前の倭国は伊都国王が支配していたとされています。

しかしこの想定は、上述した「其国」とは「倭国」のことであるという判断と、女王卑弥呼はそれ以前の倭国王の系譜を直接に継承するものではないという判断から、想定されたものである。そしてこの想定には、「倭国」形成以後、それに包含される諸国は、いずれもその王位を喪失した、ということが前提とされていることはいうまでもない。

文中の<「其国」とは「倭国」のことである>という点は中国社会科学院考古研究所々長で、中国考古学界の重鎮、王仲殊氏の見解との相違点でもあるようですが、こうしたことから面土国は存在せず、卑弥呼以前の男王は伊都国王だとされています。

2012年1月1日日曜日

神功皇后伝承を巡って その5

『神功皇后紀』の記述するところから見て物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立には朝鮮半島の問題が絡んでいたことが考えられます。物部氏は河内を勢力基盤とする氏族ですが、その祖のニギハヤヒは天磐船に乗って天から降ってきたという伝承を持っています。

私はその天を遠賀川流域とする説に同意したいと思っていますが、九州には多くの物部氏の同族がいます。武内宿禰系氏族が朝鮮に出兵することを主張したのに対し、物部・中臣氏などの天神系氏族は九州の勢力と結んでこれに反対したのであろうと思います。

『日本書記』仲哀天皇紀八年条に岡県主の祖の熊鰐が周防の沙麼(山口県防府市)で天皇を出迎えたことや、伊覩県主の祖の五十迹手が穴門の引嶋(下関市彦島)で天皇を出迎えたことが見えます。

岡県は遠賀郡で倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。朝鮮に出兵するには関門海峡を確保することが必要ですが、岡県主・伊覩県主などの祖たちは朝鮮出兵を認めたのでしょう。

しかし大倉主・菟夫羅媛のようにこれを認めないものもおり、仲哀天皇はこれを討伐しようとし強行したので、反対する者(熊襲)の矢を受けて死んだとされているのでしょう。こうした人々が応神天皇を擁立したのだと思います。

朝廷内部でも皇統を巡る、蘇我氏などの武内宿禰系氏族と物部氏などの天神系氏族の対立が始まっており、対立を解消するためには両者に無関係で奴国王の末裔でもある応神天皇を迎える必要があり、それを主導したのが物部氏だと考えます。このあたりに「九州王国」の存在が考えられるようになった遠因があるように思われます。

皇統を巡る対立は、奴国王の末裔である応神天皇を迎えたことで一時的に解消し、「河内王朝」と言われる時代になり、天皇の権威も高まって巨大な古墳が築かれますが、氏姓制は皇統を巡る豪族間の対立を煽る構造になっています。

武烈天皇が継嗣のないまま没すると、大伴金村は丹波の国桑田郡にいた仲哀天皇5世孫倭彦を天皇に迎えようとしますが、倭彦王は姿をくらまします。そこで越前の国三国(福井県坂井郡三国)から応神天皇5世孫の彦主人王の子とされる継体天皇が迎えられます。

大伴金村や物部氏などの天神系系氏族が仲哀天皇5世孫の倭彦王を迎えようとしたのでしょうが、倭彦王は豪族間の対立に巻き込まれるのを避けたのでしょう。そこで系蘇我氏などの武内宿禰系氏族が応神天皇6世孫とされる継体天皇を迎えるのだと考えます。

『古事記』では継体天皇は「近淡国より上り坐さしめて」となっていますが、継体天皇の母の振媛の本拠地は琵琶湖西岸の高島郡です。また神功皇后は琵琶湖東岸の米原市息長を本貫とする息長氏の一族とされています。

応神天皇が即位したことで紀伊半島周辺の武内宿禰系氏族と、物部氏などの九州から来たという伝承を持つ天神系氏族に加えて、近江・越前・山城など、近畿北部・北陸の豪族が皇統を巡る対立に加わってくることが考えられます。

武内宿禰系氏族と天神系氏族という概念は私の考えたもので、これが適切かどうかは分りませんが、それが許されるなら近畿北部・北陸の豪族は諸蕃系氏族と呼ぶことができそうです。この三者を結びつけているのが神功皇后のようで、神功皇后の母は新羅の王子・天之日矛の5世孫とされています。

三韓征伐の帰途に応神天皇が誕生するのは、応神天皇から継体天皇に至る皇統に諸蕃系氏族が関係するようになることを表しているのでしょう。また神功皇后の渡海は継体天皇22年の近江毛野臣の渡海から考え出されたものでしょう。

継体天皇21年に筑紫君磐井の乱が起きますが、近江毛野臣と磐井が友人であった事実はなさそうです。近江毛野臣の渡海から神功皇后の渡海が考え出され、それは金海・釜山を狗邪韓国と思わせるためであり、斉明天皇の朝鮮半島出兵を正当化するためであることが考えられます。

2011年12月25日日曜日

神功皇后伝承を巡って その4

2011年2月投稿の「台予の後の王その4」では遠賀川流域に物部氏の故地と考えられるものがあり、遠賀川流域が奴国であることから物部氏の遠祖は奴国王ではないかと述べました。そして前回の投稿では応神天皇は奴国王の末裔ではないかとも述べました。

仲哀天皇の熊襲討伐については『日本書記』仲哀天皇紀八年条に関門海峡・洞海湾・遠賀川河口部を舞台とする、岡県主の祖の熊鰐や、伊覩県主の祖の五十迹手の物語が見えますが、岡県は遠賀郡であり倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。

前回の投稿では嘉穂郡頴田村(現飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部、糸田町)と遠賀川の水運の関係について述べましたが、遠賀川の河口部が岡県です。また遠賀川と洞海湾は水路で繋がっていたとも言われています。

熊鰐や五十迹手は仲哀天皇に対して恭順の意を表していますが、これは反面では水門(みなと、遠賀川河口部)の神である大倉主や菟夫羅媛のような、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力が存在したということでもあろうと思います。

岡津から儺県の橿日宮(福岡市香椎)に入った仲哀天皇は熊襲を討伐しようとしますが、神功皇后の降した神示は「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」というものでした。

私はこの熊襲を肥の国(肥前・肥後)の住民という意味ではなく、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力だと考えます。皇后の降した神示はこの熊襲は討伐するに足りないから、それよりも新羅を得るようにというものです。

天皇はこれを信じず熊襲討伐を強行しますが、勝つことができませんでした。天皇は神罰を受けて早死にしたとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。仲哀天皇が筑前に入ったのは朝廷の支配を受けまいとする勢力を一掃するためであって、新羅を得ることとは別問題だったと考えます。

私は律令制の宗像郡を面土国とし、鞍手・嘉麻・穂波・の3郡を奴国とし、田河郡を伊都国とするのがよいと考えますが、図の太い赤線が私の考える伊都国への「東南陸行五百里」の行程です。

赤線上の白い二重丸は吉田東吾編『大日本地名辞書』西国編などによる物部氏の故地ですが、これらは筑紫君磐井の乱以前からあったと考えられているものです。

その中に前回に述べた私が応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」だと考えている「粥田の庄」や鞍手郡香井田村、あるいは嘉穂郡頴田村に関係すると思われるものがあります。

筑紫弦田物部 鞍手郡香井田村鶴田  宮若市鶴田
狭竹物部    鞍手郡粥田郷小竹    鞍手郡小竹町小竹
二田物部    鞍手郡二田           鞍手郡小竹町新多
芹田物部    鞍手郡芹田           宮若市芹田
十市物部    鞍手郡都市           宮若市都市

前回に述べた応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」が旧嘉穂郡頴田村(飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部)であれば、倭人伝の伊都国への「東南陸行五百里」の行程と物部氏の故地、及び応神天皇の生れた場所が重なってきます。

嘉穂郡頴田村、現在の飯塚市鹿毛馬には物部氏の故地と思われるものはありませんが、私にはこれが偶然の一致のようには思えません。応神天皇が奴国王の末裔かどうかは別にしても、即位するについては物部氏が関係しているよう思われます。

欽明・敏達・用明朝に物部・中臣氏は仏教の受容を巡って蘇我氏と対立しますが、応神天皇が即位するについても物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。

武内宿禰系氏族に擁立されていた仲衷天皇は、天神系氏族を支持する筑紫(筑前・筑後)の勢力(熊襲)を平定しようとしたのでしょう。仲衷天皇が筑紫で崩御したので、物部・中臣氏などの天神系氏族は、武内宿禰系氏族にも天神系氏族にも関係がなく、奴国王の末裔でもある応神天皇を迎えようとしたことが考えられます。