2011年11月27日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その6

伊都国以後の各国を比定するには伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどの条件を満たすこと、あるいは地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないこと求められますが、倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて矛盾の生じない場所を求めるしか方法がありません。

糸島市の周辺を伊都国・奴国とし福岡平野を邪馬台国とする説があります。この説も新井白石以来の通説を改変したもので、同じ糸島郡を問題視するのなら奴国を福岡平野とし伊都国を大宰府付近とすれば、投馬国を筑後とすることができ、邪馬台国は筑後川流域とすることができて面白くなります。

図は私の考える倭国ですが、伊都国以後の諸国は「従郡至倭」の行程には含まれず「自女王国以北」の国だと考えます。そうであれば倭人伝の地理記事は末盧国までの「従郡至倭」の行程、伊都国以後の「自女王国以北」の間で分断されることになります


その分断される部分に面土国があると考えることができます。倭人伝に「刺史の如し」とあるのが面土国王だと考えていますが、図の赤丸で示した筑前宗像郡が面土国だと考えます。「自女王国以北」は遠賀川流域であり伊都国は白丸の豊前田川郡のようです。また卑弥呼の王都は青丸の筑前上座郡(朝倉市)にあったと考えます。

「王城を去ること三百里」、あるい「方六百里」を稍と言いますが、倭人伝の千里は65キロで六百里は260キロになります。以前の投稿で何度か示した稍の図は四千里=280キロとして作図していますが、これは260キロで作図すると隣接する稍との間に20キロほどの空隙が生じるためです。これは図法によるもののようで今回の図は260キロで作図していて稍が以前のものよりも小さくなっています。

稍については諸橋徹次編『大漢和辭典』第七巻1135ページ【畿】の項に説明があり、「王城の外側の三百里以内を稍という」とあり、また【稍】の項には『正字通』を引用して「三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。『大漢和辭典』は名著でどこの図書館にもありますから調べてみてください。

稍は太夫に食封として与えられる面積で、卑弥呼は外臣の王であることから大夫と同格とされ、王城から三百里(130キロ)以内を支配できたようです。狗奴国は肥後だと考えますが面土国の南二千里に位置しているようで、律令制国郡の原形がすでに存在していたようです。

筑前上座郡(朝倉市、図の青丸)を邪馬台国とすると、卑弥呼は王城から二千里以内の狗奴国の北半を支配できることになりますが、狗奴国はこれを認めていなかったようです。

女王国の東千里にある倭種の国は長と考えてよいようです。侏儒国は女王国の南四千里に位置しているとありますが、薩摩・大隅・日向が侏儒国になります。裸国・黒歯国は「東南船行一年」とありますが、これは本州の東端までの日数であり四国西部と考えるのがよさそうです。

伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は誤りです。その根源を辿ると『日本書記』神功皇后紀が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしたことに始まるようで、『日本書記』神功皇后紀は実に巧妙に構成されていています。

2011年11月20日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その5

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わりますが、それは万二千里の終点でもあって、伊都国以後の国は「従郡至倭」の行程に含まれない「自女王国以北」の国になります。その距離も万二千里には含まれず、伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は成立しません。

通説は正徳6年(1716)に新井白石が著した『古史通或問』に始まります。『古史通或問』では卑弥呼を神功皇后とし邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、筑後山門郡を邪馬台国としています。

白石が大和を邪馬台国とするについては備後の鞆の浦を投馬国としていますが、これは倭人伝の方位・距離が無視されており、方位・距離を重視すれば邪馬台国・投馬国は九州でなければならず、そこで晩年には筑後山門郡を邪馬台国とするのでしょう。当然投馬国は筑後妻郡になります。

倭人伝を学問の対象にした最初の人物が白石ですが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行っており、対馬国を対馬、一支国を壱岐とし、末盧国を松浦郡とし、伊都国を怡土郡とし、奴国を那珂郡としました。これが今日でも通説になっています。

白石は卑弥呼を神功皇后としていますが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行うについては『古事記』神功皇后記の応神天皇の誕生に関係する次の文を根底に置いているようです。白石の判断は当時の史観なら当然のようにも思えますが、今日から見ると矛盾が生じています。

筑紫国に渡りて其の御子は坐れましつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纏きたまひし石は筑紫国の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅県の玉島里に到り坐して、其の河の辺に御食したまひし時、四月の上旬に当りき。

この文から白石は福岡県糟屋郡宇美町を不弥国としました。また伊斗村は糸島郡(旧怡土郡・志麻郡)二丈町で、ここを伊都国としています。末羅県の玉島里は佐賀県東松浦郡浜玉町で玉島川があり、ここを末羅国としています。

『日本書記』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年冬十月の条)は皇后の対馬から新羅への渡海について「和珥津より發ちたまふ」としていますが、和珥津は対馬上県郡の鰐浦のことで対馬の最北端に位置しています。

対馬の北端から朝鮮半島に渡るとすると、その行き先は釜山・金海になってきます。こうして狗邪韓国は金海・釜山ということになり、対馬の寄港地は鰐浦だと考えられていたが、鰐浦の知名度が低いことから厳原に変るのでしょう。

狗邪韓国を金海・釜山とする説も神功皇后伝承から生まれたもののようですが、朝鮮の研究者がこれを認めているとは思えません。日本との歴史的な関係から任那を伽耶と言っている朝鮮の研究者が故意に認めないのではなく、金海・釜山は狗邪韓国ではないからだと考えるのがさそうです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりでもありす。伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説を手がかりとして以後の各国を比定しても邪馬台国論争に拍車をかける結果になるでしょう。

それどころか倭人伝には末盧国の方位が示されていません。図の青線は壱岐を中心とする千里(65キロ)圏ですが、東松浦半島が末盧国とは限らず青線上の任意の地点が末盧国になり、糸島郡・ 福岡平野は伊都国・奴国ではなく末盧国かも知れません。

東松浦半島付近を末盧国としたのも白石ですが、松浦という地名も伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野と同様の「創作された地名」であることも考えられます。しかし千里という限界があり末盧国は東松浦半島かその周辺としてよさそうです。

それは伊都国以後の各国を比定するための手がかりにはならないということです。これは私が言うまでもなく誰もが気づいていることで、方位・距離を恣意的に解釈して自分の思う所を邪馬台国にしてもよいという風潮がうまれています。

伊都国以後の各国を比定するには白石以前に立ち返って倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて、矛盾の生じない場所を求めるしか方法がないということでしょう。伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどが条件になってきますが、地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないことが求められます。

2011年11月13日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その4

狗邪韓国は韓伝の弁韓と同じものであり、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えますが、韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺と考え、対馬への渡海地点は金海・釜山ではなく巨済島だと考えています。

対馬への渡海地点が巨済島なら、その寄港地は厳原ではなく浅茅湾だと考えるのがよいようです。対馬には海神の綿津見神を祭る神社が見られ、また130本以上という多数の銅矛が出土していますが、対馬の銅矛は綿津見神を祭る神社が所蔵しているものが多いのが特徴です。

豊玉村の和多津美神社5本・海神神社6本・金子神社13本などが所蔵されています。この対馬の銅矛のように玄界灘沿岸に多数の銅矛が見られることから、銅矛は外洋の祭祀に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたとする説があります。

私は青銅祭器について部族の配布した宗廟祭祀の神体だと考え、配布を受けた宗族は同族関係にあったと考えていますが、以前には金海の良洞里遺跡で小型仿製鏡などと共に中広形銅矛が出土したと言われていました。現在ではこの銅矛は日本人が持ち込んだものだとか、偽造されたものだとか言われています。

銅矛を配布した部族は通婚関係の生じた宗族に銅矛1本を配布しましたが、朝鮮半島南部に銅矛を配布した部族と同族関係にあった人々がいたことが考えられます。前回・前々回には「海峡圏」の存在を想定しましたが、それを象徴するのがこの朝鮮半島南部の銅矛だと言えるようです。

銅矛が外洋祭祀に用いられたのであれば、「南北に市糴」する交易船一隻に1本が配布され、今日の船舶に掲揚される国旗のように船籍を表したと考えることもできます。いずれにしても対馬の銅矛は朝鮮半島との交流が関係するようです。

図の赤点が銅矛の出土地ですが島の西側の浅茅湾や三根湾周辺に多く東側は少数です。そして厳原周辺には殆ど見られません。これは対馬の西側を航行する船が多く東側を航行する船は少ないということで、帯方郡使の寄港地も厳原とするよりも浅茅湾か三根湾とするのがよいでしょう。

インチョンから巨文島までが七千余里ですが、巨文島~巨済島間は二千里でインチョンから巨済島までは九千里になります。対馬の浅茅湾までは一万里になり、東松浦半島まではおよそ万二千里になります。つまり帯方郡から倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸になります。

通説では倭人伝の地理記事に見える方位・距離の起点・終点は、共に郡冶(郡役所)や国都などの中心地だと考えられており、大和の纏向遺跡や九州の吉野ヶ里遺跡などのような著名遺跡を邪馬台国だと喧伝することが行われていますが、倭人伝の地理記事は国都の位置を示してはいません。

起点は郡冶や国都などの中心地ですが、終点は中心地ではなく郡境・国境・海岸などの境界です。帯方郡から狗邪韓国までの七千余里の終点は狗邪韓国の国境でなければならず、それは巨文島付近になります。万二千里の終点、つまり「従郡至倭」の行程の終点は邪馬台国ではなく末盧国の海岸でなければいけません。

通説では万二千里の終点は邪馬台国だと考えられていて、九州説では福岡県糸島市付近までが万五百里であり、残りの千五百里が糸島と邪馬台国の間の距離だとされています。畿内説は伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野でよいが、この千五百里を無視し、奴国以後の方位も無視しようというものです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりですからこの通説は成立しません。この誤った通説を根拠としているために、邪馬台国の位置論は倭人伝の方位・距離を無視して語られるようになっています。

私の参加した講演会でも講演者は質問に対し、邪馬台国はキャッチフレーズであって方位や距離とは関係がないと応答していました。講演者はアマチュアの方でしたが自分の考えを正直に言っているようです。プロなら答え方を工夫するでしょうがアマチュアもプロも同じことをしています。

2011年11月6日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その3


倭人伝の記事の多くは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た、帯方郡使の張政の見聞記録でしょう。その見聞記録では倭人伝の地理記事は「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたと思います。

「倭国圏」を表す呼称には倭人・倭国・倭種・倭地・女王国などがありますが、倭人は今日で言う日本人と思えばよいでしょう。その日本人の国が日本国ですが倭国は日本国に相当し、これは外交関係に用いられる呼称のようです。

女王国は女王が支配している国ということですが、中国が冊封体制によって日本国として認めているのは首都(東京)のある関東地方だけで、北海道・九州地方は日本国として認めていないのだと思えばよいようです。

そこで関東地方の日本人と同じ日本人が北海道・九州地方にも居るという意味で、北海道や九州が倭地とされ、そこに住む人々が倭種とされていると思えばよいでしょう。この譬えの関東地方が女王国であり、女王国は北部九州にありました。

卑弥呼・台与は邪馬台国の女王だという人もいますが、この譬えで言えば卑弥呼・台与は東京都知事だと言っているようなものです。ここで仮定している「倭国圏」とは今日で言う日本人の居る圏内を言います。

正始8年の張政の見聞記録では「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたものを、『三国志』の編纂者の陳寿が「暦韓国圏」と「海峡圏」を「従郡至倭」の行程に変えたのでしょう。

「倭国圏」は「従郡至倭」の行程には含まれないようです。伊都国以後が「倭国圏」であり、それには対馬国・一支国・末盧国を含まず、この3国は狗邪韓国と共に「海峡圏」になります。しかし「海峡圏」の存在が考えられていないので、通説ではこの3国も「倭国圏」の国のように思われています。

「従郡至倭」の行程に「倭国圏」は含まれていないのであれば、伊都国以後の国々の距離も万二千余里には含まれないことになり、倭人伝の地理記事に対する考え方を根本的に変えなければならなくなります。

金海・釜山が狗邪韓国とされ、対馬国への渡海地点とされていますが、検討してきたように千里=65キロであればインチョンから金海・釜山までは一万里になるでしょう。そうであれば対馬の厳原までは万二千里になり、壱岐(一支国)は万三千里になってしまいます。狗邪韓国は金海・釜山ではないのです。

狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる、韓伝の弁韓と同じもので、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えます。また韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島付近だと考えます

狗邪韓国と末盧国の間は三千里だとされていますが、インチョンから巨済島までは九千里になり、インチョンから巨済島・対馬を経由して東松浦半島(末盧国)までは万二千余里になります。

これは末盧国の海岸が万二千里の終点であり、「従郡至倭」の行程の終点だということです。それは「倭国圏」の始まりが末盧国の海岸であることを意味しています。

対馬国への渡海コースは金海・釜山からではなく、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が最も狭隘な巨済島と対馬の浅茅湾の間だと考えます。金海・釜山まで行くと三千里ほどの遠回りになりますが、帯方郡使の張政に金海・釜山まで行く必要があったでしょうか。

渡海地点の巨済島は鎌倉時代の元寇・応永の外寇では朝鮮半島から九州に向かう元軍の結集地になりました。元軍に3千里も遠回りして金海・釜山で結集する必要がないのと同じで、張政にも金海・釜山まで行く必要はありません。

南北朝後半から室町前半の倭寇が巨済島を侵犯したことも知られています。また豊臣秀吉の文禄・慶長の役ではこの島を日本軍が足掛かりとし、今も倭城の遺跡が残るなど日本と深い関係があります。

金海・釜山から対馬に渡ると朝鮮海峡の東流する強い潮流に流されて日本海を漂流する危険性がありますが、巨済島からだと潮流に流されても対馬に着ことができます。巨済島が渡海地点になったのはこうした点も考慮されているのでしょう。

2011年10月30日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その2

韓の広さの「方四千里」は260キロのようですが、馬韓の海岸を南下する距離は六千里ほどになりそうです。狗邪韓国までの七千余里は馬韓56ヶ国の沿岸を通過する距離に過ぎず、金海・釜山までだと一万里になってしまいます。

金海・釜山を狗邪韓国とすることはできません。インチョンから狗邪韓国に至る距離は南行六千里+東行千里の合計七千里であり、狗邪韓国は4・5世紀(三国時代)の百済と任那(伽耶)の国境付近にあった国だと考えるのがよいようです。

馬韓(百済)と弁韓(任那・伽耶)の国境は全羅南道中部の巨文島付近と考え、弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺だと考えます。巨文島と馬山・巨済島の間の二千里が倭人伝の狗邪韓国であり、狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる地域のようです。

私は倭人伝の地理記事を「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」とでも言える3圏に分けて考えるのがよいと思っています。「暦韓国圏」は韓の全域を言うのではなく、帯方郡から狗邪韓国の西境までを言い、検討してきたようにその距離が七千余里になります。

韓は馬韓56国、弁韓12国、辰韓12国で構成されていましたが、倭人伝に見える「暦韓国」は馬韓のみで弁韓・辰韓は含まれていないようです。弁韓と辰韓は一括して弁辰と呼ばれており、「暦韓国圏」の馬韓と弁辰が対比されているようです。

「暦韓国圏」は紀元前108年に楽浪郡が設置されるとその影響を受け、また黄海を渡ってくる山東半島の文化の影響を受けた地域のようです。韓伝には両者に言語の違いなど相違点があることが述べられており、弁韓・辰韓とでは異なった文化があったことが考えられています。

「海峡圏」は朝鮮海峡・対馬海峡・及び壱岐海峡に面した国を言い、狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国がこれに属します。狗邪韓国と弁韓とは同じものだと考えますが、辰韓の南部も「海峡圏」に加えるのがよいようです。この「海峡圏」は通説では全く考えられていない概念です。

弁韓の風俗について韓伝に「男女近倭、亦文身」とあり、その風俗に倭人と共通するものがあるようです。また倭人伝の対馬国の記事に「良田無く海物を食して自活し、船に乗り南北に市糴す」とありますが、このを馬韓(暦韓国圏)と、その影響を受けている弁辰と考え、を「倭国圏」と考えれば理解しやすいでしょう。

「海峡圏」には海路による交流があり「暦韓国圏」や「倭国圏」とは異質の文化が存在していることが考えられますが、韓伝に「倭と界を接す」と見える弁辰瀆盧国斉州島と見て、これを「海峡圏」に加えるとその性格がよく理解できるようです。

『魏志』倭人伝の「其北岸狗邪韓国」や『後漢書』倭伝の「其西北界狗邪韓国」の「其」の文字についてはこれを倭国のこととし、倭国が狗邪韓国を支配しているのだと解釈して、これを問題視する向きもあるようです。狗邪韓国は倭国の領土だと考えられているのですが、『日本書記』神功皇后紀の三韓征伐もこれを強調しているのでしょう。

倭人伝の「従郡至倭」の行程記事からは「海峡圏」の存在を考えることはできませんが、『後漢書』倭伝にみえる西北界は狗邪韓国が「海峡圏」の西北界であることを表しています。金海・釜山は「海峡圏」の東北界であって西北界ではありません。このことからも狗邪韓国が金海・釜山ではないことが分かります。

「倭国圏」には伊都国・奴国・不弥国や邪馬台国などがあり、その東方にも倭人の国があって、それを表す呼称に倭国・女王国・倭人・倭種・倭地がありますが、「倭国圏」は伊都国以後の国であり対馬国・一支国・末盧国は「海峡圏」になります。

2011年10月23日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その1

種々述べてきて取り留めが無くなってきました。ここで原点に戻って帯方郡から邪馬台国までの行程について考えてみます。通説では狗邪韓国は金海・釜山付近とされ、対馬国は対馬であり一大国(一支国の誤り)は壱岐だとされています。

佐賀県東松浦半島が末盧国でありその距離は一万里になるが、帯方郡から末盧国までの方位・距離には矛盾する点はないと考えられています。筑前怡土郡(現在の糸島市)が伊都国だが、その方位の南は東か東南の誤りだと考えられています。

そして奴国は福岡平野で、その方位の南もやはり東か東南の誤りだとされています。次の不弥国は宇美とする説や宗像とする説があって、これも方位に誤りがあるとされていて、ここで邪馬台国=畿内説と北部九州説が分かれます。

私もかつては対馬国が対馬であり一支国が壱岐であることは間違いないので、金海・釜山付近を狗邪韓国とする矛盾をさして重要とは思っていませんでした。しかし最近になって狗邪韓国が金海・釜山付近とされているために、邪馬台国の位置が分からなくなっていることに気が付きました。

これを無視することができないので検証してみます。まず帯方郡の位置ですが一般にソウル(京城)周辺とされています。那珂通世・白鳥庫吉・榎一雄らは黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡冶(郡役所)としています。

この説は1912年に近くの古墳群で「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が発見されたことから有力視されていますが、帯方太守が帯方郡の出身者とは限らず、その墓が必ずしも帯方郡内にあるとは限りません。

帯方郡は楽浪郡を分割して設置されましたが、楽浪郡冶(平城付近)と沙里院の距離は南50キロほどに過ぎず、これでは近すぎて分置された意味がないと言われており、また韓の広さの「方四千里」と整合しないとも言われています。

私は沙里院と楽浪郡冶の距離が近すぎること、及び韓が「方四千里」とされていることから、ソウル(京城)かその周辺を帯方郡冶とする説に従いたいと思っています。

韓伝・倭人伝の千里は魏里の150里(65キロ)だと考えますが、図のように韓は忠清北道・忠清南道・慶尚北道以南になって、帯方郡は京畿道になり、濊は江原道の日本海沿岸になります。

韓は黄海側の56ヶ国が馬韓を形成しており、これが後に百済になります。日本海側の12ヶ国が辰韓を形成ししており、これが新羅になります。対馬西水道側の12ヶ国が弁韓を形成しており、これが任那(伽耶)になります。この三韓の広さが「方四千里」ですが、四千里は260キロになります。

七千余里の起点と終点はどこかという点も問題になります。帯方郡冶がソウル付近なら、水行の起点は仁川(インチョン)と考えて問題はなさそうですが、通説の終点は金海(キムヘ)または釜山(プサン)だと考えられています。

『三国史記』地理志に「金海小京、古、金官国<一云伽落、一云伽耶>」とあり、金海は金官国とされています。金官国(語呂合わせですが金韓国?)と金海、および金官国の別名の伽耶・伽落と狗邪の音が似ていることから、狗邪韓国は金海・釜山付近ということになったのでしょう。また弁韓12ヶ国の中の弁辰狗邪国が金海・釜山の近くとされていることにも関係するのでしょう。

これは伊都国と糸島郡、奴国と那珂郡、不弥国と宇美の音が似ているのと共通しますが、この地名は『日本書記』神功皇后紀に見える応神天皇の誕生説話から生れたものです。伽耶・伽落と狗邪の音が似ているとしたのは神功皇后紀の編纂者で、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしているのでしょう。

倭人伝は帯方郡から狗邪韓国に到る七千余里について「暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里」としています。これは馬韓の海岸線に沿って南下し、さらに弁韓の海岸線に沿って東に方向を変えて狗邪韓国に到る距離が七千余里であることを表しています。

馬韓56ヶ国を通過する方向が南であり、弁韓12ヶ国の沿岸を通過する方向が東ですが、では馬韓56ヶ国の沿岸を南下する距離は何里になるでしょうか。韓の広さが「方四千里」であることを考慮して試算してみてください。

2011年10月16日日曜日

大山津見神 その5

出雲神話に触れてきましたが倭人伝には出雲に関係する記述が殆どないので、神話と青銅祭器だけで話を進めなければならず、取り留めのないものになりました。いずれにしても出雲神話の出雲は、単に律令制出雲国だけでなくその周辺の中国・四国地方と考えなければならないようです。

左図は9月18日の「その1」に掲載したものですが、青銅祭器の出土が見られないことから、黄色に塗り潰した地域が出雲神在祭の原形の「寄り合い評定」に参集した有力者の居る地域だと推定しました。

この図は別の意図があって作図したもので、前回には神話と出雲の関係を述べたために意図するところを述べることができませんでしたので追加します。

1984年に荒神谷遺跡で358本の銅剣が発見された時、島根大学の山本清氏は山陰道が8国・52郡・387郷であることから、1郡に平均7本を分与するために用意されたと考え、「山陰地方共同体」いう構想を提示されました。

土器の分布が示す山陰道が一つの生活圏の様相を示すことが考えられ、邪馬台国のような共同体が想定できるというものです。私はこの共同体を部族連盟国家だと考えますが、部族連盟国家は複数の部族が連合して国家を形成しているもので、その統治方法が出雲神在祭の原形になった「寄り合い評定」だと考えます。

そして山陰道8ヶ国のうちの但馬・丹波・丹後を除外して、安芸・備後・備中・備前の中国山地部と美作を加えるのがよいと考えます。つまり四隅突出型墳丘墓を墓制とし中細形銅剣C類を祭祀とする部族が、部族連盟国家を形成していたと考えるのです。

但馬・丹波・丹後は山陰の文化圏というよりも近畿地方の文化圏考えるのがよいと思います。山陰道・山陽道という行政区分は律令制以後のものであって、弥生時代の中国山地部は山陰の文化圏だったと考えなければならないようです。

後漢・魏・晋など中国の諸王朝は冊封体制を形成していましたが、その職約(義務)で異民族の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、あるいは「方六百里」に制限していました。これは今まで全く知られていなかったことです。

魏の一里は434メートルですから三百里は130キロになり、六百里は260キロになります。これを「稍」と言いますが、図の青色の方形が一辺六百里260キロ)の「稍」になっています。

韓伝は韓の広さを「方四千里」としていますが千里は65キロになります。山陽新幹線(新大阪~新下関)の営業キロ数は455キロだということですが、千里=65キロとすると、それは倭人伝に見える帯方郡から狗邪韓国までと同じ七千里になります。

帯方郡から倭国までの距離は万二千里とされていますが、畿内大和までは二万二千里になりそうで、邪馬台国=畿内説が成立する余地はまったくありません。中国・四国地方についても山陰説・吉備説・阿波説がありますが、これらの説も成立することは有りえません。

南九州説も同様であり、成立するのは図で筑紫としている北部九州のみということになりますが、図は倭人伝の地理記事と神話圏を対比させたものでもあります。図で筑紫としている「稍」が女王国であり「筑紫神話圏」になります。筑紫神話圏には肥後の北半や壱岐・対馬が含まれています。

中国・四国地方の「稍」が「出雲神話圏」になりますが、それは中国山地を含む日本海側と瀬戸内、そして中央構造線以南の太平洋側に分かれるようです。中央構造線以南の四国を「出雲神話圏」に含めてよいのか疑問ですが、少なくとも瀬戸内を含むと見てよいと思っています。

2011年10月9日日曜日

大山津見神 その4

四国の中央構造線以南(土佐と仮称)では西からは広形銅矛が、東からはⅣ-2式以後の近畿式銅鐸が流入してきますが平形銅剣が見られません。銅矛・銅鐸が平形銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかで、九州の場合もそうですが中央構造線が弥生文化を南北に分断しています。

図の赤線が中央構造線ですが、私は中央構造線以北には朝鮮半島から渡来してきた渡来民の子孫の、いわゆる「渡来系弥生人」が居り、中央構造線以南には「縄文系弥生人」が居たと考えるのがよいと思っています。

南九州の熊襲・隼人の文化も縄文系弥生人のものだと考えています。柳田國男は東南アジア・江南の文化が沖縄・西南諸島を経由する「海上の道」によって伝播してきたとしていますが、そこには沖縄・南西諸島の「ニライカナイ」に見られるような「海と山」の文化があります。

中央構造線以北の「渡来系弥生人」の文化は華北・朝鮮半島の影響が強く、文化に相違が生じる中央構造線付近でオオヤマツミの伝承が生まれるように思われます。九州の場合、中央構造線以南は肥後の南半分と日向になります。

そこは「日向神話」の世界で、薩摩半島の加世田市周辺にオオヤマツミ・コノハナノサクヤヒメの伝承があり海幸彦・山幸彦の伝承があります。海幸彦の行く「綿津見の宮」には海の彼方に人間界とは隔絶された「異界」が存在するという、縄文系弥生人の「海と山」の文化が感じられます。

紀伊半島にはオオヤマツミの伝承はありませんが、熊野灘沿岸に縄文系弥生人の「海と山」の文化を思わせるものが見られます。「熊野信仰」は縄文系弥生人の海の彼方の「異界」と、仏教の「西方浄土」の思想が融合したもので、大和が政治の中心になっったことで生まれるのでしょう。

四国の中央構造線以南にオオヤマツミの伝承はありませんが、黒潮の分流は瀬戸内海に流入していて、そこにはオオヤマツミを祭る愛媛県今治市大三島の大山祇神社があります。弥生時代に広形銅矛やⅣ-2式以後の銅鐸が流入したことで、オオヤマツミの伝承は瀬戸内沿岸に後退したと考えることができそうです。

後期終末から古墳時代初頭にかけて、北部九州(高天が原・女王国)による中央構造線以南の政治的統合が進むようです。2月に投稿した「宇佐説」では台与の即位以後、政治の中心が玄界灘沿岸から豊後灘・周防灘の周辺に移ると述べました。

また4月の「2人のヒコホホデミ」では、南九州(日向)を統合したのは2人のヒコホホデミの内の神武天皇であろうことを述べました。日向北部や豊後灘沿岸が統合の中心になったことが考えられ、四国西部の広形銅矛分布圏も、この時に神武天皇によって統合されたと考えます。

『日本書紀』第二の一書ではオオナムチ(大己貴)の出雲の国譲りに続いて、フツヌシ(経津主神)が岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として、オオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)を帰順させます。

『古事記』で国譲りをするのは大国主ですが、大己貴も大物主も大国主の別名と考えられています。しかしこの一書では大己貴と大物主が明確に区別されており、大己貴の出雲の国譲大物主の服属とは別の物語になっています。

第二の一書はオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に、出雲・筑紫・讃岐・阿波・紀伊・伊勢の忌部が定められたとしています。この忌部は祭祀氏族の忌部首氏とではなく物部氏と関係があるようです。

出雲・筑紫以外は三遠式銅鐸・Ⅳ-2式以後の近畿式銅鐸の分布圏であり、讃岐は平形銅剣の分布圏です。ここには中央構造線以南の「土佐」が出てきません。

西側の広形銅矛分布圏は250年代に神武天皇によって統合されますが、東側の銅鐸分布圏は第二の一書が述べるフツヌシ(経津主)によってオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に統合されるのでしょう。そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の東遷が始まると考えます。

2011年10月2日日曜日

大山津見神 その3

私は銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖が神話のイザナミだと考えていますが、山陰の出雲形銅剣(中細形銅剣C類)や、瀬戸内の平形銅剣を配布した部族の場合にはオヤマツミ(大山津見・大山積・大山祇)になるようです。

出雲ではスサノオやクシナタヒメ、アシナツチ・テナツチを祀る神社をよく見かけますが、オオヤマツミを主祭神とする神社はあまり見かけません。しかし合祀されているものはあるようです。

広島県安芸高田市吉田の清神社は毛利氏の氏神として知られていますが、『日本書記』の一書に見える、スサノオが降った「安芸国の可愛之河上」の伝承のある神社です。祭神はスサノオ・クシナタヒメ・アシナツチ・テナツチですが、ここでもオオヤマツミは祀られていません。

詳しくは調べていませんがオヤマツミは、出雲ではイザナミ・スサノオやクシナタヒメ、アシナツチ・テナツチ陰に隠れて影が薄ものの、美作など中国山地の各地では、相当数がさりげなく祀られているようです。

オヤマツミはいたって地味な神ですが、その神統上の位置付けは以外に重要で、日向神話でコノハナノサクヤヒメの父とされ、出雲神話ではクシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)の祖父ということになっています。

コノハナノサクヤヒメの系譜は神武天皇に連なり、クシナタヒメの系譜は大国主に連なります。この神には天つ神(高天原系の神)と国つ神(土着神)を結びつける役割があるようで、出雲神話でも天つ神のイザナミと国つ神のアシナツチ・テナツチを結びつけています。

オオヤマツミと言えば山の神のように思われますが、海の神としての性格を併せ持っています。日向神話の「海幸彦・山幸彦」の海幸彦は、鹿児島県薩摩半島の海人のようですが、加世田市付近の大山積・コノハナノサクヤヒメの伝承には、海幸彦の子孫の「吾田君」が絡んできます。 

オオヤマツミを祭る神社といえば愛媛県今治市大三島の大山祇神社(図の赤角印)と、静岡県三島市の三島神社が有名です。大山祇神社は全国の「三島神社」「山神社」の総本宮とされ、別名を「和多志大神」と呼ばれています。「和多志大神」とは「渡しの大神」という意味だと考えられており、瀬戸内海の海路を守護する神で「三島水軍」の守護神ともされました。

前々回には荒神谷遺跡の358本の中細形銅剣C類は、図の緑色、黄色に塗り潰した地域に配布されていたものが回収されたと述べましたが、その南の大山祇神社を中心とする40キロ圏内の瀬戸内海沿岸に平形銅剣が分布しています。

周辺には大山祇神社の末社でオオヤマツミを祭る三島神社が相当数ありますが、平形銅剣を配布したのは瀬戸内海を活動の場とする海人の部族であり、その部族の神話・伝説上の始祖が大山祇神社の祭神のオオヤマツミなのでしょう。

それに対して中細形銅剣C類を配布した部族がアシナツチ・テナツチやクシナタヒメの祖のオオヤマツミだと考えます。図の緑色に塗り潰した地域が中細形銅剣C類の分布の中心になっていますが、同時にこの地域は『出雲国風土記』に見える出雲神話の舞台でもあります。

吉備内陸部の黄色に塗り潰した地域にも三島神社が見られると推察していますが、この地域では中細形銅剣C類を配布した部族としてのオオヤマツミと、平形銅剣を配布した部族としてのオオヤマツミが並存していると考えています。

図で四国を横断している赤線は地学上の中央構造線ですが、その南側には平形銅剣が見られず、西から広形銅矛が流入し東からはⅣ-2式以後の近畿式銅鐸が流入しています。このために中央構造線以南にはオオヤマツミの伝承がみられないようです。四国には物部氏が勢力を拡大した兆候がみられますが、これが関係しているのかもしれません。

2011年9月25日日曜日

大山津見神 その2

「出雲形銅剣」とも言われている山陰の中細形銅剣C類の祭祀は弥生時代後期後半(3世紀)にも続き、瀬戸内の平形銅剣の祭祀も続いていたと考えていますが「出雲形銅剣」の分布圏を神話の「出雲」とし、平形銅剣の分布圏を神話の「吉備」とするのがよさそうです。

図はこのことを表していますが、赤線で示した四国の太平洋側には西から広形銅矛が流入し、東からはⅣ-1式以後の新しいタイプの近畿式銅鐸が流入してきます。

広形銅矛・Ⅳ-1式以後の近畿式銅鐸が銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかですが、少数ながら中広形銅剣も見られ、四国の太平洋側では出雲・吉備とは異なる銅剣の祭祀も行われたようです。四国の瀬戸内側を神話の「吉備」とするのに対し、太平洋側を「土佐」と仮称してみました。

神話のイザナミについては銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあると述べてきましたが、イザナミは火の神・カグツチを生んだことにより「神避り」して「根之堅洲国、或いは「黄泉の国」に居ることになっています。

「根之堅洲国」は倭人伝の奴国であり、それは筑前の遠賀川中・上流域だと考えていますが、それに対し「黄泉の国」は出雲とされています。2世紀初頭に奴国王家が滅ぶと、銅剣の分布の中心は中国・四国地方に移り、山陰では中細形銅剣C類(出雲形銅剣)が、また瀬戸内では平形銅剣が鋳造されます。

出雲が「黄泉の国」とされるのは、出雲が銅剣祭祀の中心になるということでしょう。前々回の投稿では2世紀末の倭国大乱以後、それに出雲市西谷墳墓群3号墓の被葬者が結び付けられて、出雲神話のスサノオになるのではないかという仮定を述べました。

弥生時代後半の部族は、男系(父系)血縁集団である宗族の族長階層が通婚することによって形成されていました。従って宗族の系譜は男系(父系)で辿ることになり、部族の系譜は女系(母系)で辿ることになります。

弥生時代は男系社会でしたから部族の始祖も男性でなければならず、神話・伝説上の男性始祖が創作されました。イザナギは銅矛を配布した部族の、また大国主は銅鐸を配布した部族の、スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の男性始祖です。しかしイザナミは女性とされています。

そのスサノオの出雲神話での女系の神統を辿ってみると、クシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)、アシナツチ・テナツチ(足名槌・手名槌、脚摩乳・手摩乳)、及びオオヤマツミ(大山津見・大山積・大山祇)を介してイザナミに結びついてきます。

部族は女系(母系)血縁集団ですが、イザナギの生んだ児とされているスサノオが、出雲神話ではオオヤマツミの神統に「入り婿」の形で加わっています。

スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖ですが、そのスサノオがオオヤマツミからクシナタヒメに至る女系(母系)の神統に加わることにより、同時に銅剣を配布した部族の男性始祖でもある、ということになっているようです。

このことが高天が原を追放されたスサノオがクシナタヒメを妻とし、オロチを退治して草薙剣を入手するというオロチ退治の神話になっているようです。草薙剣は銅剣を配布した部族を象徴しており、アシナツチ・テナツチやクシナタヒメは、出雲形銅剣(中細形銅剣C類)を祀っていた宗族なのでしょう。

イザナミは「黄泉の国」の出雲に居ることになっていて、死後のイザナミには子孫がありません。そこで銅剣を配布した部族の始祖はイザナミからオオヤマツミに代わり、その神統にスサノオが「入り婿」の形で加わり、さらにはその神統から銅鐸を配布した部族の始祖の大国主が出てくることになっているのでしょう。