2009年9月29日火曜日

邇々芸命

倭人伝の記事は台与が王になった時点で終わっており、倭人伝からはその後のことは分かりません。しかし『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも、国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、并せて中国の爵命を受ける

この文には臺與(台与)の後に、また男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は、中国(おそらく晋ではなく魏)が倭王に冊封したということですが、并には二人が前後に並び、それを一組にするという意味があり、台与と男王の二人の王がいると考えないといけません。

このことが無視されていることが不思議なのですが、その原因は『日本書紀』神功皇后紀が266年の倭人の遣使を神功皇后が行ったと思わせようとしていることにあります。しかし『梁書』『北史』の「その後また男王を立て、并べて中国の爵命を受ける」から別の考え方ができます。

266年の倭人の遣使までに女王制は有名無実になっており、台与の後の男王が立てられるようです。卑弥呼死後の男王がオシホミミであるのなら、台与の後の男王はホノニニギということになります。天孫降臨の神話は、台与の後の男王の時代に侏儒国が併合されたことが語られているようです。

遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然も彼地に多に蛍火の光く神、および蠅聲す邪しき神有り。複草木咸に能く言語有り。

ニニギ(邇々芸命・瓊瓊杵尊)は台与の後の男王ですが、台与を退位させて男王を立てようとしたが、それに反対する者があったというのです。それが「蛍火の光く神、及び蠅聲(さばえな)す邪(あ)しき神」であり、「草木咸(ことごとく)に、よく言うこと有り」と説明さています。

草木とは政治に関与することが許されない名もない庶民のことで、それらの者までが陰で批判しているというのです。私はこの批判をかわすために台与と、その後継の男王という、二人の王のいる時期があったと考えています。その男王がホノニニギなのでしょう。

ホノニニギは葦原中国の統治を命ぜられて日向の高千穂の峰に降臨しますが、日向三代の神話は侏儒国に女王国の支配が及んで来たことが語られているようです。王の支配地は冊封体制によって稍、つまり六百里四方に制限されていて、六百里四方の外側は隣の国で別の王が支配しています。ホノニニギが高千穂の峰に降臨したのは、九州南半の稍(稍O)を支配する王に冊封されたということだと思っています。

ホノニニギには天孫降臨という重責のわりには事績がなく、オシホミミとホホデミの系譜を中継しているだけのように見えます。ニニギと木花之佐久夜毘売の間に、火照命・火須勢理命・火遠理命の三神が生まれますが、津田左右吉はニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。

2009年9月27日日曜日

忍穂耳命

卑弥呼の死後に男王が立ちますが、国中が服さず千余人が殺される争乱が起きました。神話では卑弥呼の死と台与の共立が天の岩戸に隠もった天照大神が引き出されたと語られていますが、天照大神が岩戸に隠もっている間に卑弥呼の死後の男王が立ったことになります。

神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています。

天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。

是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す  

「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。

オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所です。どうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。

卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。

神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです。

葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。

忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。

私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた

結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギです。それを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。

2009年9月26日土曜日

高御産巣日神 その2

タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)は神話の冒頭で高天が原にいる「別天つ神」とされていて、イザナキ、イザナミ二神に至る、いわゆる神世七代とは別系統の神だと書かれています。イザナギ、イザナミ二神もスサノヲも高天が原の神ではありません。

また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。

天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
   上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である

戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。

タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。

神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。

大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。

私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。

甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。

女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。

このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。

2009年9月25日金曜日

高御産巣日神 その1

倭人伝は国々に市があり大倭が「之を監せしむ」(管理している)と述べていますが、従来のこの文の前後の解釈には問題があり、検討が必要なようです。大倭については、①倭人中の大人とする説、②邪馬台国の設置した官とする説、③大和朝廷のこととする説の三説があります。

租賦を収めるに邸閣有り。国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て(国中に於ける?)刺史の如き有り、王の遣使の京都、帯方郡、諸韓国に詣でるに・・(略)

この文について東洋史の植村清二氏は、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を管理しているのだと解釈し、一大率に諸国を検察させている大倭は、大和に有った国の高官だとしています。一大率はあたかも中国の州刺史のようなものであり、諸国を検察し、また津(港)で捜露しているのだとしています。

「邪馬台国と面土国 その6」で述べたようにこの解釈はたいへんな誤解で、一大率があたかも中国の州刺史のようなものだというのと、面土国王が「自女王国以北」の国を州刺史のように支配しているのとでは大変な違いです。一大率があたかも中国の州刺史のようだと最初に解釈したのは植村氏のようです。

一大率があたかも中国の州刺史のようだという解釈は大和朝廷、あるいはそれに代わる邪馬台国=畿内説を前提にしなければいけませんが、今まで述べてきたように邪馬台国=畿内説は成立せず、大和朝廷もまだ成立していません。植村氏の説は成立しないのです。

従って大倭は租賦(租税)や市を管理しているのだと考えなければいけませんが、私は①の倭人中の大人とする説と、②の邪馬台国の設置した官とする説を折半したものが大倭だと考えています。面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配し、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、一大率は軍事を担当しており、それぞれ役割を分担しているのです。

政治も経済抜きでは運営できませんから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのでしょう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができますが、天の岩戸以後活動する神の中にいかにもそれらしい神がいます。タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)です。この神は神話の冒頭にも高天が原にいる五柱の別天つ神(ことあまつかみ)として出てきます。

この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになります。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのです。

台与が即位して間もなく面土国王と、それを擁立した銅戈を配布した部族が滅ぼされ女王制は有名無実になっていきます。これがスサノオの高天が原からの追放ですが、その後事実上の倭王になったのが大倭で、これがタカミムスビなのです。

2009年9月24日木曜日

蛭児 その2

卑弥呼の鬼道とは神憑りして神の託宣を伝えるシャーマニズムのようです。律令が整備されていない時代には慣習や前例が法になっていました。後の大和朝廷でこれを職掌としたのが中臣氏(藤原氏)です。しかし慣習や前例がない場合にはシャーマンの下す託宣が法になりました。

今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。

卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。

名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす

女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。

卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています

次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。

『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。

卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。

神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。

巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。

私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。

修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。

福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。

卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆で結ばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう。

2009年9月23日水曜日

蛭児 その1

卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」とありますが、この鬼道を当時中国で流行していた道教と関係があるとする説があります。卑弥呼と天照大神が似ているのであれば天照大神に道教の影響が見られるはずですが、見えてくるのは古代神道の一部分であるシャーマニズムであり、道教との関係を思わせるものはありません。

紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。

神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。

三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」

卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。

笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。

竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。

神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。 

近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。

サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。

卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。

卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。

2009年9月22日火曜日

須佐之男命 その4

イザナギに追放されたスサノオは、暇乞いのために高天が原の天照大神を訪れますが、天照大神は国を奪いに来るのであろうと武装して待ち受けます。これは面土国王が「自女王国以北」の国を中国の刺史のように支配したり、津(港)で女王の使者を捜露するなど、卑弥呼との関係が良いものではなかったことを表しています。その背景には銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立があり、さらには中国の「正閠論」が絡んでいるようです。

そこで八百万の神は共に計らって、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、また髪を切り手足の爪を抜いて追放した

天照大御神が岩戸から出てくると、神々は岩戸にこもった原因はスサノオにあるとして追放します。天照大御神が岩戸から出てくるとは台与が共立されたということで、卑弥呼死後の争乱の原因が面土国王にあるとされていることがわかります。このスサノオが倭人伝の「刺史の如き者」であることは言うまでもありません。   

千位の置戸(ちくらのおきど)とは贖い物を置く多くの台ということで、多くの賠償が課せられたということです。鬚を切り手足の爪を抜くのは体刑であり、神やらいは追放で、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれて面土国王やそれに加担した者が処罰されたというのです。

倭人伝の記事は正始八年、つまり天照大神が岩戸から出てきた時点で終わっており、倭人伝の記事からはこのことは分かりません。白鳥庫吉の言うようにスサノオを面土国王ではなく狗奴国の男王や、その官の狗古智卑狗と見ればどうなるでしょうか。途中を省略しますが、結論は神話は史実ではないということになるでしょう。

この部分は神話を無視してはならいことが特によく分かる部分です。面土国の存在を認めることで邪馬台国の位置論が解明できることを述べましたが、神話もまた解明できそうです。さらには青銅祭器の謎を解明することもできそうです。

私は卑弥呼の統治下で広形銅矛a類が造られ、台与の時代以後にb類が作られたと考えています。従ってa類からb類に変化するのは台与が共立された247年ころということになります。広形銅矛は出土量も多くa類とb類がありますが、広形銅戈は中広形と違って数が非常に少なくa類とb類の別がありません。

これは広形銅矛b類が造られた時期には銅戈は造られていなかったということで、広形銅矛b類が造られた時期に面土国王家が滅亡し、銅戈を配布した部族も消滅したということのようです。それは台与共立の一方の当事者が存在しなくなったということであり、女王制が有名無実になったということです。

天照大神は天の岩戸の前後で性格が大きく変わり、天の岩戸以前にはスサノヲの姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。台与が共立されて間もない250年ころに女王の時代は終わり、高御産巣日神に相当する人物が実質的な倭王になるようです。私は高御産巣日神を倭人伝の大倭だと考えています。
 
追放されたスサノオは出雲に降(くだ)りヤマタノオロチを退治することになっていますが、編年体の史書と違って紀伝体の神話では年代も時代も違う史実が物語風に纏められています。年代も場所も違う神話がスサノオの追放で結び付けられているのですが、私はスサノオのオロチ退治の神話は倭国大乱が出雲に波及したことが語られていると考えています。

2009年9月21日月曜日

須佐之男命 その3

魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)を受けて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。どちらが後漢王朝の後継王朝として正統かという論争が「正閠論」です。

正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。

呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。

蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。

二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。

これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。

二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。

銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。

争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。

後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。

最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。

しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。

2009年9月20日日曜日

須佐之男命 その2

『日本書紀』本文では天照大神・月読尊に次いで素戔嗚尊が生まれますが、この神には天照大神、月読尊とは正反対の性格が与えられていて、父母のイザナギ、イザナミ二神はスサノオを追放します。『古事記』ではスサノオを追放するのはイザナギだけになっています。『日本書紀』本文は次のように記しています。
 
次ぎに素戔嗚尊を生まれた。(一書に神素戔嗚尊、速素戔嗚尊という。この神は勇悍(たけだけしく)て安忍(残忍)で、また泣き嘆くことを常とした。ゆえに國内の人民が多く死んだ。さらにまた青山を枯山に変えた。そこで父母の二神は素戔嗚尊に言われた。「汝ははなはだ無道である。だから天上、天下を支配してはならない。遠い根の國に行け」と言って追放された。

これは『日本書紀』本文の神話ですが、『古事記』ではイザナギに海原(うなばら)を治めるように命ぜられながら、母のいる根の堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと泣いてばかりいたので、そのために様々な禍が起き、イザナギは素戔嗚尊を追放したとされています。

これには2世紀末に起きた倭国大乱のことが語られているようです。つまり大乱の当事者がスサノオとイザナギなのです。イザナギは禊(みそぎ)はらいして阿曇海人・那珂海人の祀る神を生みますが、前述したようにイザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものです。

それに対して追放されるスサノヲは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。青銅祭器についてはさらに詳しく述べるつもりですが、ここでは「そのように考えることもできる」という程度に思ってください。

倭国大乱は倭王位を巡る銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。スサノヲは母のいる根の堅洲国に行きたいと泣いてばかりいましたが、母とはイザナミのことです。イザナミは銅剣を配布した部族であると同時に、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあります。

世の古今東西を問わず全ての支配者に共通することの一つに、自分の支配権の正当性を認めさせようとして、様々な手段を用いていることがあげられます。前漢を滅ぼした王莽は天の意思が王莽を皇帝にしたという天人感応説を巧みに利用して皇帝になりましたが、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されたことによって正当な王とされました。

この神話には魏の曹氏と蜀の劉氏の「正閠論」が絡んでいるように思われます。「正閠論」とは魏と蜀のどちらが後漢の後継王朝かという論議です。57年の奴国王の遣使も107年の面土国王帥升の遣使も、後漢王朝に対して行なわれていますが、卑弥呼は魏に遣使して親魏倭王に冊封されています。

奴国や面土国には蜀を正統とする考え方があったように思われます。それによると魏は後漢を滅ぼしたのであり、魏によって冊封された卑弥呼は正統の倭王ではなく、仮の王だということになります。正統の倭王は面土国王だというのですが、これが卑弥呼の死後に起きた争乱の原因になっているようです。

スサノヲが母のいる根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王の統治権は奴国王から継承したものであり、その統治権は後漢が認めた正当なものであると主張しているのであり、このことが倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているということのようです。「正閠論」はその後にも尾を引き、古墳時代の氏族の権力闘争にも影響しているようです。

2009年9月19日土曜日

須佐之男命 その1

白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊)を狗奴国の男王としていますが、前に述べたように狗奴国は肥後であり、肥後とスサノオには全く関係がありません。その点では宗像大社の祭神の三女神がスサノオの所持する剣から生まれたとされていて、宗像と深い関係があります。

高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係があると考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。

後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。

220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。

後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。

その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐はhsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。

『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。

「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。

「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部族でしよう。

スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。

宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです。

スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。

出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。

白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないことに原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう。