ホノニニギ(台与の後の王)の天孫降臨には五伴緒(いつのとものお)と呼ばれる五柱の神が随行しますが、いずれも大和朝廷の祭祀を行う氏族の祖のようです。『古事記』では次のようになっていますが、右欄は氏族名やその性格から見た私の考える職掌です。
天児屋 中臣連らの祖 政事にかかわる祭祀を担当
布刀玉 忌部首らの祖 祭事にかかわる祭祀を担当
天宇受売 猿女君の祖 卜占を担当
伊斯許理度売 作鏡連らの祖 祭祀具の鏡を鋳造
玉祖 玉祖連らの祖 祭祀具の玉を製作
猿女君は朝廷の行う大嘗祭の前行程や、鎮魂祭の演舞を行う巫女の、「猿女」を貢進した祭祀氏族だと考えられていて、同じ祭祀氏族でも中臣氏や忌部氏などは男性が祭祀に携わりましたが、猿女君は女性が巫女として祭祀に携わったために勢力が弱く、中臣氏・忌部氏ほどの活動が見られません。
猿女君は伊勢を本拠としたようで、三重県鈴鹿市の椿大神社は伊勢国一の宮で、サルタヒコを祭る神社の総本宮とされています。その支族の稗田氏は朝廷の行事に参加する必要から大和国添上郡稗田村(奈良県大和郡山市稗田)を本拠としていて、賣太神社は稗田阿礼、サルタヒコ、アメノウズメを祭神にしています。
『古事記』序文にその名の見える稗田阿礼もその一族ですが、阿礼は女性だとする説もあります。阿礼が男性なら猿女君一族の男性に大和朝廷の「語部」を職掌とする者がいたことが考えられます。倭人伝に次の文が見られます。
以婢千人自侍。唯有男子一人給飲食。伝辞出入。居処宮室・樓觀・城柵嚴設
卑弥呼は大きな宮殿に住み、婢(はしため)が千人も侍して(かしづいて)いるというのですが、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞を伝えるために出入りしているばかりでした。そのギャップが面白いのですが、この文の感じでは大きな宮殿には女性ばかりが千人もいて男性は少なかったように思えてきます。
婢千人は女王国にいる巫女の数のように思います。卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」とあります。鬼道を当時の中国で盛んだった道教と結び付ける説もありますが、神意を占ってそれを政治に反映させるものでしょう。
成文化された法や令のない社会では慣習や前例が法・令になりますが、慣習や前例のない場合には神意を占い、それが法・令になりました。律令時代以前の大和朝廷では中臣氏は政事(まつりごと)に関わる祭祀を担当していたと考えます。
猿女君は中臣氏や忌部氏が職掌とする慣習や前例のない事態が発生した時に神意を占う巫女を出したのだと考えます。それは国家の運営から庶民の日常生活に及びますから、その範囲は今日風に言えば日本国憲法の解釈から近所付合いのルールにまで至ります。
卑弥呼が一人でそのすべてを処理できるとは思えません。卑弥呼は国事を卜占してそれを政治に反映させていましたが、その卑弥呼を助けていたのが千人にも及ぶ巫女であったと考えます。それが「以婢千人自侍」と誤解されているのでしょう。
アメノウズメの胸乳を露に出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天の岩戸の前での姿と同じです。これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。
猿女氏は大和朝廷内で巫女を出すことを職掌としましたが、アメノウズメも巫女だと考えるのがよさそうで、倭人伝に見える婢千人を管理しているのがアメノウズメだと考えることができそうです。天の岩戸に籠もる天照大神は卑弥呼であり、岩戸から出てきた天照大神は台与ですが、アメノウズメが岩戸の前で踊るのは女王がいなかったということでしょう。
女王であると同時に巫女でもある卑弥呼・台与のいない時にアメノウズメが活動するようで、サルタヒコに向き立つアメノウズメも、台与が退位して女王がいない時期に、猿女君の祖が女王の代役(後の伊勢神宮の斎王)のような立場にあったことが語られているようです。
アメノウズメは命ぜられてサルタヒコの元に出向きますが、サルタヒコはアメノウズメに送られて伊勢の阿耶訶(あざか、三重県松坂市)に行くことになっています。これはすでに台与が巫女としての役割を果たしていないということであり、女王制が廃止されると同時に一大率の制度も廃止されたということでしょう。
2011年2月27日日曜日
一大率 その1
遠賀川流域が「自女王国以北」だと考えていますが、そこは面土国王(スサノオ)が「刺史の如く」支配していました。それは鞍手郡の物部氏の遠祖との連合支配でしたが、台与の後の王(ホノニニギ)の即位に反対したために物部氏の支族が消滅するようです。
その後にホノニニギの「天孫降臨」が始まりますが、降臨するホノニニギをサルタヒコ(猿田彦・猨田彦)がアメノヤチマタ(天八達之衢)で待ち受けていました。私は伊都国を田川郡だと考えていますが、サルタヒコは伊都国で常治していた一大率だと思っています。
遠賀川流域では猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔をよく見かけますが、初めて見たのは北九州市の小倉城のもので強く印象に残っています。サルタヒコは道教の「道祖神」や山王信仰の猿と融合して、賽ノ神と同様に道路が交わる辻を守護する神とされています。
サルタヒコの石塔は田川郡香春町の鏡山の周辺に特に多く見られて、鏡山の隣の岩原・宮原では集落内に三〇基以上があります。香春と猿の関係については香春町採銅所の現人神社の祭神で、香春城主の原田義種を猿が救ったという伝承があり、猿を神の使いとする山王信仰の影響を受けているようで、石塔には「庚申」と刻まれているものもあります。
その後この地方で疫病が大流行し原田義種を救った猿の信仰が広がり「お猿様」と言われて親しまれていて、以前には現人神社の祭礼の日には北九州市などから臨時列車が編成されるほど賑わったということですが、この「お猿様」とサルタヒコが融合しているようです。
鏡山付近に猿田彦の石塔が多いのは山王信仰と無関係ではないようですが、猿田彦信仰は遠賀川流域や豊前に広く見られますから、鏡山付近に一大率、つまりサルタヒコが居たという伝承があったと考えるのがよさそうです。
国道201号線と322号線は鏡山で分岐しており、201号線は行橋方面に、322号線は小倉方面に到りますが、201号線が律令制官道の田河路になります。鏡山のように道路が四通八達している交通の要所が賽ノ神・庚申や猿田彦が祀られる場所になっています。
私は奴国の「東南至奴国百里」を宗像郡(面土国)と鞍手郡(奴国)の郡境の猿田峠だと考えていますが、猿田と言う地名から見てここに一大率配下の兵が配置され、面土国と奴国を監視していたようです。直方市にも猿田があり猿田彦神社があります。
猿田峠の西側(宗像市)には猿田という集落があり、その隣の高六にはサルタヒコを祭る神社があります。小さな神社ですが行橋市草場の豊日別宮(草葉神社)と関係があるようです。私は高六を猿田だと勘違いしていましたが、猿田にも神社があるようで、おそらくサルタヒコかトヨヒワケ(豊日別)が祭神でしょう。
さて先払いの者が帰ってきてアメノヤチマタ(天八達之衢)に一人の神がいると報告しましますが、これがサルタヒコでいかにも恐ろしげな姿です。私はこれを倭人伝に見える「自女王国以北。特置一大率検察諸国。畏憚之」の、諸国が一大率を畏れ憚っているさまを描写していると考えています。
「一人の神が天八達之衢に居ます。その鼻の長さは七咫、背の長さは七尺余り。まさに七尋と言うべきでしょう。また口尻は明るく輝いています。眼は八咫鏡のようで照り輝く様子は赤いホオズキに似ている」という。
後にこれが山王思想(修験道)と結びついて想像上の天狗になるようです。ホノニニギに随行する神を遣わして何者なのか問わせようとしますが、その姿が恐ろしくて誰も問いかけることができません。そこでアメノウズメ(天鈿女・天宇受売)が遣わされます。
天鈿女はその胸乳を露に出して、裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ。此の時に衢神(ちまたのかみ)は問いかけて「天鈿女、汝が為しているのは何の故があっての事か」という。答えて「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と言う。
この神話ではサルタヒコとアメノウズメがペアで活動していますが、アメノウズメの胸乳を露出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天照大神の籠っている天の岩戸の前での光景と共通しています。
これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。この神話についてはサルタヒコとアメノウズメの子孫とされている猿女君の性格を知ること、及び「敢て(あえて)問う」と言っていることの意味を考えてみる必要がありそうです。
その後にホノニニギの「天孫降臨」が始まりますが、降臨するホノニニギをサルタヒコ(猿田彦・猨田彦)がアメノヤチマタ(天八達之衢)で待ち受けていました。私は伊都国を田川郡だと考えていますが、サルタヒコは伊都国で常治していた一大率だと思っています。
遠賀川流域では猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔をよく見かけますが、初めて見たのは北九州市の小倉城のもので強く印象に残っています。サルタヒコは道教の「道祖神」や山王信仰の猿と融合して、賽ノ神と同様に道路が交わる辻を守護する神とされています。
サルタヒコの石塔は田川郡香春町の鏡山の周辺に特に多く見られて、鏡山の隣の岩原・宮原では集落内に三〇基以上があります。香春と猿の関係については香春町採銅所の現人神社の祭神で、香春城主の原田義種を猿が救ったという伝承があり、猿を神の使いとする山王信仰の影響を受けているようで、石塔には「庚申」と刻まれているものもあります。
その後この地方で疫病が大流行し原田義種を救った猿の信仰が広がり「お猿様」と言われて親しまれていて、以前には現人神社の祭礼の日には北九州市などから臨時列車が編成されるほど賑わったということですが、この「お猿様」とサルタヒコが融合しているようです。
鏡山付近に猿田彦の石塔が多いのは山王信仰と無関係ではないようですが、猿田彦信仰は遠賀川流域や豊前に広く見られますから、鏡山付近に一大率、つまりサルタヒコが居たという伝承があったと考えるのがよさそうです。
国道201号線と322号線は鏡山で分岐しており、201号線は行橋方面に、322号線は小倉方面に到りますが、201号線が律令制官道の田河路になります。鏡山のように道路が四通八達している交通の要所が賽ノ神・庚申や猿田彦が祀られる場所になっています。
私は奴国の「東南至奴国百里」を宗像郡(面土国)と鞍手郡(奴国)の郡境の猿田峠だと考えていますが、猿田と言う地名から見てここに一大率配下の兵が配置され、面土国と奴国を監視していたようです。直方市にも猿田があり猿田彦神社があります。
猿田峠の西側(宗像市)には猿田という集落があり、その隣の高六にはサルタヒコを祭る神社があります。小さな神社ですが行橋市草場の豊日別宮(草葉神社)と関係があるようです。私は高六を猿田だと勘違いしていましたが、猿田にも神社があるようで、おそらくサルタヒコかトヨヒワケ(豊日別)が祭神でしょう。
さて先払いの者が帰ってきてアメノヤチマタ(天八達之衢)に一人の神がいると報告しましますが、これがサルタヒコでいかにも恐ろしげな姿です。私はこれを倭人伝に見える「自女王国以北。特置一大率検察諸国。畏憚之」の、諸国が一大率を畏れ憚っているさまを描写していると考えています。
「一人の神が天八達之衢に居ます。その鼻の長さは七咫、背の長さは七尺余り。まさに七尋と言うべきでしょう。また口尻は明るく輝いています。眼は八咫鏡のようで照り輝く様子は赤いホオズキに似ている」という。
後にこれが山王思想(修験道)と結びついて想像上の天狗になるようです。ホノニニギに随行する神を遣わして何者なのか問わせようとしますが、その姿が恐ろしくて誰も問いかけることができません。そこでアメノウズメ(天鈿女・天宇受売)が遣わされます。
天鈿女はその胸乳を露に出して、裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ。此の時に衢神(ちまたのかみ)は問いかけて「天鈿女、汝が為しているのは何の故があっての事か」という。答えて「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と言う。
この神話ではサルタヒコとアメノウズメがペアで活動していますが、アメノウズメの胸乳を露出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天照大神の籠っている天の岩戸の前での光景と共通しています。
これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。この神話についてはサルタヒコとアメノウズメの子孫とされている猿女君の性格を知ること、及び「敢て(あえて)問う」と言っていることの意味を考えてみる必要がありそうです。
2011年2月20日日曜日
台与の後の王 その5
一月に投稿した「宇佐説・その4」で、台与の時代には周防灘沿岸の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったであろうことを述べましたが、「自女王国以北」を支配していた面土国王と、それに加担する物部の支族が滅亡したことでそれが加速するようです。
ホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)には天孫降臨の事績があり、フツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになっていますが、葦原中国は出雲、あるいは大和だと考えられています。ところがホノニニギの降臨先は出雲でも大和でもなく日向とされています。
中国の諸王朝は敵対する大勢力の出現することを警戒して、冊封体制で支配領域を稍(260キロ四方)に制限していましたから、台与の後の王(ホノニニギ)が出雲や大和を支配するには冊封体制が障害になります。ホノニニギの降臨先が出雲や大和でないのは、まだ魏(あるいは晋)の冊封体制から離脱できていなかったということでしょう。
倭の五王の時代(413~502)には明らかに大和朝廷は存在していますから、倭人が中国の冊封体制から離脱したのは、倭人伝の記述の終わる247年から413年の間で、この間に大和朝廷が成立するのでしょう。
具体的には265年以後の3世紀後半だと考えていますが、とすれば266年の倭人の遣使の意味を考えなければならなくなります。『日本書紀』は266年に遣使したのは台与だと思わせようとしていますが、私はこれを神武天皇の東遷を成功させるためには、晋の爵号が必要だったと考えています。
日向(日向・大隈・薩摩の3国)が侏儒国ですが、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けたというのは、女王国では台与が在位したままで、男王は侏儒国の支配者としての爵命を受けたのだと解釈し、これが天孫降臨の意味だとすることもできそうです。

図は女王国(筑紫)と侏儒国(日向)の間に地質学上の中央構造線が通っていることを示していますが、構造線は大規模な断層で南北の交通を分断していて、九州の古代文化は中央構造線を境にして大きく異なります。
北側は朝鮮半島からの渡来民と縄文人が混血した「渡来系弥生人」の文化圏ですが、その経済基盤は稲作を中心とする農耕で、通婚関係の生じた宗族が部族を形成しており、銅矛・銅戈を配布したようです。
南はいわゆる縄文系弥生人の熊襲・隼人の文化圏で、青銅祭器は豊後の南部を除いてほとんど見られなくなります。これは中央構造線が南北の交通を阻害しているために、朝鮮半島からの渡来民と土着縄文人の通婚がなかったからでしょう。
中央構造線の南側は、日向灘沿岸部は比較的に平坦ですが、北部は山岳地帯で、南部はシラス・ボラと呼ばれる火山の噴出物に覆われているところが多く、稲作に適していません。こうしたことから狩猟民的・海洋民的な性格が強いことが考えられていています。
構造線の南北では文化の違いが見られますが、その境界は緑川流域になっています。緑川以北では中期に北部九州の須玖式土器の影響を受けた黒髪式土器が見られますが、緑川以南には見られません。青銅祭器が見られるのも緑川流域までです。

後期後半になると緑川以南の人吉盆地を中心にして流麗な長頚壷を特徴とする免田式土器が現れてきます。狭義の熊襲はこの文化を持っていた人々のようです。肥後が狗奴国だと考えていますが、狗奴国は異質の二つの文化を包含した国だったようです。
倭人伝は狗奴国の王を卑弥狗呼とし、その官に狗古智卑狗がいるとしていますが、狗古智卑狗は中央構造線の北側の菊池川流域の支配者のようです。難升米は239年に率善中郎将に任ぜられていますが、247年に帯方郡使の張政が難升米に届けた黄幢・詔書は、難升米に武官位が追加付与されたことを表しているようです。
難升米はこれを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようです。狗古智卑狗が殺されたのに続いて緑川以南が統合され、さらには南の侏儒国の統合が行なわれたと考えますが、天孫降臨の神話には台与の後の王の時に中央構造線以南が統合されたことが語られているようです。
ホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)には天孫降臨の事績があり、フツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになっていますが、葦原中国は出雲、あるいは大和だと考えられています。ところがホノニニギの降臨先は出雲でも大和でもなく日向とされています。
中国の諸王朝は敵対する大勢力の出現することを警戒して、冊封体制で支配領域を稍(260キロ四方)に制限していましたから、台与の後の王(ホノニニギ)が出雲や大和を支配するには冊封体制が障害になります。ホノニニギの降臨先が出雲や大和でないのは、まだ魏(あるいは晋)の冊封体制から離脱できていなかったということでしょう。
倭の五王の時代(413~502)には明らかに大和朝廷は存在していますから、倭人が中国の冊封体制から離脱したのは、倭人伝の記述の終わる247年から413年の間で、この間に大和朝廷が成立するのでしょう。
具体的には265年以後の3世紀後半だと考えていますが、とすれば266年の倭人の遣使の意味を考えなければならなくなります。『日本書紀』は266年に遣使したのは台与だと思わせようとしていますが、私はこれを神武天皇の東遷を成功させるためには、晋の爵号が必要だったと考えています。
日向(日向・大隈・薩摩の3国)が侏儒国ですが、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けたというのは、女王国では台与が在位したままで、男王は侏儒国の支配者としての爵命を受けたのだと解釈し、これが天孫降臨の意味だとすることもできそうです。

図は女王国(筑紫)と侏儒国(日向)の間に地質学上の中央構造線が通っていることを示していますが、構造線は大規模な断層で南北の交通を分断していて、九州の古代文化は中央構造線を境にして大きく異なります。
北側は朝鮮半島からの渡来民と縄文人が混血した「渡来系弥生人」の文化圏ですが、その経済基盤は稲作を中心とする農耕で、通婚関係の生じた宗族が部族を形成しており、銅矛・銅戈を配布したようです。
南はいわゆる縄文系弥生人の熊襲・隼人の文化圏で、青銅祭器は豊後の南部を除いてほとんど見られなくなります。これは中央構造線が南北の交通を阻害しているために、朝鮮半島からの渡来民と土着縄文人の通婚がなかったからでしょう。
中央構造線の南側は、日向灘沿岸部は比較的に平坦ですが、北部は山岳地帯で、南部はシラス・ボラと呼ばれる火山の噴出物に覆われているところが多く、稲作に適していません。こうしたことから狩猟民的・海洋民的な性格が強いことが考えられていています。
構造線の南北では文化の違いが見られますが、その境界は緑川流域になっています。緑川以北では中期に北部九州の須玖式土器の影響を受けた黒髪式土器が見られますが、緑川以南には見られません。青銅祭器が見られるのも緑川流域までです。

後期後半になると緑川以南の人吉盆地を中心にして流麗な長頚壷を特徴とする免田式土器が現れてきます。狭義の熊襲はこの文化を持っていた人々のようです。肥後が狗奴国だと考えていますが、狗奴国は異質の二つの文化を包含した国だったようです。
倭人伝は狗奴国の王を卑弥狗呼とし、その官に狗古智卑狗がいるとしていますが、狗古智卑狗は中央構造線の北側の菊池川流域の支配者のようです。難升米は239年に率善中郎将に任ぜられていますが、247年に帯方郡使の張政が難升米に届けた黄幢・詔書は、難升米に武官位が追加付与されたことを表しているようです。
難升米はこれを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようです。狗古智卑狗が殺されたのに続いて緑川以南が統合され、さらには南の侏儒国の統合が行なわれたと考えますが、天孫降臨の神話には台与の後の王の時に中央構造線以南が統合されたことが語られているようです。
2011年2月13日日曜日
台与の後の王 その4
『日本書紀』第二の一書は天に天津甕星(あまつみかほし)、又の名は天香香背男(あめのかかせお)がいるとしていますが、台与の退位と男王の即位に反対しているようで、私はこれを物部の支族だと考えています。
物部氏の祖のニギハヤヒハは多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承を持っていますが、『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる神の天津甕星も「天津○○」ですし、またの名の天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。天津甕星と天津赤星も「みかほし」「あかほし」と、音がひとつ違うだけです。
鳥越憲三郎氏は畿内に同族関係にあると思われるものがあることから、物部氏の発祥地は遠賀川流域だとしています。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されています。

1、鞍手郡若宮町鶴田 筑紫弦田物部
2、 都地 十市部首
3、 芹田 芹田物部
4、 小竹町小竹 狭竹物部
5、 鞍手町新北 贄田物部
6、飯塚市新多 二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見 馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門 嶋戸物部
9、宗像市赤間 赤間物部
10、北九州市(企救郡) 聞物部
奥野正雄氏は『日本の神社』で北部九州にある物部伝承地には神武東遷以前からある古いものと、継体天皇21年の物部麁鹿火による筑紫君磐井討伐以後の新しいものがあるとしています。私は神武天皇が筑紫の岡田の宮(遠賀郡岡垣町)に滞在したのは、神武東遷以前の古い物部一族から、東遷の同意を取り付けるためであったと考えています。
図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程ですが、土穴から猿田峠までが百里、猿田峠から烏尾峠までが四百里になります。◎が物部伝承地ですが、図は伊都国に到る行程の途中に物部伝承地が多いことを表そうとしています。
図には2の鞍手郡若宮町都地と、6の飯塚市新多を記入していませんが、2の都地は1の鶴田と3の芹田の中間に位置しており、図が煩雑になるので記入していません。都地の位置も伊都国に到る行程の途中になります。
6の飯塚市新多ですが、飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思います。私は伊都国に到る五百里の行程では小竹町新多の付近が遠賀川の渡河地点になっていると考えています。
面土国を宗像郡と考え、奴国は鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、宗像郡の釣川、および鞍手郡の犬鳴川・西川の分水嶺が宗像郡と鞍手郡の郡境になっています。犬鳴川・西川流域は宗像氏の支配地だったとも言われていて、流域の象徴になっている六ヶ岳には宗像3女神が降臨したという伝承があります。
物部氏の故地は六ヶ岳周辺の犬鳴川・西川流域に集中していますが、ここを中心とする遠賀川中・下流域に10数社の剣神社・八剣神社があり、物部氏の兵杖を祭るという伝承があります。物部氏の発祥地がこの地であることをうかがわせます。
『先代旧事本紀』には若宮町鶴田を故地とする筑紫弦田物部などの祖の天津赤星は見えますが『日本書紀』第二の一書の天津甕星は見えません。神武東遷以前の鞍手郡にいて、台与の退位・男王の即位に反対したために滅ぼされた物部の支族だと考えます。
そうであれば物部氏の遠祖は奴国王であることが考えられ、また2世紀から3世紀前半にあっては面土国王と密接な関係にあったと考えることができます。面土国王が「自女王国以北」を刺史のごとく支配しているのは、宗像氏の祖と物部氏の祖による連合支配なのでしょう。
物部氏の祖のニギハヤヒハは多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承を持っていますが、『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる神の天津甕星も「天津○○」ですし、またの名の天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。天津甕星と天津赤星も「みかほし」「あかほし」と、音がひとつ違うだけです。
鳥越憲三郎氏は畿内に同族関係にあると思われるものがあることから、物部氏の発祥地は遠賀川流域だとしています。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されています。

1、鞍手郡若宮町鶴田 筑紫弦田物部
2、 都地 十市部首
3、 芹田 芹田物部
4、 小竹町小竹 狭竹物部
5、 鞍手町新北 贄田物部
6、飯塚市新多 二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見 馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門 嶋戸物部
9、宗像市赤間 赤間物部
10、北九州市(企救郡) 聞物部
奥野正雄氏は『日本の神社』で北部九州にある物部伝承地には神武東遷以前からある古いものと、継体天皇21年の物部麁鹿火による筑紫君磐井討伐以後の新しいものがあるとしています。私は神武天皇が筑紫の岡田の宮(遠賀郡岡垣町)に滞在したのは、神武東遷以前の古い物部一族から、東遷の同意を取り付けるためであったと考えています。
図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程ですが、土穴から猿田峠までが百里、猿田峠から烏尾峠までが四百里になります。◎が物部伝承地ですが、図は伊都国に到る行程の途中に物部伝承地が多いことを表そうとしています。
図には2の鞍手郡若宮町都地と、6の飯塚市新多を記入していませんが、2の都地は1の鶴田と3の芹田の中間に位置しており、図が煩雑になるので記入していません。都地の位置も伊都国に到る行程の途中になります。
6の飯塚市新多ですが、飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思います。私は伊都国に到る五百里の行程では小竹町新多の付近が遠賀川の渡河地点になっていると考えています。
面土国を宗像郡と考え、奴国は鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、宗像郡の釣川、および鞍手郡の犬鳴川・西川の分水嶺が宗像郡と鞍手郡の郡境になっています。犬鳴川・西川流域は宗像氏の支配地だったとも言われていて、流域の象徴になっている六ヶ岳には宗像3女神が降臨したという伝承があります。
物部氏の故地は六ヶ岳周辺の犬鳴川・西川流域に集中していますが、ここを中心とする遠賀川中・下流域に10数社の剣神社・八剣神社があり、物部氏の兵杖を祭るという伝承があります。物部氏の発祥地がこの地であることをうかがわせます。
『先代旧事本紀』には若宮町鶴田を故地とする筑紫弦田物部などの祖の天津赤星は見えますが『日本書紀』第二の一書の天津甕星は見えません。神武東遷以前の鞍手郡にいて、台与の退位・男王の即位に反対したために滅ぼされた物部の支族だと考えます。
そうであれば物部氏の遠祖は奴国王であることが考えられ、また2世紀から3世紀前半にあっては面土国王と密接な関係にあったと考えることができます。面土国王が「自女王国以北」を刺史のごとく支配しているのは、宗像氏の祖と物部氏の祖による連合支配なのでしょう。
2011年2月6日日曜日
台与の後の王 その3
白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠るのは卑弥呼の死と台与の共立を表しているとしていますが、その原因はスサノオの乱暴・狼藉だとされていて、スサノオについては狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。
スサノオのスサ(須佐・素戔)とは107年に遣使した面土国王の帥升のことですが、ここで言うスサノオはその140年後の子孫(帥升の緒)です。卑弥弓呼は『日本書記』の保食神、『古事記』の大宜津比売だと考えています。保食神はツキヨミに、また大宜津比売はスサノオに斬殺されますが、これは狗奴国が平定されたということです。
スサノオは高天が原から追放されることになっていますが、このスサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。卑弥呼死後の争乱の事後処理、言わば軍事裁判が行われたというのです。
是に八百万の神、共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦、鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。
千位の置戸(ちくらのおきと)とは、賠償の品を乗せる多くの台ということで、賠償を課せられた者や鬚を切り手足の爪を抜くという体刑を受けた者があり、追放された者もいたというのです。これは台与共立の一方の当事者だった面土国王が失脚し、これを擁立した銅戈を配布した部族が消滅したということのようです。
事の性質からみてそれは争乱からごく近く、まだ争乱の余韻の残っているころのことでしょう。前回に述べたように魏に遣わした掖邪狗らが帰国したと推定される249年に近いころで、少なくとも250年代だと考えるのがよさそうです。
追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治することになっていますが、オロチ退治の神話には倭国大乱が中国地方に波及したことが語られていて、高天が原から追放される須佐之男とオロチを退治するスサノオは別個のものです。
266年の倭人の遣使以前に面土国王が失脚して女王制は有名無実になっており、『梁書』『北史』にみえるように、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けていることが考えられます。スサノオを面土国王とし、天の岩戸から出てきた天照大神を台与とすると、男王はホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)になります。
『翰苑』にも台与の後の男王の存在を思わせる文があり、この文では413年に遣使した「倭の五王」の讃のように思える記述になっていますが、神話と関連させて考えると男王はホノニニギでなければいけません。『日本書紀』本文は次ぎのように記しています。
そこで皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主にしようと思われた。しかしその国には、蛍火のように光る多くの神、及びうるさい蠅のような邪まな神がいた。また草木のような名のないものまでが言い合っていた。
ホノニニギは天照大神の孫とされていますが、高天が原の主ではなく葦原中国の主にしようとされています。高天が原は女王の王都のある邪馬台国、あるいは女王国のことですが、それに対し葦原中国は出雲や大和を含めたすべての倭人の国を言います。
卑弥呼・台与を共立した当事者である面土国王は失脚しています。また卑弥呼・台与を「親魏倭王」に冊封した魏も滅亡寸前で冊封体制は機能していなかったことが考えられます。
弥生時代には部族が稍(230キロ四方)を支配する王を擁立しましたが、中国の冊封体制から離脱して部族を解体し、女王制から「氏姓制」に変えようということで、大和朝廷が成立しようとしているのです。
しかし台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねなかったようで、台与の退位、男王の即位に反対する者がいました。『日本書紀』第二の一書は本文とは少し違う伝承を記しています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に悪い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
本文のいう「蛍火の光く神、及び蠅聲す(さばえなす)邪しき神」が、天津甕星、またの名は天香香背男だというのです。そしてホノニニギ(台与の後の王)はフツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになります。
スサノオのスサ(須佐・素戔)とは107年に遣使した面土国王の帥升のことですが、ここで言うスサノオはその140年後の子孫(帥升の緒)です。卑弥弓呼は『日本書記』の保食神、『古事記』の大宜津比売だと考えています。保食神はツキヨミに、また大宜津比売はスサノオに斬殺されますが、これは狗奴国が平定されたということです。
スサノオは高天が原から追放されることになっていますが、このスサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。卑弥呼死後の争乱の事後処理、言わば軍事裁判が行われたというのです。
是に八百万の神、共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦、鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。
千位の置戸(ちくらのおきと)とは、賠償の品を乗せる多くの台ということで、賠償を課せられた者や鬚を切り手足の爪を抜くという体刑を受けた者があり、追放された者もいたというのです。これは台与共立の一方の当事者だった面土国王が失脚し、これを擁立した銅戈を配布した部族が消滅したということのようです。
事の性質からみてそれは争乱からごく近く、まだ争乱の余韻の残っているころのことでしょう。前回に述べたように魏に遣わした掖邪狗らが帰国したと推定される249年に近いころで、少なくとも250年代だと考えるのがよさそうです。
追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治することになっていますが、オロチ退治の神話には倭国大乱が中国地方に波及したことが語られていて、高天が原から追放される須佐之男とオロチを退治するスサノオは別個のものです。
266年の倭人の遣使以前に面土国王が失脚して女王制は有名無実になっており、『梁書』『北史』にみえるように、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けていることが考えられます。スサノオを面土国王とし、天の岩戸から出てきた天照大神を台与とすると、男王はホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)になります。
『翰苑』にも台与の後の男王の存在を思わせる文があり、この文では413年に遣使した「倭の五王」の讃のように思える記述になっていますが、神話と関連させて考えると男王はホノニニギでなければいけません。『日本書紀』本文は次ぎのように記しています。
そこで皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主にしようと思われた。しかしその国には、蛍火のように光る多くの神、及びうるさい蠅のような邪まな神がいた。また草木のような名のないものまでが言い合っていた。
ホノニニギは天照大神の孫とされていますが、高天が原の主ではなく葦原中国の主にしようとされています。高天が原は女王の王都のある邪馬台国、あるいは女王国のことですが、それに対し葦原中国は出雲や大和を含めたすべての倭人の国を言います。
卑弥呼・台与を共立した当事者である面土国王は失脚しています。また卑弥呼・台与を「親魏倭王」に冊封した魏も滅亡寸前で冊封体制は機能していなかったことが考えられます。
弥生時代には部族が稍(230キロ四方)を支配する王を擁立しましたが、中国の冊封体制から離脱して部族を解体し、女王制から「氏姓制」に変えようということで、大和朝廷が成立しようとしているのです。
しかし台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねなかったようで、台与の退位、男王の即位に反対する者がいました。『日本書紀』第二の一書は本文とは少し違う伝承を記しています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に悪い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
本文のいう「蛍火の光く神、及び蠅聲す(さばえなす)邪しき神」が、天津甕星、またの名は天香香背男だというのです。そしてホノニニギ(台与の後の王)はフツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになります。
2011年1月30日日曜日
台与の後の王 その2
倭人伝の記事は台与が掖邪狗ら20人を魏に遣わした時点で終わっていますが、これは帯方郡使の張政の送還を兼ねたものでした。留学生などならいざ知らず郡使には任務を果たすと復命する義務がありますから、張政が266年まで倭国に居たとは考えられません。
掖邪狗らが魏に遣わされたのは247年か翌248年で、帰国したのは248年か翌249年でしょう。ところが掖邪狗らが魏都の洛陽に居たかも知れない249年(正始10年)に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。
以後の魏の皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬懿の子の司馬昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年~265年の7年間でしたが、260年に皇帝の高貴郷公は下臣に「司馬昭之心、路人皆知」と言って、逆クーデターを決行します。
高貴郷公は殺され司馬昭は元帝を擁立しますが、その翌年に韓と濊貊が遣使しています。司馬昭の演出した元帝の即位を祝う遣使だったのでしょう。この時倭人が遣使したという記録はありませんが、倭人も元帝の即位を知っていたことが考えられます。
『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった7年間に、何度かの倭人の遣使があったとしていますが、卑弥呼の例からみて遣使は3度か4度だったでしょう。その3・4度の遣使のうちに、元帝の即位を祝う遣使があったことが考えられます。
通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、司馬昭の時代に何度かの倭人の遣使があったのであれば、司馬昭が相国だった時かそれ以前に台与と、台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けている可能性があります。
2世紀末の倭国大乱は後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなったことに原因がありますが、司馬昭が相国だったのは魏が滅びる265年までの7年間でした。司馬昭は表面では元帝を皇帝として立てていましたが冊封体制は機能しなくなっていたでしょう。
司馬懿のクーデター決行以後、魏から「親魏倭王」に冊封された台与の権威が失墜し統治が不安定になるようです。文献にはありませんが、これを打開するために司馬昭の兄の司馬師の時にも倭人の遣使があったことを考える必要があるように思います。
249年(正始10年)以後、台与の王権は次第に弱体化し、男王を立てて倭国を統一する動きが出てくるようですが、このような動きが出てくるのは単に冊封体制が機能しなくなっただけでなく、倭国内の事情もあったようです。
それは女王を共立しなければならなかった倭国内の対立が消滅したことが原因になっているようです。私は2世紀末の倭国大乱も卑弥呼の死後に起きた千余人が殺される争乱も、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立だったと考えています。
倭国大乱を境にして銅矛・銅戈は中広形から広形に変わっていくようですが、後期前半の中広形の段階では銅矛・銅戈は同数か、むしろ銅戈のほうが多いように見えます。ところが後半の広形になると銅矛は増加し、逆に銅戈は3本ほどに激減しています。
倭国大乱で面土国王は卑弥呼を共立し、倭国王位を譲り渡します。このために銅戈を配布した部族は劣勢になり銅矛を配布した部族が優勢になるようです。しかし劣勢にはなったものの広形銅戈は配布されており、銅戈を配布した部族が消滅したわけではありません。
卑弥呼が死ぬと銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になり台与が共立されるようです。即位した台与は掖邪狗ら20人を魏に遣わしますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたでしょう。
掖邪狗らが魏から帰国すると、卑弥呼死後の争乱の当事者が「親魏倭王・台与」の名のもとに処罰され、面土国王は滅ぼされ銅戈を配布した部族が消滅するようです。このことは以前の投稿でも述べましたが、これがスサノオの追放の神話になっています。
面土国王が滅ぼされたことは倭国大乱で卑弥呼を共立し、また卑弥呼死後の争乱で台与を共立した一方の当事者がいなくなったということであり、女王の存在する理由がなくなったということです。こうして台与を退位させ男王を立てようとする動きが出てくるようです。
しかし台与を退位させることに反対する者があり、その妥協策として台与と男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けるようで、名目上の王の台与と実質上の男王という「二人の王」がいた時期があったと考えます。反対したのは物部の一支族だったと考えていますが、台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねない状況だったのでしょう。
掖邪狗らが魏に遣わされたのは247年か翌248年で、帰国したのは248年か翌249年でしょう。ところが掖邪狗らが魏都の洛陽に居たかも知れない249年(正始10年)に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。
以後の魏の皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬懿の子の司馬昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年~265年の7年間でしたが、260年に皇帝の高貴郷公は下臣に「司馬昭之心、路人皆知」と言って、逆クーデターを決行します。
高貴郷公は殺され司馬昭は元帝を擁立しますが、その翌年に韓と濊貊が遣使しています。司馬昭の演出した元帝の即位を祝う遣使だったのでしょう。この時倭人が遣使したという記録はありませんが、倭人も元帝の即位を知っていたことが考えられます。
『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった7年間に、何度かの倭人の遣使があったとしていますが、卑弥呼の例からみて遣使は3度か4度だったでしょう。その3・4度の遣使のうちに、元帝の即位を祝う遣使があったことが考えられます。
通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、司馬昭の時代に何度かの倭人の遣使があったのであれば、司馬昭が相国だった時かそれ以前に台与と、台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けている可能性があります。
2世紀末の倭国大乱は後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなったことに原因がありますが、司馬昭が相国だったのは魏が滅びる265年までの7年間でした。司馬昭は表面では元帝を皇帝として立てていましたが冊封体制は機能しなくなっていたでしょう。
司馬懿のクーデター決行以後、魏から「親魏倭王」に冊封された台与の権威が失墜し統治が不安定になるようです。文献にはありませんが、これを打開するために司馬昭の兄の司馬師の時にも倭人の遣使があったことを考える必要があるように思います。
249年(正始10年)以後、台与の王権は次第に弱体化し、男王を立てて倭国を統一する動きが出てくるようですが、このような動きが出てくるのは単に冊封体制が機能しなくなっただけでなく、倭国内の事情もあったようです。
それは女王を共立しなければならなかった倭国内の対立が消滅したことが原因になっているようです。私は2世紀末の倭国大乱も卑弥呼の死後に起きた千余人が殺される争乱も、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立だったと考えています。
倭国大乱を境にして銅矛・銅戈は中広形から広形に変わっていくようですが、後期前半の中広形の段階では銅矛・銅戈は同数か、むしろ銅戈のほうが多いように見えます。ところが後半の広形になると銅矛は増加し、逆に銅戈は3本ほどに激減しています。
倭国大乱で面土国王は卑弥呼を共立し、倭国王位を譲り渡します。このために銅戈を配布した部族は劣勢になり銅矛を配布した部族が優勢になるようです。しかし劣勢にはなったものの広形銅戈は配布されており、銅戈を配布した部族が消滅したわけではありません。
卑弥呼が死ぬと銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になり台与が共立されるようです。即位した台与は掖邪狗ら20人を魏に遣わしますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたでしょう。
掖邪狗らが魏から帰国すると、卑弥呼死後の争乱の当事者が「親魏倭王・台与」の名のもとに処罰され、面土国王は滅ぼされ銅戈を配布した部族が消滅するようです。このことは以前の投稿でも述べましたが、これがスサノオの追放の神話になっています。
面土国王が滅ぼされたことは倭国大乱で卑弥呼を共立し、また卑弥呼死後の争乱で台与を共立した一方の当事者がいなくなったということであり、女王の存在する理由がなくなったということです。こうして台与を退位させ男王を立てようとする動きが出てくるようです。
しかし台与を退位させることに反対する者があり、その妥協策として台与と男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けるようで、名目上の王の台与と実質上の男王という「二人の王」がいた時期があったと考えます。反対したのは物部の一支族だったと考えていますが、台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねない状況だったのでしょう。
2011年1月23日日曜日
台与の後の王 その1
2世紀末の倭国大乱の結果卑弥呼が共立されますが、畿内説では卑弥呼が即位したころ、あるいはそれ以前に畿内と北部九州が統合されていたことになります。一方の九州説だと神武天皇の東遷のような、九州勢力の畿内への移動を考える必要があります。
中国の諸王朝は異民族の強大な国が出現して敵対することを警戒して、その有力者に中国の官職を与えて懐柔する一方で、その支配領域を六百里四方(260キロ四方)に制限して分断を図りました。西島定生氏はこのような関係を「冊封体制」と言っています。
六百里四方に制限されていたというのは私の考えで、西島氏がそのように言われたのではありませんが、こう考えると東夷伝の地理記事が容易に理解できるようになります。六百里四方を「稍」と言い、「稍」には「王城を去ること三百里」という意味もあります。
韓伝・倭人伝以外の諸伝は六百里四方を「方二千里」としていますが、この場合の千里は130キロになります。倭人伝には「稍」の存在を思わせる記述はありませんが、韓伝・倭人伝の六百里四方は「方四千里」とされていて、この場合の千里は65キロになります。
卑弥呼も239年に魏から「親魏倭王」に冊封されますが、その支配領域は方六百里(260キロ四方)に制限されていました。そうであれば邪馬台国が畿内(大和)にあっても北部九州を支配することはできず、逆に邪馬台国が北部九州(筑紫)にあっても畿内を支配することはできません。
それどころか出雲や吉備(出雲)も支配できません。「稍」を認めると倭国大乱以前に畿内と北部九州が統合されていたとする畿内説は成立せず、それは倭人伝の記述の終わる正始8年(247)以後に畿内と北部九州が統合されたことになります。
247年以後に九州勢力の畿内への進出があったのか、逆に畿内勢力が北部九州を統合したかが問題になります。確かに三角縁神獣鏡や初期古墳の年代は247年以後でしょうが、畿内説では統合されたのは247年よりも以前になりますから、247年以後に畿内が九州を統合したとするには別の説明が必要です。
『古事記』『日本書記』の記述するところでは、九州勢力が畿内への進出したことになり、その前段階で出雲・吉備が統合され、四国が統合されたことになります。前回投稿の『宇佐説・その4』では、247年以後には安国寺式土器分布圏の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったと述べましたが、今回は「その後」を述べてみたいと思います。
『日本書記』神功皇后紀は『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされていますが、『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける
「竝」には同列に並べるという意味があり、この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられています。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃のことを言っていると考えることもできそうですが、年代差があまりにも大き過ぎます。『晋書』武帝紀に次の文が見えます。
其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるがその後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使したというのです。
265年に晋の武帝が即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使していますが、これが「泰始初、遣使重譯入貢」です。『晋書』武帝紀によると台与の即位した247年から266年までの間に何度かの倭人の遣使があったことになります。
台与の後の男王の末裔が「倭の五王」の讃だと考えることもできそうですが、これでは266年の遣使が説明できません。『晋書』武帝紀の記事では266年よりも以前に、台与の後の男王が中国の爵命を受けるために遣使したとすることが可能になってきます。
中国の諸王朝は異民族の強大な国が出現して敵対することを警戒して、その有力者に中国の官職を与えて懐柔する一方で、その支配領域を六百里四方(260キロ四方)に制限して分断を図りました。西島定生氏はこのような関係を「冊封体制」と言っています。
六百里四方に制限されていたというのは私の考えで、西島氏がそのように言われたのではありませんが、こう考えると東夷伝の地理記事が容易に理解できるようになります。六百里四方を「稍」と言い、「稍」には「王城を去ること三百里」という意味もあります。
韓伝・倭人伝以外の諸伝は六百里四方を「方二千里」としていますが、この場合の千里は130キロになります。倭人伝には「稍」の存在を思わせる記述はありませんが、韓伝・倭人伝の六百里四方は「方四千里」とされていて、この場合の千里は65キロになります。
卑弥呼も239年に魏から「親魏倭王」に冊封されますが、その支配領域は方六百里(260キロ四方)に制限されていました。そうであれば邪馬台国が畿内(大和)にあっても北部九州を支配することはできず、逆に邪馬台国が北部九州(筑紫)にあっても畿内を支配することはできません。
それどころか出雲や吉備(出雲)も支配できません。「稍」を認めると倭国大乱以前に畿内と北部九州が統合されていたとする畿内説は成立せず、それは倭人伝の記述の終わる正始8年(247)以後に畿内と北部九州が統合されたことになります。
247年以後に九州勢力の畿内への進出があったのか、逆に畿内勢力が北部九州を統合したかが問題になります。確かに三角縁神獣鏡や初期古墳の年代は247年以後でしょうが、畿内説では統合されたのは247年よりも以前になりますから、247年以後に畿内が九州を統合したとするには別の説明が必要です。
『古事記』『日本書記』の記述するところでは、九州勢力が畿内への進出したことになり、その前段階で出雲・吉備が統合され、四国が統合されたことになります。前回投稿の『宇佐説・その4』では、247年以後には安国寺式土器分布圏の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったと述べましたが、今回は「その後」を述べてみたいと思います。
『日本書記』神功皇后紀は『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされていますが、『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける
「竝」には同列に並べるという意味があり、この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられています。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃のことを言っていると考えることもできそうですが、年代差があまりにも大き過ぎます。『晋書』武帝紀に次の文が見えます。
其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるがその後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使したというのです。
265年に晋の武帝が即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使していますが、これが「泰始初、遣使重譯入貢」です。『晋書』武帝紀によると台与の即位した247年から266年までの間に何度かの倭人の遣使があったことになります。
台与の後の男王の末裔が「倭の五王」の讃だと考えることもできそうですが、これでは266年の遣使が説明できません。『晋書』武帝紀の記事では266年よりも以前に、台与の後の男王が中国の爵命を受けるために遣使したとすることが可能になってきます。
2011年1月16日日曜日
宇佐説 その4
「高天が原神話」は出雲や日向の神話と対比されて「筑紫神話」とも呼ばれますが、その舞台は筑紫だと考えてよさそうです。そうであれば筑紫に高天が原で活動する神を祭る神社があってもよさそうなものですが、それが多くありません。
天照大神は伊勢で祭られ、宗像大社で祭られていても良さそうなスサノオは出雲や紀伊で祭られ、イザナギ・イザナミも淡路・出雲・紀伊・近江で祭られ、これらの神の子神だけが取り残されたように筑前で祭られています。
筑紫にあった政治の中心が大和に移ると、主要な神は九州から大和とその周辺に移動しますが、さらに各地で応神天皇・神功皇后が祀られるようになったことで、九州の神社の祭神が変わるのでしょう。宇佐氏・辛島氏の祀る大日靈・豐比賣は比賣大神になり、宗像氏・大神氏が祭っていたのはスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
神功皇后紀の編纂者は天照大神を中心とする九州勢力の歴史観に異質なものを感じているようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っていて、その上で卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせて天照大神の痕跡を消そうとしています。
神功皇后紀の編纂者は初期の大和朝廷、いわゆる葛城王朝が卑弥呼・台与の王統を継承していると称したのに対して、政治の中心は九州から畿内に移って大和朝廷は確立しており、卑弥呼・台与の王統を継承していると称する必要はないと言いたいようです。このことは次のような点からも考えられます。
1、2世紀の面土国は筑前宗像郡
2、3世紀の伊都国・奴国は玄界灘沿岸ではなく遠賀川流域
3、草野津・宇佐は玄界灘ではなく周防灘に面している
57年に遣使した奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡であり、107年に遣使した面土国は宗像郡だと考えていますが、1世紀中葉から2世紀の時点で、中心は玄界灘沿岸から筑前東部の遠賀川流域に移っているようです。
さらに3世紀前半の卑弥呼の王城は玄界灘沿岸を離れて内陸の朝倉郡に移ると考えています。倭国大乱で共立された卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、玄界灘沿岸を避けたことも考えられますが、朝倉郡が筑前、筑後、豊前・豊後の地理上の中心になることが考慮されているのでしょう。

3世紀中葉の台与の時代には、文化の中心が玄界灘沿岸や筑前東部の遠賀川流域から周防灘沿岸に移り、宇佐や長峡川々口の草野津が重視されるようになると考えます。
図は後期後半の土器の分布圏ですが、九州説では高三潴式が邪馬台国の土器になり、畿内説だと唐古Ⅴ式が邪馬台国の土器ということになりそうです。
肥後と肥前の長崎県部分の土器が狗奴国の土器であり、薩摩・大隅の土器が侏儒国の土器ですが、これらは土着性の強い土器です。それに対し豊前・豊後・日向に分布する安国寺式は畿内や瀬戸内の土器の影響を受けていると言われています。
これは地理的な条件から九州西部が畿内や瀬戸内と交流を持つことができなかったということで、女王国が畿内や瀬戸内との交流の拠点としたのが安国寺式土器分布圏の宇佐であり、また長峡川河口の草野津であったと考えます。
瀬戸内海の航路を考えると高三潴式と唐古Ⅴ式の中間の土器が安国寺式ということになります。物的根拠が少ないのが難点ですが、台与の時代から3世紀後半に弥生時代が終わるまで、文化の中心は安国寺式土器の分布圏だったと考えます。
四国西部に広形銅矛の見られることはよく知られていますが、安国寺式土器の分布圏が中心になったことで、山陰の青木Ⅱ式や吉備の上東式の分布圏との接触も始まるのでしょう。神武天皇の東遷の出発点が日向の美々津とされ、途中、宇佐に立ち寄るとされているのも無関係ではないようです。
この時期の記憶が『豊前国風土記』の京都郡の郡名の由来や、宇佐神宮の比賣大神に残って、京都郡や宇佐郡を邪馬台国とする説が生まれたのであり、このことが認識されていないために、玄界灘沿岸と大和との文化の関連性が不明瞭になるようです。
天照大神は伊勢で祭られ、宗像大社で祭られていても良さそうなスサノオは出雲や紀伊で祭られ、イザナギ・イザナミも淡路・出雲・紀伊・近江で祭られ、これらの神の子神だけが取り残されたように筑前で祭られています。
筑紫にあった政治の中心が大和に移ると、主要な神は九州から大和とその周辺に移動しますが、さらに各地で応神天皇・神功皇后が祀られるようになったことで、九州の神社の祭神が変わるのでしょう。宇佐氏・辛島氏の祀る大日靈・豐比賣は比賣大神になり、宗像氏・大神氏が祭っていたのはスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
神功皇后紀の編纂者は天照大神を中心とする九州勢力の歴史観に異質なものを感じているようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っていて、その上で卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせて天照大神の痕跡を消そうとしています。
神功皇后紀の編纂者は初期の大和朝廷、いわゆる葛城王朝が卑弥呼・台与の王統を継承していると称したのに対して、政治の中心は九州から畿内に移って大和朝廷は確立しており、卑弥呼・台与の王統を継承していると称する必要はないと言いたいようです。このことは次のような点からも考えられます。
1、2世紀の面土国は筑前宗像郡
2、3世紀の伊都国・奴国は玄界灘沿岸ではなく遠賀川流域
3、草野津・宇佐は玄界灘ではなく周防灘に面している
57年に遣使した奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡であり、107年に遣使した面土国は宗像郡だと考えていますが、1世紀中葉から2世紀の時点で、中心は玄界灘沿岸から筑前東部の遠賀川流域に移っているようです。
さらに3世紀前半の卑弥呼の王城は玄界灘沿岸を離れて内陸の朝倉郡に移ると考えています。倭国大乱で共立された卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、玄界灘沿岸を避けたことも考えられますが、朝倉郡が筑前、筑後、豊前・豊後の地理上の中心になることが考慮されているのでしょう。
3世紀中葉の台与の時代には、文化の中心が玄界灘沿岸や筑前東部の遠賀川流域から周防灘沿岸に移り、宇佐や長峡川々口の草野津が重視されるようになると考えます。
図は後期後半の土器の分布圏ですが、九州説では高三潴式が邪馬台国の土器になり、畿内説だと唐古Ⅴ式が邪馬台国の土器ということになりそうです。
肥後と肥前の長崎県部分の土器が狗奴国の土器であり、薩摩・大隅の土器が侏儒国の土器ですが、これらは土着性の強い土器です。それに対し豊前・豊後・日向に分布する安国寺式は畿内や瀬戸内の土器の影響を受けていると言われています。
これは地理的な条件から九州西部が畿内や瀬戸内と交流を持つことができなかったということで、女王国が畿内や瀬戸内との交流の拠点としたのが安国寺式土器分布圏の宇佐であり、また長峡川河口の草野津であったと考えます。
瀬戸内海の航路を考えると高三潴式と唐古Ⅴ式の中間の土器が安国寺式ということになります。物的根拠が少ないのが難点ですが、台与の時代から3世紀後半に弥生時代が終わるまで、文化の中心は安国寺式土器の分布圏だったと考えます。
四国西部に広形銅矛の見られることはよく知られていますが、安国寺式土器の分布圏が中心になったことで、山陰の青木Ⅱ式や吉備の上東式の分布圏との接触も始まるのでしょう。神武天皇の東遷の出発点が日向の美々津とされ、途中、宇佐に立ち寄るとされているのも無関係ではないようです。
この時期の記憶が『豊前国風土記』の京都郡の郡名の由来や、宇佐神宮の比賣大神に残って、京都郡や宇佐郡を邪馬台国とする説が生まれたのであり、このことが認識されていないために、玄界灘沿岸と大和との文化の関連性が不明瞭になるようです。
2011年1月9日日曜日
宇佐説 その3
国名のみの21ヶ国の最後の奴国は豊後直入郡だと考えていますが、その直入郡の郡境の祖母山には大神氏の始祖伝承があり、また大野川流域には大神氏の伝承が幾つもあります。そして『後漢書』には次の文があります。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり
この奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻、穂波の3郡だと考えます。また「倭國の極南界なり」と倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じで、「倭國の極南界」とは倭人伝の国名のみの21ヶ国の最後の奴国のことだと考えています。
その極南界の奴国が豊後直入郡であり、大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようです。豊後の大神氏については大和の大神氏の分流という説もありますが、1世紀には大野川流域の大野郡・直入郡を勢力基盤にしていました。国名が同じであることから見ても、遠賀川流域の奴国王と密接な関係にあることが推察されます。
前回述べたように宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖のようで、筑前の宗像氏とも同族関係にあったようです。宗像氏の遠祖が面土国王ですが、面土国王は「自女王国以北」の面土国・奴国・不弥国を「州刺史の如く」支配していました。
面土国王は卑弥呼と対立するような関係にあったようですが、大神氏は面土国や奴国と連携しつつ豊前に勢力を伸張し、宇佐氏の大日靈(おおひるめ)、辛島氏の豐比賣(豐比咩)に対抗して、宇佐神宮に宗像3女神の信仰を持ち込むと考えます。
九州は南北に長く中央に山塊がありますが、その山塊を源流とする河川流域が東西の交通路になっています。そのうちでも豊後の筑後川・大分川流域と大野川流域、及び豊前の長峡川流域の道が重視され、律令時代には大宰府を中心とする官道として整備されています。
大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て、長峡川河口の草野津(かやのつ)に到るのが「田河路」で、そこには奴国と伊都国がありましたが、卑弥呼・台与は伊都国(田川郡)に一大率を配置して長峡川河口の草野津を確保し、豊前北部の辛島氏を支配していたでしょう。
大宰府から筑後川・大分川沿いに豊後灘に到るのが「豊後路」で、大野川沿いに豊後と肥後を結ぶのが「豊後・肥後路」ですが、豊後・肥後路沿いは大神氏の勢力基盤です。銅矛・銅戈の分布から見て、豊後路沿いの地域には大神氏の支配は及んでいなかったようです。

律令制官道ではありませんが、豐築国境に英彦山を主峰とする山塊があるという地理的条件から、日田郡で豊後路から分岐して周防灘に到る山国川沿いの道と、玖珠郡で分岐して周防灘に到る駅館川沿いの道があって、周防灘と筑後川流域を結び付けています。
駅館川沿いの道は宇佐氏の勢力圏ですが、ここが豊前と豊後の境になります。卑弥呼・台与は豊前・豊後を宇佐氏に統治させ、大神氏の勢力が豊後路に及ぶのを阻止させたと考えます。それは周防灘を支配下に置いて吉備や大和との海路を確保するということでもあるようです。
倭人伝には記述がありませんが、宇佐には田河路における伊都国(田川郡)のような役割があり、宇佐氏は一大率のような立場にあったのでしょう。それに対し大神氏は「自女王国以北」の面土国王や奴国王と連携して、豊後を「刺史の如く」支配していたと考えます。
宇佐と卑弥呼・台与には関係がありそうですが、邪馬台国とする積極的な根拠は見えません。宇佐は豊後北部を勢力圏とする辛島氏、豊前南部を勢力圏とする土着の宇佐氏、そして豊後の大神氏という3勢力の抗争の地だったでしょう。
朝廷が宇佐神宮に遣わす勅使を「宇佐使い」と言い、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件のように、かつては伊勢神宮よりも重視されていました。伊勢神宮の祭祀が確立する以前の天照大神は宇佐で祭られていたのでしょう。
天照大神が伊勢で祭られるようになって、宇佐氏の祀る大日靈(天照大神、卑弥呼)は伊勢神宮内宮の天照大神になり、辛島氏の祀る豐比賣(豐比咩、台与)は外宮の豊受大神になると考えると面白いと思います。
その理由はよくわかりませんが、宇佐に神功皇后が祭られるようになったことで、大日靈と豐比賣は合成されて比賣大神になり、大神氏が祭っていたのは、元来はスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり
この奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻、穂波の3郡だと考えます。また「倭國の極南界なり」と倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じで、「倭國の極南界」とは倭人伝の国名のみの21ヶ国の最後の奴国のことだと考えています。
その極南界の奴国が豊後直入郡であり、大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようです。豊後の大神氏については大和の大神氏の分流という説もありますが、1世紀には大野川流域の大野郡・直入郡を勢力基盤にしていました。国名が同じであることから見ても、遠賀川流域の奴国王と密接な関係にあることが推察されます。
前回述べたように宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖のようで、筑前の宗像氏とも同族関係にあったようです。宗像氏の遠祖が面土国王ですが、面土国王は「自女王国以北」の面土国・奴国・不弥国を「州刺史の如く」支配していました。
面土国王は卑弥呼と対立するような関係にあったようですが、大神氏は面土国や奴国と連携しつつ豊前に勢力を伸張し、宇佐氏の大日靈(おおひるめ)、辛島氏の豐比賣(豐比咩)に対抗して、宇佐神宮に宗像3女神の信仰を持ち込むと考えます。
九州は南北に長く中央に山塊がありますが、その山塊を源流とする河川流域が東西の交通路になっています。そのうちでも豊後の筑後川・大分川流域と大野川流域、及び豊前の長峡川流域の道が重視され、律令時代には大宰府を中心とする官道として整備されています。
大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て、長峡川河口の草野津(かやのつ)に到るのが「田河路」で、そこには奴国と伊都国がありましたが、卑弥呼・台与は伊都国(田川郡)に一大率を配置して長峡川河口の草野津を確保し、豊前北部の辛島氏を支配していたでしょう。
大宰府から筑後川・大分川沿いに豊後灘に到るのが「豊後路」で、大野川沿いに豊後と肥後を結ぶのが「豊後・肥後路」ですが、豊後・肥後路沿いは大神氏の勢力基盤です。銅矛・銅戈の分布から見て、豊後路沿いの地域には大神氏の支配は及んでいなかったようです。

律令制官道ではありませんが、豐築国境に英彦山を主峰とする山塊があるという地理的条件から、日田郡で豊後路から分岐して周防灘に到る山国川沿いの道と、玖珠郡で分岐して周防灘に到る駅館川沿いの道があって、周防灘と筑後川流域を結び付けています。
駅館川沿いの道は宇佐氏の勢力圏ですが、ここが豊前と豊後の境になります。卑弥呼・台与は豊前・豊後を宇佐氏に統治させ、大神氏の勢力が豊後路に及ぶのを阻止させたと考えます。それは周防灘を支配下に置いて吉備や大和との海路を確保するということでもあるようです。
倭人伝には記述がありませんが、宇佐には田河路における伊都国(田川郡)のような役割があり、宇佐氏は一大率のような立場にあったのでしょう。それに対し大神氏は「自女王国以北」の面土国王や奴国王と連携して、豊後を「刺史の如く」支配していたと考えます。
宇佐と卑弥呼・台与には関係がありそうですが、邪馬台国とする積極的な根拠は見えません。宇佐は豊後北部を勢力圏とする辛島氏、豊前南部を勢力圏とする土着の宇佐氏、そして豊後の大神氏という3勢力の抗争の地だったでしょう。
朝廷が宇佐神宮に遣わす勅使を「宇佐使い」と言い、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件のように、かつては伊勢神宮よりも重視されていました。伊勢神宮の祭祀が確立する以前の天照大神は宇佐で祭られていたのでしょう。
天照大神が伊勢で祭られるようになって、宇佐氏の祀る大日靈(天照大神、卑弥呼)は伊勢神宮内宮の天照大神になり、辛島氏の祀る豐比賣(豐比咩、台与)は外宮の豊受大神になると考えると面白いと思います。
その理由はよくわかりませんが、宇佐に神功皇后が祭られるようになったことで、大日靈と豐比賣は合成されて比賣大神になり、大神氏が祭っていたのは、元来はスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
2011年1月2日日曜日
宇佐説 その2
もう一つの宇佐神宮の特殊神事の行幸会神事は、大分県中津市大貞の薦神社境内にある三角池(御澄池とも)で刈り取られたマコモ(真薦、苽)で枕が調製され、調製された新しい薦枕が宇佐郡内の10社を巡幸する神事です。

巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。
この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。
前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。
薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。
薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。
不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。
大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。
鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。
それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。
平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。
即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。
「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。
この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。
周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。
豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。

巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。
この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。
前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。
薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。
薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。
不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。
大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。
鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。
それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。
平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。
即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。
「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。
この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。
周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。
豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。
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