2011年1月2日日曜日

宇佐説 その2

もう一つの宇佐神宮の特殊神事の行幸会神事は、大分県中津市大貞の薦神社境内にある三角池(御澄池とも)で刈り取られたマコモ(真薦、苽)で枕が調製され、調製された新しい薦枕が宇佐郡内の10社を巡幸する神事です。

巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。

この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。

前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。

薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。

薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。

不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。

大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。

鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。

それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。

平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。

即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。

「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。

この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。

周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。

豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。

2010年12月26日日曜日

宇佐説 その1

九州の古代史は神功皇后によって霍乱されているようですが、その顕著なのが玄界灘沿岸の松浦半島から福岡平野にかけての地域と、周防灘沿岸の宇佐神宮だと言えます。宇佐神宮の祭神は一の御殿応神天皇、二の御殿比賣大神三の御殿神功皇后とされています。

宇佐神宮の主祭神は二の御殿の比賣大神だと考えられていますが、この神のことはほとんど知られていません。そこから宇佐を邪馬台国とする説も出てくるようですが、畿内説・九州説を見てきた流れで、推察になりますが宇佐説を考えてみたいと思います。

伊都国は糸島郡ではなく田河郡だと考え、国名のみの21ヶ国の2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったと考えています。3番目の伊邪国が京都郡であり8番目の沮奴国が宇佐郡で、宇佐が邪馬台国だとは考えていません。

宇佐神宮の二大特殊神事に放生会神事と行幸会神事があり、放生会神事は戦死した大隅・日向の隼人を慰霊する神事として知られ、行幸会神事はマコモ(真薦、苽)で作られた枕が、宇佐郡内各地を巡幸した後に海に流されるというものです。

放生会神事では、神事に先立って田川郡香春町採銅所の古宮八幡宮清祀殿で宇佐神宮の御正体(神体)の銅鏡が鋳造されていました。鋳造に当っては古宮八幡宮神官の鶴賀氏による神事が行なわれ、それには勅使の下向があり大宰府の官人も参加したということです。

清祀殿の中は土間で中央に鍛冶床があり、清祀殿横の長光家が鏡の鋳造に当ったと言われています。鋳造された御正体は輿に乗せられ途中の神社に立ち寄りながら宇佐市和間浜にある、宇佐神宮の浮殿に運ばれ、後に宇佐神宮に納められました。

香春町採銅所には神間歩(かみまぶ)と呼ばれる銅の採掘跡あり、このことから採銅所という地名が生まれました。私はこの神事について、全国に4万はあるといわれている八幡宮の神体の鏡が、かつては香春で鋳造されたことを示していると考えています。

この神事は享保8年(1723)以後途絶えていたが再興され、今では清祀殿で鏡が鋳造されることはなく、出来物の鏡をトラックで運ぶということです。かつての和間浜の浮殿はその名のように寄藻川の水面に浮かぶように建てられていました。

浮殿については宗像大社の浜殿と同様の船が祠になったものだと考えています。宇佐神宮の末社が創建されると、その神体の鏡が香春岳の銅で鋳造されて宇佐に運ばれ、寄藻川の河口で船に積み込まれて各地に送られたことを伝えているのでしょう。

古宮八幡宮と密接な関係を持つ香春町香春の香春神社の祭神は、第一殿辛国息長大姫大目命、第二殿忍骨命、第三殿豐比賣命ですが、第一殿の辛国息長大姫大目命は、赤染氏・鶴賀氏など辛国(新羅)からの渡来民の祭る神と、息長大姫(神功皇后、及び土着民の祭る大目命が合成されたものだと考えます。

香春神社第二殿の忍骨命は天照大御神の子とされる忍穗耳命の別名ですが、このことから天照大神の別名の日靈(おおひるめ)から「ひる」が滑落して「おおめ」となったのが、第一殿の大目命(おおまのみこと)ではないかと考えます。

香春神社第三殿の豐比賣命は空殿で神体がなく、豐比賣命は香春神社の祭礼の時だけ古宮八幡宮から第三殿に来るとされています。このことから古宮八幡宮は香春神社の元宮と言われ、その祭神は豐比咩命、応神天皇、神功皇后です。

『先代旧事本紀』は『日本書記』第一の一書に見える稚日女(わかひるめ)を天照大神の妹としていますが、神功皇后にも豊比売という妹がいるとされています。香春神社第一殿の息長大姫が神功皇后であるのに対し、第三殿の豐比賣命は「息長稚姫」だというのでしょう。

神話に蛭子(ひるこ)という神が登場しますが、ヒルコからルが滑落したものが「彦」で男性を表し、ヒルメからルが滑落したものがヒメ(姫・媛)で女性を表します。大日靈は卑弥呼であり、稚日女が台与で、それが合成されて天照大御神になるようです。

香春で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。五色の着物を着ていて何事でも見通すことができるが、その姿が見えるのは修行を積んだ者だけだというものです。豊前一帯に豐比賣(豐比咩)の信仰があることが考えられます。

香春神社第三殿の豐比賣命が空殿になっていること、及び宇佐神宮の神鏡の鋳造に古宮八幡宮が係わっていることみると、宇佐神宮の比賣大神は香春神社の豐比賣命、及び古宮八幡宮の豐比咩と同神であり、それは台与であることが考えられます。

2010年12月19日日曜日

九州説 その4

前回には女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けてみましたが、さらに国名のみの21ヶ国を「自女王国以東」「自女王国以西」に区分すると、女王国の構造がより明確になってきます。

大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て長峡川河口の草野津(かやのつ)に到る、律令制官道の田河路沿いに奴国と伊都国があると考えていますが、そこは倭人伝のいう「自女王国以北」で、そこは面土国王が「刺史の如く」支配している地域です。

豊後(図の大分県部分)には国名のみの21ヶ国のうちの16番目の邪馬国(日田郡)から21番目の奴国(直入郡)までの6ヶ国がありました。(2010年4月投稿『再考・国名のみの21ヶ国』)これを「自女王国以東」とみるのがよいようです。

肥前を横断する肥前路沿いの地域(図の佐賀県部分)が「自女王国以西」で、ここには9番目の対蘇国(基肄郡)から15番目の鬼奴国(杵島郡)までの7ヶ国があったようです。

また豊前には2番目の巳百支国(企救郡)から8番目の沮奴国(宇佐郡)までの7ヶ国がありました。これは「自女王国以北」とも「自女王国以東」とも見ることができますが、倭人伝は「自女王国以北」を遠賀川流域に限定しており、この7ヶ国は国名のみの21ヶ国の範疇に入れています。

女王国の中央に卑弥呼の王城のある邪馬台国があり、卑弥呼の王城の北が「自女王国以北」であって、東西に国名のみの21ヶ国があることになります。投馬国は卑弥呼の王城の南にある「自女王国以南」の国です。

弥生時代は部族が王を擁立する「部族制社会」だったと考えますが、部族の原形は宗族間の通婚が重なって形成された自然発生的な地縁・血縁集団でしょう。部族が国を形成したものが部族国家で、部族国家は古墳時代になると国造・県主・稲置・君・公などの姓(かばね)を与えられた部族長が支配し、律令時代になると郡になるようです。

部族国家が統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になりますが、紀元前1世紀に倭の百余国が遣使するまで、筑前西半の各郡はそれぞれ部族国家を形成していたでしょうが、百余国の遣使以後には統合が進んだことにより、部族国家と部族連盟国家の中間の形態の邪馬台国が形成されるようです。

戸数二万の奴国は田河路沿いの鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、この場合の郡当たりの戸数は約7千戸になります。伊都国のように千戸程度の国もありますが、平野部の人口密度の高い国の戸数は7千戸になるようです。

戸数七万の邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の、西半の10郡ほどになりそうです。筑前西半には上座・下座・夜須・三笠・糟屋・席田・那珂・早良・怡土・志麻の10郡がありますが、邪馬台国は志麻郡を除く9郡と考えるのがよいようです。

考古学的な面から見ても地政学的な面から見ても、邪馬台国は福岡平野を中心とする筑前西半に在ったと見るのが妥当です。筑前西半が統合されるについては、その中核になったのは春日市の須玖岡本遺跡の周辺(那珂郡)だと見るのがよさそうです。

しかし卑弥呼は倭国大乱を鎮めるために王になりました。卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、福岡平野の中心部を避けて、筑前・筑後だけでなく肥前と豊後にも接している朝倉郡・夜須郡を王城の地としたと考えます。

志麻郡は国名のみの21ヶ国の最初の斯馬国であり、志麻も斯馬もかつて糸島半島が島であったことによる郡名・国名だと考えます。島であったために戸数も少なく対岸の怡土郡との通婚も希薄で、部族国家の状態を脱することができず、邪馬台国に統合されることがなかったのでしょう。

「自女王国以東」の豊前・豊後に13ヶ国、及び「自女王国以西」の肥前の佐賀県部分に7ヶ国があったことになり、その合計は20ヶ国になります。三郡山地以西の筑前に斯馬国以外の国名のみの21ヶ国が存在する余地はないようです。

投馬国は筑後だと考えますが、国の平均戸数を7千戸とすると、戸数五万の投馬国は律令制の7郡ほどになりそうです。筑後は10郡ですが筑後川の沖積や、流域の治水が進んだことなどにより郡数が増したことが考えられ、筑後にも国名のみの21ヶ国はなかったでしょう。

2010年12月12日日曜日

九州説 その3

前回には「第3の読み方」が可能であることを述べましたが、面土国は3世紀にも実在していました。それは筑前宗像郡であり、方位・距離の起点は宗像市田熊・土穴付近です。そして面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しています。

1、従郡至倭、循海岸水行、暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国
2、始度一海千余里、至対海国
3、又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国
4、又渡一海千余里、至末盧国

末盧国までは「循海岸水行」「暦韓国」「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」の文字や文が示しているように明らかに直線行程ですが、伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られなくなります。

5、南陸行五百里、到伊都国
6、東南至奴国百里
7、東行至不弥国百里
8、南至投馬国、水行二十日
9、南至邪馬台国、女王之所都、水行十日水行一月

倭人伝の地理記事には末盧国と伊都国の間に断絶がありますが、この断絶について高橋善太郎氏は伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られないことから、末盧国を起点とする放射行程だとしています。

全体を直線行程とする説がありこれもやはり微妙ですが、私は女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けるのがよいと考えています。

国名のみの21ヶ国のグループ分けには異論はないでしょうが、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする放射行程説に従うと、末盧国までが「従郡至倭」の行程の国であり、少なくとも伊都・奴・不弥の3ヶ国「自女王国以北」の国になります。

「自女王国以北」があるのであれば「自女王国以南」や「自女王国以西」「自女王国以東」もなければいけませんが、倭人伝には「自女王国以南」という記述はありません。実はこの「自女王国以南」という観念がないために混乱が生じています。

倭人伝に「自女王国以北、其戸数道里、可得略載、其余傍国遠絶、不可得詳」とあります。中国人が地理を示す場合には王城が中心になりますが、「自」は起点のことで倭国の王城、すなわち卑弥呼の王城が「自」になります。

伊都国・奴国、不弥国の距離は示されていますが、邪馬台国・投馬国の距離は示されていません。卑弥呼の王城よりも北が「自女王国以北」で、そこに伊都・奴、不弥の3ヶ国があり、戸数と道里を略載することができるというのです。

邪馬台国は女王国の中央にある「自」そのものであり、投馬国は「自女王国以南」の国になります。倭人伝の記述目的からすれば投馬国・邪馬台国は「自女王国以南」にある「其の余の傍国」なのです。

しかし戸数7万・5万の大国を国名のみの21ヶ国と同一視することはできず、方位と戸数は記しているものの道里は省略しています。倭人伝は邪馬台国や投馬国の位置を述べようとはしていません。私たちがそう思っているだけなのです。

直線行程説には「自女王国以南」という認識がなく、伊都国~投馬国間が「水行二十日」とされ、投馬国~邪馬台国間が「水行十日陸行一月」とされています。放射行程説も同様で投馬国の位置が定まらず、恣意的に決められています。

前回の投稿では「於国中有如刺史」は仮定条件を伴っている文で、「於」は「自女王国以北」に懸かる文字であることを述べました。「自女王国以北」が卑弥呼の王城のある邪馬台国や「自女王国以南」の投馬国に対して、中国の州のように半ば独立した状態にある仮定されています。「半ば独立した状態」であることに留意する必要があるようです。

「有」の文字は伊都国とは別に「刺史の如き者」のいる国が有ることを表していますが、その国が面土国であり、面土国も「自女王国以北」の国に含まれます。九州説にも説得力がないのは面土国の存在が考えられていないからです。

2010年12月5日日曜日

九州説 その2

宇美を不弥国とし糸島郡を伊都国とし、那珂郡を奴国とする通説を肯定すると邪馬台国の位置論は混迷しますが、それは現状を見れば明らかで「神功皇后の呪縛」が横行しているようです。九州説も通説から離れないと事実は見えてこないように思われます。

伊都国・奴国を佐賀平野・筑後平野方面とする説がありますが、これらの説は南を東の誤りとし、糸島郡を伊都国とする通説を否定することから生れたもので、結論はどうであれ通説から離れる姿勢は評価されるべきだと思います。

私は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半を邪馬台国とし、東半には面土国・伊都国・奴国・不弥国があったと考えていますが、古田武彦氏も邪馬台国を福岡平野とされていて、筑前西半に伊都・奴・不弥・邪馬台の4ヶ国があったとされています。

伊都国は糸島郡の半島部分、奴国は糸島郡の平野部分、不弥国は福岡平野東部の海岸地帯、邪馬台国は福岡平野とされています。古田氏の立論は難解で私には理解ができないのですが、投馬国は九州南端の薩摩・大隈とされています。

推察になりますが古田氏も通説から離れることができず、通説で奴国とされている福岡平野を戸数七万の邪馬台国としたために、二万の奴国を糸島郡の平野部分としなければならず、五万の投馬国を薩摩・大隈としなければならなかったのでしょう。

このような状況は通説に囚われたことにより生じていますが、これを打破する考え方はあるでしょうか。しつこく述べるのでうんざりされるでしょうが、新しい解釈が出てきたのでまた繰り返します。

租賦を収めるに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易す。大倭をして之を監す。女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

「国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り」と訳した部分の原文は「於国中有如刺史」ですが、『大辞泉』によると「於」の文字が用いられるのは 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき、だということです。

時間を表すときには「の時に」という意味になり、場所を表す場合には「で」「にて」という意味になるということですが、場合や事柄を表すときには「に関して」「について」「にあって」という意味になるのだそうです。

一大率があたかも刺史のようだという通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味になるようです。しかし「に関して」「について」では意味が不明瞭になります。通説は「伊都国中にあって刺史の如し」という意味に解釈されているようです。

この「にあって」は「に有って」という意味ではなく、国の中での「刺史の如き者の立場」が述べられています。この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国の存在は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。

「於国中有」の文字が見られるのは4の、仮定条件の伴う場合だということのようです。その場合には係助詞の「は」が付随して意味が変わり、「国中に於いては刺史の如き有り」となり、この文には何かが仮定されており、条件が伴っています

倭人伝中の各国には官と副(官)が置かれており、官は中国の郡太守に相当するようです。その郡太守よりも上位に「州刺史」がいますが、魏・晋代の刺史は前漢代のそれとは違い最高位の地方行政官で、州の長官です。その仮定条件は「中国の州」のようです。

通説の解釈との違いは微妙ですが、伊都国は中国の郡に相当し、州に相当するとは思えません。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定されているのです。それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になっています。

「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「州刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。私はこれを「第3の読み方」と言っています。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということで、漢文でも「於」の文字は仮定条件の伴う時に使用されるようです。「第3の読み方」は可能のようで、「自女王国以北」に面土国が存在したと考えてよいようです。

2010年11月28日日曜日

九州説 その1

「三角縁神獣鏡」「纒向遺跡」を考察するつもりでしたが、いつの間にか畿内説批判になってしまいました。いずれにしても三角縁神獣鏡・纒向遺跡は邪馬台国・卑弥呼と関係はなく、初期大和朝廷との関連を考えるのがよさそうです。

では九州説はどうかというと九州説も諸説乱立で、一つにまとめたらどうかと揶揄されて今一つ説得力がありません。一般に方位では九州説が、距離では畿内説が有利だとされていますが問題点は幾つもあります。

1、通説では伊都国は糸島郡とされ、奴国は福岡平野とされている
2、通説では南は東の誤りとされている
3、邪馬台国は「水行十日・陸行一月」、投馬国は「水行二十日」とされている
4、直線行程説と放射行程説がある
5、一里が何メートルになるのか分からない

これではどのような恣意的解釈も可能で、自分の思うところが邪馬台国になります。こうした矛盾の根本的な原因は『日本書記』神功皇后紀が三十九年・四十年・四十三年条に『魏志』の文を引用し、また六十六年条に『晋起居注』の文を引用して皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることにありそうです。

また『古事記』は三韓を征伐した後の皇后が筑紫で応神天皇を出産する時の状景を次のように述べています。いわゆる「鎮懐石伝承」ですが、これにも皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする目的があるようです。

即ち御腹を鎮めようとされて、石を御裳の腰に纏いて、筑紫国に渡りその御子を産まれた。故、その御子の生れた地を名付けて宇美(うみ)という。またその御裳に纏いた石は筑紫の伊斗村(いとのむらにある。また筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り、その河辺で食事をされた時・・・

また『日本書記』には皇后が筑後山門縣の土蜘蛛の田油津媛を誅殺した記事もあります。これらの地名が倭人伝中の国を意識したものであることはいうまでもないでしょう。このことから新井白石は神功皇后を卑弥呼だと考えて、1716年に著した『古史通或問』で、応神天皇の生まれた宇美を不弥国に比定し、鎮懐石のある伊斗村を伊都国に比定し、末羅県を末盧国に比定しました。

投馬国は備後鞆の浦、邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、投馬国は肥後玉名郡、または託麻郡に、邪馬台国は筑後山門郡に変えています。

最近では邪馬台国問題に考古学が参入したこともあり、卑弥呼を神功皇后とする説は影が薄くなっていますが、倭人伝の地理記事に関しては新井白石の考えが通説になっています。畿内説も投馬国を備後鞆の浦、邪馬台国を大和とする新井白石の考えをほぼ継承しています。

しかしこの通説はそれ以外には考えようがないので通説になってはいるものの、「鎮懐石伝承」は明らかに創作されたものです。そこから導き出された通説に矛盾のあるのは当然のことです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を合成したものが天照大御神であることを知っています。

私は九州王朝が存在したとは考えませんが、大和朝廷と九州土着勢力との間に感情的な対立があり、時には反乱に至ったと思っています。九州土着勢力が卑弥呼・台与を天照大神とするのに対し、大和朝廷内部には神功皇后とする考え方があったようです。それには14代仲哀天皇の九州での死や、15代応神天皇の即位が関係しているようです。

仲哀天皇と応神天皇との間に空位期間があり、その間に神功皇后が摂政として政務に当ったのは事実でしょうが、皇后の三韓征伐はなかったと思います。三韓征伐には斉明天皇の朝鮮半島出兵のための筑紫遷都が反映しているようです。

九州には斉明天皇の朝鮮半島出兵を批判する声があり、出兵を正当化するために神功皇后の三韓征伐の前例があるとされているように思われます。斉明天皇と天照大神(卑弥呼・台与)を合成して神功皇后の事績が創られたようですが、その三韓征伐と応神天皇の出自が結び付けられているようです。

応神天皇は招請されて筑紫から大和に来た天皇で、香坂王・忍熊王の反乱に見られるように応神天皇の即位に反対する者がいたようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を天照大神ではなく神功皇后とすることで、応神天皇の即位を正当化しようとしているようです。それは越前三国から招請された継体天皇の前例になっていとされているようです。

今日の宇美を不弥国とし、糸島郡を伊都国とし、松浦郡を末盧国とする通説は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする地名説話から生れたものに過ぎず、それは創作されたものであり、そこから導き出された通説に依拠すると矛盾が生じます。

2010年11月21日日曜日

纒向遺跡 その4

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡に、北部九州では出土せず近畿とその周辺で出土するものがあり、北部九州と近畿とその周辺を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」があるとされています

畿内説では二世紀末の倭国大乱の時点で九州と畿内はすでに統合されており、西日本一帯を支配する統治機構が存在していることになって、終末期~古墳時代初頭の「二つの地域社会」が説明できません。3世紀後半に「二つの地域社会」が統合されたことが考えられます。

弥生時代終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が存在していたか、あるいはそれ以前に統合された民族国家の倭国になっていたのかが、畿内説と九州説の分かれ目になると思っています「二つの地域社会」が存在していたとするのが九州説であり、すでに統合されていたとするのが畿内説になります。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものです。北部九州の部族は銅矛・銅戈を配布し、近畿を中心にした地域の部族は銅鐸を配布しました。

上の図は後期前半の分布状態で、中国・四国地方に銅剣・銅鐸が分布していることが示されています。下の図は後期後半の分布状態で中国・四国北部から青銅祭器が姿を消し、四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しています。

私は上図と下図の境を180年ころだと考えています。つまり倭国大乱の結果、中国・四国地方から青銅祭器が姿を消し、四国東南部で銅矛と銅鐸の分布が交錯するようになる考えます。

四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しているのは、終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が四国で対峙していたことを表しているようです。全ての青銅祭器が姿を消すのは270年ころに部族が統合され大和朝廷が成立したことで、対峙が解消したということでしょう。
銅鐸の分布圏が統合されるについては2段階があり、第Ⅰ段階は投稿「その2」で紹介した『日本書紀』第二の一書の三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属する物語になっています。

私は神話の神は青銅祭器を用いた部族・宗族だと考えていますが、大国主を中国地方に多い古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島などに多い近畿4・5式など新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族だと考えています。

「大和の国譲り」の神話では讃岐・紀伊・筑紫・伊勢・阿波・出雲の忌部が定められたとされていますが、筑紫と出雲以外は近畿4・5式銅鐸の分布圏です。「大和の国譲り」で下図の近畿4・5式銅鐸が分布している四国東部から紀伊半島、及び大和の南部が、北部九州で発生した物部・中臣氏の統治下に入るようです。

第2段階は投稿「その3」で述べた神武天皇の東遷で、大和盆地南部の葛城山、畝傍山・三輪山周辺を中心にして、近畿式銅鐸の分布圏が統合されたことが語られています。また東海の尾張氏や近江との接触もあり三遠式銅鐸の分布圏も統合されるようです。

卑弥呼の死、台与の即位は247年ころですが、大和朝廷の成立は倭人が遣使した266年の直後の270年ころになると思っています。その差は20~30年ですが、その間に大物主の「大和の国譲り」や神武天皇の東遷があったようです。

この20~30年の年代差を考古学で立証するのは不可能かもしれませんが、3世紀の後半に弥生時代が終わり古墳時代になるとされていますし、青銅祭器が姿を消すのもこのころです。『日本書記』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、これも大和朝廷の成立に何等かの関連があると考えるのがよさそうです。

畿内説は神武天皇の東遷や初期天皇の存在を、三角縁神獣鏡や古墳、あるいは年代の操作で摩り替える「神話の否定論」でもあるようです。考古学は実証を重んじる学問で、神話や初期の天皇の存在を否定するので説明できず、あえて避けられているような感じを受けます。

2010年11月14日日曜日

纒向遺跡 その3

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間があります。この空位期間は、東征以前から神武天皇に従ってきた中臣・忌部・猿女など天神系氏族と、東征後に服属するようになった大神・賀茂など地祇系氏族との間に大王位(天皇位)を巡る抗争があったためでしょう。

沼河耳(ぬなかわみみ、綏靖天皇)の異母兄の当芸志美美は、神武天皇の東遷に九州から同行して朝政を自由にしていましたが、神武天皇が死ぬと沼河耳を殺そうと計画します。このことを母から聞いた沼河耳は葬儀が終わるのを待って逆に当芸志美美を殺します。

大和朝廷が成立しても、その初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いで神武天皇の殯(もがり)が三年間に及んだのでしょう。『日本書紀』はこの殯を「山陵の事」と記していますが、この三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。

死者が埋葬されるまでの殯の期間に後継者が決まり墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。箸墓古墳が造られる間に弔問した者の間に定型化された墓、つまり前方後円墳が築造されるようになるようです。

綏靖天皇の母は美和(三輪、大神神社)の大物主の孫娘で、賀茂氏の祭る事代主の娘の伊須気余理比売(古事記)とされています。綏靖天皇と大神・賀茂氏との関係が強調されていますが、これは神武天皇との関係でもあります。

7人の乙女が高佐士野(たかさじの)で遊行しているのを見た神武天皇は、先頭の伊須気余理比売を妻にすることにします。高佐士野が何を表し、その場所が何処なのかは分かっていませんが、綏靖天皇の誕生について『古事記』が次のように記しています。

是に其の伊須気余理比売の家、狭井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして一宿御寝座しき。・・・然してあれ坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱

7人の乙女は大神氏・賀茂氏・磯城県主など、大和盆地の土着豪族を表していると見ることができそうです。神沼河耳命が綏靖天皇ですが、狭井河は大神神社の摂社、狭井神社の北側を流れる川で、母の伊須気余理比売の家は大神神社の東北の台地にあったと伝えられています。

狭井神社と箸墓古墳は二キロほどしか離れておらず、箸墓古墳は綏靖天皇の母の家の庭のような場所です。私は高佐士野を「高い桟敷のような野」と解釈し、三輪山西麓の「山の辺の道」の光景と見るのがよいと思っていますが、伊須気余理比売の家が狭井河の川上にあるということからのイメージで根拠はありません。

いずれにしてもこの物語には神武天皇と大神氏・賀茂氏など大和土着の勢力との間に縁戚関係が生じたことが語られているようです。2代綏靖・3代安寧・4代懿徳天皇の妃を出した磯城県主は磯城郡の支配者ですが、この時に神武天皇と磯城県主との関係も生じるのでしょう。

橿原市大字洞にある現在の神武天皇陵は、神武田(じんぶでん、ミサンザイ)と呼ばれていた、田の中にある高さ3~4尺(1メートル程度)の小さな丘だったようです。それが文久3年(1863)に神武天皇陵とされ、その後拡大・整備されたということですが、綏靖天皇紀から考えられるような盛大な葬儀は想像できません。

通説では箸墓古墳の築造は260~280年ころとされていますが、これは私の考える神武天皇の即位時期、つまり大和朝廷の成立時期と一致します。大和朝廷が成立したことにより「氏姓制社会」になり、古墳が築造されるようになるのでしょう。

箸墓古墳は大神氏、賀茂氏など伊須気余理比売に関係する氏族や、磯城県主の祖が、当芸志美美を擁立しようとする中臣・忌部・猿女氏など天神系氏族に対抗して、綏靖天皇を大王に擁立するために造った神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書記』は神武天皇の別名を「神日本磐余彦天皇」としていますが、これは「磐余の男」という意味で磐余は箸墓古墳のある磯城郡の地名です。大和朝廷の成立に纒向遺跡が係わっていることが考えられます。

2010年11月8日月曜日

纒向遺跡 その2

『日本書紀』第二の一書は大国主の出雲の国譲りの後に、三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属したとし、この時に「天の高市」に八十万神(やそよろずのかみ)が集められ、大物主は八十万神を率いて天(高天が原)に昇り、高皇産霊尊に誠意を示したと述べられています。

このことは『古事記』にも『日本書記』の他の一書にも見えませんが、大国主と大物主が別神になっています。大国主の出雲の国譲りの神話はよく知られていますが、大物主の「大和の国譲り」のことはあまり知られていません。

この神話は畿内説では完全に無視されていますが、八十万神が集まったという「天の高市」は律令制大和国高市郡に由来すると考えられています。高市郡には式内社が54坐ありますが、そのうちに高市を冠したものが3坐あります。

高市御縣坐鴨事代主神社 橿原市雲梯町
高市御縣神社        橿原市四条町
天高市神社          橿原市曽我町

橿原市雲梯町の高市御縣坐鴨事代主神社のように、高市郡は賀茂氏の祭る事代主に関係する土地のようですが、賀茂氏は葛城郡を本貫の地とする氏族です。高市郡の北隣りの磯城郡に纒向遺跡や箸墓古墳があり、近くの三輪山は大神氏の祭る大物主の神体とされており、磯城郡は大物主に関係する土地です。

9代開化天皇までの皇宮は高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり、鳥越憲三郎氏はこれを葛城王朝と言っています。10代祟神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇の3代の皇宮は磯城郡の三輪山周辺にあり、これを三輪王朝と言っています。

「天の高市」に集まった八十万神とは葛城山、畝傍山・三輪山周辺の宗族であり、後に大和盆地の南部が初期天皇の皇宮・陵墓の所在地になることを示唆しているのでしょう。纒向遺跡・箸墓古墳周辺は城上郡大市郷ですが、飛鳥・奈良時代には市場がありました。

高市もまた市場があったことに由来するのでしょう。「天の高市」は大和盆地の東南部に市場があったということで、単に高市郡のことだけでなく桜井市金屋の海柘榴市や、隣の磯城郡にある大市(纒向遺跡)の記憶も含まれていると考えます。

纒向遺跡は大和朝廷成立以前には市場や「寄り合い評定」を行なう広場になっていたが、葛城王朝・三輪王朝の政治の場に変わるのでしょう。纒向遺跡で出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもの、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。

その土器は研究者によって古墳時代初頭のものとされたり、弥生時代終末期のものとされたりする、庄内式と呼ばれている土器と並行する時期のもののようです。私はこの庄内式期の始まりを通説よりも20~30年新しく見て270年ころとし、このころ大和朝廷が成立すると考えています。

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡には北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土する小形重圏文仿製鏡などがあるとされています。そしてこれを北部九州と畿内を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」が成立していたとされています。

畿内説は北部九州と畿内が統合されていることが前提になりますから「二つの地域社会」は説明できません。「二つの地域社会」が併合されて大和朝廷が成立し、纒向遺跡が最盛期に入っていくと考えるのがよいようです。

場所によっては30%にもなるという纒向遺跡の外来土器は、纒向遺跡が大和朝廷の基礎の固まった葛城王朝の政治の場になったことを示していると考えるのがよさそうです。その始まりが大物主・事代主の「大和の国譲り」の物語になっているようです。

私は大国主を島根県加茂岩倉遺跡の39個など、中国地方に多い近畿2・3式などの古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島に多い近畿4・5式などの新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族と考えるのがよいと思っています。

神話は史実ではないとも言われますが、台与が即位した247年から間もないころ、「倭の種」の諸国を統一する動きが出てきます。その結果大国主の出雲の国譲りに続いて、大物主の「大和の国譲り」、あるいは神武東遷に語られているような史実があったと考えます。

2010年11月1日月曜日

纒向遺跡 その1

三角縁神獣鏡が畿内を中心して分布しているのは、初期の大和朝廷(葛城王朝)がその統治が及んだ地域に配布したからで、邪馬台国が畿内にあったということではないようです。纒向遺跡も邪馬台国や卑弥呼とは関係がなさそうです。

纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して出現すると考えますが、北部九州に女王を中心とする統治機構ができ、その影響を受けて大和盆地の東南部を中心とする新たな統治機構が出現するのでしょう。初期の纒向遺跡の性格については「出雲神在祭」が参考になると考えています。

小説家・思想家の白柳秀湖は出雲神有在祭がツングース族の「ムニャーク」という「寄り合い評定」、つまり有力者を招集して行なう「合議制統治」に似ているとしています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり国政論じ、それは統領の任免にまで及んだということです。

江上波夫氏は匈奴では遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会が開かれ、それには匈奴国家を形成する全部族が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたとしています。

島根県荒神谷遺跡の380、加茂岩倉遺跡の39個という大量の青銅祭器については、匈奴の例のように強制力のある「寄り合い評定」で埋納が決定され実行されたと考えていますが、青銅祭器は宗族ごとに1本(1個)が配布されたようです。

そうすると出雲の「寄り合い評定」には419人、あるいはそれ以上の宗族長が参集したことになりますが、これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったでしょう。

ツングース族の「ムニャーク」で族長がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたことが考えられます。ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られたということです

纒向遺跡も巻向川・烏田川の扇状地にありますが、大和朝廷成立以前にはこの扇状地に通常は市場で、非常時には「寄り合い評定」を行なう広場があったと考えます。纒向遺跡の位置は律令制の城上郡大市郷に当たりますが、大市は飛鳥・奈良時代に市場があったことに由来すると言われています。

古墳時代に入ると纒向遺跡は初期大和朝廷の政治の場になり、後に政治の場は南の飛鳥に移るようです。市場としての機能も、より政治性の強いものは飛鳥に近く紀伊や伊勢との交通に便利な桜井市金屋の海柘榴市に移り、生活に密着したものが纒向に残って、大市郷という郷名が生れると考えます。

石野博信・関川尚功氏は纒向遺跡の土器を1類~5類に類別されていますが、1類は「畿内第Ⅴ様式」に、2~4類は「庄内式」に、5類は「布留Ⅰ式」に並行するとされ、石野氏は1類を180~210年ころとされています。

石野氏は纒向遺跡を「2世紀末に突然あらわれ4世紀中ごろに突然消滅した大集落遺跡」と言っていますが、畿内の年代は20~30年程度古く見られていると感じています。纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して現れ、4世紀後半以後の天皇(13代成務天皇以後)が近江や河内など、大和以外の土地に本拠を移したために消滅するのでしょう

纒向遺跡では初期の遺構は少なく、集落も環濠もなく出土したのは銅鐸片と二つの土坑のみとされ、その最盛期は3世紀終り~4世紀初めとされていますが、最盛期は20~30年程度新しく見て、4世紀前半とみるのがよいと思っています。

大和朝廷が成立するのは270年ころで、それは纒向式2類のころだと思っています。纒向式1類の時期の纒向遺跡は平常時には市場だが、非常時には有力者が集まって「寄り合い評定」をするための広場だったと考えます。

卑弥呼の宮殿ではないかといわれている纒向遺跡の大型掘立柱建物の柱の間には、南北方向に床を支えるための細い束柱があり、建坪以上に多人数を収容する構造になっていたようです。その建物は平城京の大極殿に相当する施設でしょう。

初期の天皇は地方豪族の棟梁に過ぎず、その皇宮も粗末で大型の建物が必要になり、纒向式1類の時期には市場や「寄り合い評定」の場になっていた纒向に大型の建物が建てられ、その建物は今の国会議事堂のような役割を果たしていたと考えます。